経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 小宮山氏ら❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 片手千人斬りの土屋氏、ら❗ ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


☆ 浅間山の噴火と、武田家の滅亡❗ ;


1582 ; 一期 イチゴ 、半分 、

な、 1582年でもある、

天正 ➕年、 の、 3月に、

雪村こと、 真田信繁氏が、 16歳の折に、

武田家は、 滅亡の時を迎えました。


すでに、 2月1日に、 木曾の木曾義昌氏、

同14日に、 信濃は、松尾の、 小笠原信嶺氏、

同25日に、 駿河は、江尻の、穴山梅雪氏ら、

な、 武田氏への重臣らが、 次々と、

裏切る一方で、

織田信長氏、と、 徳川家康氏や、

北条氏政氏の軍勢らが、

武田領に侵攻を開始。


この事態に、 真田昌幸氏は、

主君な、武田勝頼氏へ、 本拠の、

新府城を離れることを献策します。


「 甲斐本国も危うくなった今、

それがしの領地、 上野吾妻の、

岩櫃城にお移りくださいませ。

上野沼田城には、 わが弟、 信尹

( 加津野昌春氏 ) 、 信州戸石城には、

わが嫡男、 信幸、 叔父の矢沢頼綱が入って、

東西を固め、 岩櫃城には、

それがしがお供いたします。

3千、5千の軍兵があれば、

3年や、5年は、持ちこたえられます 」 。


新府城は、 1581年な、

天正 9年 、に、 武田勝頼氏が、

真田昌幸氏へ、築城を命じた、

と、 されますが、 異説も、 あるようです。


甲斐の七里岩台地な上 ; ( 韮崎市 ) 、

に築かれた、 巨大な城でしたが、

いかんせん、 築き始めてから、 間がなく、

完成には、 至っていませんでした。


一方の岩櫃城は、

吾妻の難攻不落の山城。


沼田城を経由して、 越後の、 上杉氏 ;

( 当時にては、 武田とは、 同盟関係 ) 、

と、 連絡を取り合うことも、 可能で、

上杉勢からの援軍も期待でき、

いざとなれば、 上杉領へ脱出することも、

できました❗ 。


昌幸氏は、 ここに、 勝頼氏らを迎え、

戦局の潮目が変わるのを待つ❗ 、

ことを勧めたのです。


昌幸氏の進言を、 勝頼氏は、

受け入れました。

昌幸氏は、 2月28日、に、

勝頼氏を迎える準備をするために、

岩櫃城へ、先行して向かいます。


ところが、 勝頼氏は、 その後に、

岩櫃城へ赴くことを中止し、

甲斐国内の小山田信茂氏の、

岩殿城に向かうことへ方針を転換しました。


『 甲陽軍鑑 』、 によると、

勝頼氏への側近の、 長坂釣閑氏が、

「 外様の真田は、 信用ならない。 むしろ、

甲斐を離れず、重臣・小山田信茂の、

岩殿に拠るべき 」 、 と、 勧めた、

と、 いいます。


しかし、 勝頼氏の心を変えたのは、

真田への不信ではなく、

気象条件であったかもしれません。


実は、 2月24日に、 上信国境の、

浅間山が、 噴火したのです❗ 。


古来、 浅間山の噴火は、

甲斐・信濃の人々にとって、 凶兆とされ、

浅間山に近い岩櫃に向かうことを、

勝頼氏がためらった、

可能性は、 ありそうです。


実際に、 浅間山の噴火は、

滅亡へと向かう武田にとって、

凶事以外の何ものでもなく、 それが、

織田信長氏の工作による、

武田勝頼氏への、 「 朝敵 」 、 とする、

指名と、 織田軍の武田領への侵攻と、

同じ頃合いであった、が、ために、

武田家中も、 領民も、 激しく、

動揺しました❗ 。


勝頼氏の運が尽きた、 としか、

いいようが、ありません。


3月3日に、 新府城を焼いて、

岩殿城へと向かう、 勝頼氏らな一行。


ところが、 肝心の小山田信茂が、

織田方に寝返り、 岩殿城に通じる道を、

封鎖した上で、 鉄砲を撃ちかけました。


その時には、 勝頼氏に従う人数は、

40人ほどにまで減っていた、

と、 いいます。


結局は、 勝頼氏は、かつて、

室町時代に、 武田家の第13代の、

武田信満氏が自害した、 天目山へ向かい、

織田軍の追っ手にかかって、 3月11日に、

天目山ふもとの田野で、全滅します。

ここに、 武田家は、滅びました。

@ 信繁氏らの脱出、信幸氏の将器 ;


一方で、 新府城にいた真田信繁氏らな、

真田昌幸氏の家族は、 どうなったのか。


武田勝頼氏は、 新府城を去る前に、

人質であった、 彼らを解放し、

信繁氏への兄な、信幸氏へ、馬と太刀を与え、 「 昌幸の忠誠は、死んでも忘れぬ 」

、と、 語った、 と、 いいます。


彼らは、 勝頼氏が去った直後に、

新府城を発って、上州岩櫃城を目指しました。


新府城から岩櫃城へは、 徒歩で、

3日の行程と、 大河ドラマ内で、

紹介されました。


一行は、 2百人前後であったようですが、

各地で、 一揆が起こっているために、

その人数でも、安全とは、いえません。


そして、 途中で、関東の各地から集まって、

千人近くにもなった野盗の大集団と、

遭遇してしまいます。


この時に、 一行の指揮を執ったのは、

信繁氏の兄な、 真田信幸氏でした。


折よく、 その父な、昌幸氏が、

迎えに派遣した、70人が合流していた、

ために、 信幸氏は、 一行を、3隊に分け、

一隊を、 野盗集団の背後に回し、

織田軍を装って、 一斉に、旗どもを掲げ、

鬨の声を挙げます❗ 。


野盗たちは、 これに驚き、

真田勢の抵抗の前に、ろくに応戦もせず、

逃げ去りました。

おそらく、信繁氏も奮闘した事でしょう。


それにしても、 この時に、 17歳の、

信幸氏が指揮して、

野盗の大集団を撃退したことは、

信幸氏の将器を窺わせます。


大河堵覧 ドラン ; ドラマ ; 、 の、

「 真田丸 」、 では、 当然ながら、

主人公である、 信繁氏の軍才が、

強調されますが、 信幸氏の器量もまた、

並大抵のものでは、 ありませんでした。


その後に、 昌幸氏が派遣した、

鎌原重春氏らな、 6百人が、一行を迎え、

真田の家族は、 無事に、 7日に、

岩櫃城にたどりつくのです。


しかし、 武田家という、

強大な後ろ盾が滅んでしまった、

真田家にとって、 信州は、小県から、

上州は、 吾妻、 と、 沼田に至る、

領土を、 いかに守っていくのか。

本当の戦いが、 ここから始まる、

ことになります。



☆ 武田側から、 織田側への、

寝返りを成した、 豪族員らの内でも、

木曽氏らは、

武家員ら、の、 約束事の通りに、

武田家へ差し出した、 人質ら、

などを犠牲にする、 形で、

言わば、 合法に、

織田方への、 寝返りを、

堂々と、 成しており、

勝頼氏らへの、 より、

土壇場に成ってからの、

騙し討ちに類する、

行為らを成した訳では、ない、

ので、

織田信長氏から、 処罰される、

などの事も、なく、

その所領を安堵されるなどしてある、

のに対して、

小山田信茂氏は、

設楽ヶ原の戦いにおいては、

早々に撤退して、 戦線を崩した、

武田信廉氏や、穴山信君氏らの、

一門衆とは、 反対に、山県昌景隊、の、

後備として、 最前線で、 戦い続け、

勝頼氏を逃がす際も、

勝頼氏を、 側近くで、守りつつ、

撤退し得た、 ものでもあったが、


・・小山田信茂氏の離反に関して、

武田側の史料では、まず、

『 甲陽軍鑑 』、 に拠れば、

勝頼氏らな一行は、 郡内領への入り口な、

鶴瀬 ( 甲州市 大和町 ) 、 において、

7日間を逗留し、 信茂氏からの、

迎えを待っていたが、 3月9日の夜に、

信茂は、 郡内領への道を封鎖し、

勝頼氏の一行に対して、 木戸から、

郡内への退避を呼びかける、と、 見せかけ、

信茂の従兄弟な、小山田八左衛門と、

勝頼氏への従兄弟な、武田信堯

( のぶたか )、が、 信茂からの人質らを、

郡内へ退避させ、 信茂は、

勝頼氏の一行へ、 虎口から、

鉄砲を放った❗ 、 という。


信堯は、 その正室が、 御宿友綱氏の妹で、

信茂とは、 相婿の関係にある。


『 武田三代軍記 』、 『 理慶尼記 』、

でも、 同様の話を記し、 『 理慶尼記 』、

では、 信茂の離反を、 7日の出来事とし、

信茂が、 郡内への入り口を封鎖した地を、

笹子峠 ; ( 大月市・甲州市 ) 、

としている。


織田・徳川方の史料では、

『 信長公記 』、 では、 勝頼氏は、

小山田の館まで、 辿り着いたが、

信茂は、 勝頼氏の使者をはねつけた、

と、 簡潔に記し、

『 三河物語 』、 では、

小山田八左衛門が登場し、 勝頼氏が、

郡内領へ逃れる途中に、 八左衛門を、

信茂のもとに派遣したが、 帰還せず、

信茂の離反を知った、 という。


織田・徳川勢により、

甲斐が平定された後で、 信茂は、

嫡男を、 人質として差し出すために、

信長氏に拝謁しようとしたが、

その嫡男な、 織田信忠氏から、

武田氏への不忠を咎められ、

処刑された。


『 信長公記 』、 では、

3月7日の条 クダリ 、 に、 成敗した、

「 小山田出羽守 ( 信茂氏 」の名を記し、

『 甲陽軍鑑 』、 では、 武田信堯氏や、

小山田八左衛門氏らの名も記している。


『 甲乱記 』、『 甲斐国志 』、 に拠れば、

3月24日に、 甲斐善光寺で、 その、嫡男、

老母、妻、女子とともに処刑された、

という。 享年は、 44。

『 甲乱記 』、では、 3月11日の、

勝頼氏らの自害から、 13日後の事、

としている。

信茂氏の孫娘な、 天光院殿は、

天正 ➕年の、 武田氏の滅亡後に、

信玄氏の娘な、 松姫に連れられ、

勝頼氏の娘や、仁科盛信氏の娘らとともに、

武蔵国は、 横山村 ;

( 現・東京都八王子市 )、 に落ち延び、

松姫により、 育てられて、

磐城平藩主の、 内藤忠興への側室となり、

嫡男の、 内藤義概 ( よしむね ) 、氏らを、

もうけている。


などとあるが、

別の伝えによると、


信長氏が、見た、首だけに成った勝頼氏は、

片目を見開いて、天をにらみつけたままの、

無念の形相の凄まじい様を成しており、

・・信長公、 涙を落とし遊ばされ、

・・小山田の者らを、家来に、

討たせる時に、 その指らの一つ一つを、

切り落とさせてから、殺めさせた、

といったように、 記述してあり、


いずれにしても、

小山田氏員ら、は、 単に、

寝返った、 から、ではなく、

その主君らへの、 騙し討ちに類する、

裏切りようを否ましく思われて、

処刑されたようでは、あり、


信茂氏の祖父の代までは、

独立していた領主でもあり、

小山田氏らも、 武家員ら、の、

暗黙の、 正規の作法通りに、

堂々と、寝返りを成して、

勝頼氏らな一向へ、

隣国らへ逃れ得る、 道筋を、

より、開くなどし得て居れば、

木曽氏らのように、

諸々を安堵されるだけで、

済んだもの、 とも、思われる。


・・ 山道を登って行くと、

天目山は、 栖雲寺 ( せいうんじ ) 、

に至る。

この寺には、 武田家の第十三代の当主の、

信満氏の墓がある。

上杉禅秀の乱に加担して、

幕府軍に追われる身となり、この寺で、

自決したのだ。

 それから、 百65年後に、

第二十代の当主な、 武田勝頼氏が、

織田軍に追われて、 この道を登っていた。


天正 ➕年 ( 1582年 ) 、 の、

三月11日の朝であった。

 小山田信茂の反逆により、

岩殿城行きを断念した勝頼氏らな、

主従の五十余人は、

土屋惣蔵氏らの意見により、

天目山にて、 最後の一戦に臨まんとした。

 ところが、 敵は、 すでに、 深沢口 ;

( 甲州市は、 勝沼町 ) 、 より、

天目山に先回りしていた。


織田方の滝川儀大夫、

篠岡平右衛門の一隊であった。

 栖雲寺を目前にして、 勝頼氏は、

一夜を明かした田野の郷に、

引き返すことにした。

道は、 日川に沿った、 崖淵に、

人の一人が通れるだけの険阻なものだ。


武士たちは、 ともかく、

勝頼夫人と、 その侍女らには、

過酷なものであった。

皆が、 足を血まみれにして、

歩いていた、 という。


 引き返すに際して、 土屋惣蔵昌恒氏は、

殿軍を引受け、 道幅の最も狭まった所で、

織田軍を待ちうけた。


やがて、敵の先鋒が、土煙を上げて迫ると、

土屋惣蔵氏は、 岩角の藤蔓を片手で掴み、

太刀を片手で振るって、 寄せ来る敵を、

片っ端から、 斬り伏せ、

崖底の日川へ、蹴落とした。


川の水は、三日間を、 赤く染まった、

という。

まさに、 鬼神の如き、 奮戦であり、

土屋氏は、 『 片手 千人斬り 』、

の、 異名を宛てられる事になる。

 

勝頼氏の一行が、 田野の鳥居畑に、

柵を結い、 形ばかりの陣を構えた頃、

惣蔵氏は、 主君の側で死ぬべく、

引き返す。

 やがて、 鳥居畑の陣に、織田勢が殺到し、

勝頼氏以下の全員が、 自決、または、

討死して果てた。


『 信長公記 』、『 甲乱記 』、

『 甲陽軍鑑 』、 によれば、

勝頼氏が、 滝川一益隊に、

天目山で追いつめられて、

自害を覚悟したとき、勝頼氏が自害する、

時間を稼いで、 織田勢と戦って、

奮闘したが、 最後は、 討ち死にした。

享年は、 27才。


『 三河物語 』、 では、 徳川家の臣の、

大久保忠教氏は、

昌恒氏の活躍を賞賛している。


武田家の滅亡後の、同年の、10月9日には、

土屋民部少輔が、 高野山成慶院において、

昌恒氏への供養を行い、法名は、

「 忠叟道節大禅門院 」。


『 寛政重修諸家譜 』、 によれば、

子の土屋忠直氏は、 母に連れられて、

脱出し、 天正 16年 ( 1588年 )、に、

徳川家康氏に拝謁し、 家康氏の側室の、

阿茶局により、 養育され、

慶長 7年 ( 1602年 )、には、

忠直氏は、 上総久留里藩の大名となった。


@ 小宮山友晴氏 ;


1575年な、 天正 3年、の、

長篠の戦い以降、 武田勝頼氏への、

側近衆である、 跡部勝資、長坂光堅、

秋山摂津守らと険悪で、 長篠の戦いで、

敵前逃亡した、 武田信廉氏などの、

御親類衆に対しても、 厳しい態度で臨み、

時折は、 非難した、 という。


長坂氏の讒言、 等もあり、 勝頼氏からも、

疎まれ、 蟄居させられた、 という。


『 甲陽軍鑑 』、『 甲乱記 』、 によれば、

武田氏の御親類衆の、 穴山、 木曾氏が、

寝返り、 武田信廉氏や武田信豊氏が、

一戦も、弓を交えずに、 早々と逃亡する、

状況の中においても、

「 譜代の臣でありながら、

武田家の最後の戦いに臨めぬのは、

末代までの恥辱 」 、 であり、

「 御盾となり、 高思の、

万分の一にも報いたい 」、 と、

自身の忠節を貫く為に、

天目山に駆け付けた。


友晴氏は、奮戦するも、 衆寡敵せず、

鳥居畑で、 討ち死にを遂げた。


この時に、 三弟の、昌親氏も、

勝頼氏の下に駆け付けたが、 昌親氏は、

勝頼氏の命令により、 その家族を護って、

落ちのびている。

昌親氏は、 武田家の滅亡後は、

徳川家に仕えた。


友晴氏の弟で、 中山広厳院 ( 笛吹市 )、

の、 僧になっていた拈橋師が、

命運が尽きた勝頼氏の一行の、

遺骸を弔った、 と、 伝えられ、後に、

家康氏は、 この地 ( 甲州市は、田野 ) 、

に、 景徳院を建立し、 拈橋師を、

住持とした。

拈橋師は、 今に残る、 勝頼氏と、

運命を共にした、 「 殉死者 」、の、

法名の全てを付けた、 と、されている。


@ 北条夫人 ;


北条氏康氏の6女として、生まれ、

14才で、 32才の勝頼氏のもとへ、

嫁いで来た、 北条夫人・・、

新しく建築した新符城 ( しんぷじょう ;

山梨県は、韮崎市 )、に、

家族➕家臣らとともに移り住む勝頼氏・・。


金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、

城郭を造らなかった信玄氏から、

脱皮するような、 甲斐 ( 山梨県 )、 で、

初の本格的な城郭でしたが、

その引越しから、 わずかに、

1ヶ月後の正月に、 信濃は、 福島城主の、

木曽義昌氏が、寝返ります。


この寝返りは、 武田方に、

大きな痛手となります。


なんせ、 この義昌氏の奥さんは、

勝頼氏の妹な、 真理姫 ( 真龍院 )、

・・それこそ、 戦国の世のならい、

とは言え、 「 身内まで寝返るか❗ 」、

という、 所懼 ショグ ; ショック ;

、 を、 周囲に与えてしまった事は、

拭えません。


ここに来て、 さらに、 離反は、

後を絶たなくなります。


そんな時、北条夫人は、 その、

揺るぎない心を見せつけてくれます。


現在にては、 山梨県にある、

武田八幡宮には、 その年の、

2月19日の日づけで、北条夫人が、

夫・勝頼氏の武運を祈って捧げた、

自筆の願文が、 残っています。


逆臣 ( 義昌氏の事 )、への、

討伐に向かった夫の勝利と、

相次ぐ離反を差し止めさせてください、

という、 願いとともに、

「 夫同様、私も悲しい・・、

涙がとめどなく流れています 」

、 と、 切々と訴えています。


武田の菩提寺である、

恵林( えりん )寺の、

心頭滅却すれば、 火もまた、涼し❗、

の、 快川( かいせん ) 和尚は、

北条夫人の事を、 『 芝蘭 ( しらん 』

、 に例えて、

「 気高く慈愛に満ち、

知らず知らずのうちに、 いつの間にか、

周囲の人を良い方向へと導いていく人 」

、 と、 その人となりを絶賛しています。


芝蘭とは、中国の孔子が発した一節で、

蘭は、 フジバカマ 、 の事で、 芝は、

霊之( れいし )、 という、

老木の根っこに寄生する菌によって、

何とも言えぬ香りを放つ、 芳香剤として、

珍重される、あのレイシの事・・、

つまり、 目に見えない力を内に秘めている、

という事を言いたいのでしょう。


この願文から、 半月もたたない、

3月3日、 引っ越したばかりで、未だ、

準備の整わない、 新符城では、

織田➕徳川勢を防ぎきれない、と判断した、

勝頼氏は、真新しい城に火を放って、

重臣な、小山田信茂氏を頼って、

彼の岩殿城へと向かいます。


しかし、この城に近づいたところで・・、

なんと、勝頼氏らに向かって、

矢が放たれます。


そう、すでに、信茂も、

寝返っていたのです。

しかも、 この状況を知った者は、

一行の中からも、どんどん離反・・、

いつしか、女子供を含めた、

50人位の団体になってしまった勝頼氏は、

死に場所を求めて、天目山へと向かいます。


・・北条夫人は、

「 このような野原で、

果てることになろうとは、

予想もしませんでした。

こんなことになるならば、

韮崎で死ぬことができた身であるのに、

ここまで落ちてきて、

死ぬことになろうとは。

死後にも、 悔しさが残ることです 」

、と、 嘆じた。


勝頼氏は、

「 自分も、 そう思ったが、

小山田に騙されたのも、 あなたのことが、

可哀想だ、と、 彼に説得されたからなのだ。

なぜ、 ここまで来たかといえば、

都留郡は、 相模国に近いので、

どんなことをしてでも、 貴女を、

実家 ( 北条家 ) 、 に返し、 自分は、

潔く、死のう、 と、 考えたからなのだ 」

、 と、 告白した。


勝頼氏は、 何としてでも、

夫人だけでも、 助けたかった。


勝頼氏は、 北条夫人に、

小田原に帰国する様に、説得した。

実際に、 この時に付き随っていた、

家臣らが、 小田原に帰還し得た、

ことや、

北条氏と織田氏とが、

同盟関係を成していた事を考えれば、

織田方へ預けられても、 彼女は、

無事に、北条方へ送り届けられ得たろう。


しかし、

「 手を取り合って、

三途の川を渡りましょう・・、

そして、 ( 生まれ変わって )、

もう一度、 会いましょう 」

、 と、 彼女の決意は、 固かった・・。


『 理慶尼記 』 ;

北条夫人は、 「 自分は、

どんなに命じられても、

実家に帰ることは、 無い。

命ある限りは、 いうまでもなく、

死後も、 勝頼様と離れたくない 」

、と、 返答した。


彼女は、 ここまで従っていた者が、

一列に並ぶ中で、

「 立派に自害した事を、しっかりと、

小田原に伝えてほしい 」

、 と、 黒髪を一筋、

辞世に添えて、渡しています。


♪黒髪の  乱れたる世ぞ  はてしなき

  思ひに消ゆる  露の玉の緒 ♪


この時、

彼女への介錯の役を命じられていた、

土屋惣造 ( つちやそうぞう )氏が、

その余りの美しさに身動きできずにいると、 それを察した北条夫人は、自らの懐から、

剣を取り出し、 それを口に含んで、

前面に倒れこんだ、 と、 言います。


・・彼女は、

「 夫婦になった縁は、 来世までのもので、

ともに、 死出の山、 三途の川を超える、

覚悟がある 」、 と言って、 拒否した。

そして、 ( 勝頼氏の ) 、

子をなすことがなかったのが、

唯一の心残りだ、 と思い、

小田原の実家で、 菩提を弔ってほしい、

ことなどを、 文に認めた。


そして、小田原に付き随っていた家臣達に、

「 女性ではあるが、 早雲寺 ;

( 初代・伊勢宗瑞氏 )、 以来の、

弓矢の家に生まれた人間が、

情けない最期を遂げては、 恥辱であり、

小田原に帰って、

最期の様子を伝えてほしい 」、

と、 頼んだ。 辞世の句は、

もう一首があり、

『 帰る雁  頼む疎隔の  言の葉を 

持ちて相模の 

国府 ( こふ ) に落とせよ 』   ;


( 南に帰っていく雁よ、 私は、

勝頼様と運命を共にするので、 二度と、

故郷の相模に戻りません。

長い疎遠となる、 詫び言を、

小田原の母たちの元へ運んで下さい ) 。


4人の家臣らのうちで、 筆頭の、

剱持但馬守のみは、 残ったが、

3名は、 小田原に向けて、 脱出した。

『 甲乱記 』、 の著者も、

これに同行した、 と、 みられる。


まもなく、 かくして、 勝頼氏、 と、

北条夫人、 に、 嫡男の、 信勝氏は、

自害した。


勝頼氏は、 享年、 37、

北条夫人は、 19、

信勝氏は、 16 、 であった。


最後まで残った、土屋氏らな、

家臣らも、 戦いの中で、 主君の後を追い、

女性らは、 自害して果てた。

その人数は、 侍分が、 41名、

侍女らな、女性らは、 50人だった、

と、 記録されている ;

『 信長公記 』 。



☆ 戦国最強を謳われた武田家が、

瓦解を始める中で、 あくまで、

勝頼氏に従い、 武田武士の意地を見せた、

男たちもいました。

まず、 高遠城に拠って、 織田軍を相手に、

徹底抗戦したのが、 勝頼氏への異母弟な、

仁科五郎盛信氏です。


2月の末に、 織田信忠氏の率いる、

5万の兵に包囲され、降伏勧告を受けますが、

仁科氏は、 これを峻拒。

織田軍の総攻撃は、 3月2日に始まり、

仁科氏は、 3千の将兵で、

果敢に迎え撃ちます。 中には、 自ら、

得物をとって戦う、 武将の奥方もいて、

見事な戦いぶりを示した末、士卒が、

ことごとく、壮絶な討死を遂げました。


・・3月11日、 諸説があるものの、

秋山紀伊守や、 安倍加賀守らは、

敵を数度を撃退した、 と、 いわれます。

一方で、 岩櫃城で、

勝頼氏らの訃報に接した真田昌幸氏は、

悔し涙を流した、 と、 いわれますが、

悲しんでいる暇は、 ありません。

武田家という、 巨大な後ろ盾をなくした、

真田家は、 信州は、 小県から、

上州は、 吾妻、に、 沼田を領する、

国衆 、 と、 なりました。


この真田領を、 いかに守るかに、

知恵を絞らなければ、ならないのです。


実は、 昌幸氏は、

勝頼氏の死よりも前から、

北条と交渉をしていました。


これは、 武田への裏切りではなく、

気脈を通じる、 素振りを見せながら、

あらゆる可能性を探っていた、

と、 見るべきなのでしょう。


3月12日付の北条氏邦氏 ;

( 北条氏政氏への弟 ) 、が、

昌幸氏へ宛てた手紙が、あります。


そこには、

「 こたびの武田家のなりゆきは、

是非も、 ないことだ。 あなたのところへ、

箕輪 ( 上州は、 箕輪城主、

内藤昌月〈 まさあき 〉 氏 ) 、からも、

連絡がある筈だ。

北条家に忠信を尽くすのは、 今だ 」、

と、 昌幸氏の、 北条家、への、

随従を勧めています。


内藤昌月氏は、 信濃の保科正俊氏の子で、

内藤昌秀氏への養子。

武田家の上野への支配での、

奉行の一人として、 活躍しましたが、

この時期には、 昌幸氏よりも早く、

北条家に帰順しており、 北条氏邦氏は、

内藤氏を窓口にして、 真田昌幸氏をも、

帰順させようとしていたのでしょう。


しかし、 昌幸氏には、 やすやすと、

北条に従う気は、なく、

一つの駆け引きとして、

交渉を行なっていました。


というのも、 昌幸氏は、 ここで、

謀略を仕掛けた節があるのです。


『 加沢記 』、 によると、 昌幸氏は、

「 織田軍は、 次に、 小田原と、

越後に攻めかかる❗ 」 、 という、

風聞を流しました。


実際に、 織田軍は、 すでに、

上杉領を攻撃しています。


また、 織田と協力関係にある北条も、

信長の前では、 決して、 安泰ではない、

という、 揺さぶりをかけたのでしょう。


その上で、 昌幸氏は、上杉と北条の両方に、

援兵を請う、 密書を送りました。


つまり、 上杉・真田・北条が、

一丸となって、 織田に対抗しよう、

と、 持ち掛けたのです。


しかし、 これもまた、

昌幸氏の本心では、 ありませんでした。


昌幸氏は、 この密書を、わざと、

織田方の手に落ちるように、

仕向けたのです。


実際に、 密書を手にした織田信忠氏は、

驚きました。

「 北条、上杉、真田が、 同盟を結べば、

面倒なことになる 」 。


そこで、 織田方は、 昌幸氏、への、

懐柔に乗り出します。

実は、 この織田方からの接近こそが、

昌幸氏の狙いでした。


もとより、 昌幸氏は、 織田、への、

従属を決断していたのです。

しかし、

どうせ、 従属するのであれば、

できるだけ、 自分を高く売りつける、

そのための謀略でした。


相手に、 自分を高く売りつける❗ 、

という、 昌幸氏の姿勢は、 まさに、

彼の、 「 基本姿勢 」、 であり、

これから、 何度も、 現われてきます。


☆ 三橋貴明氏❗ ;


続 アベ・ショックが始まった


2019-12-23 7:6:14

三橋貴明オフィシャルブログ

「新世紀のビッグブラザーへ blog」


株式会社経世論研究所 講演・執筆依頼等、お仕事のご依頼はこちらから

三橋貴明のツイッターはこちら

人気ブログランキングに参加しています。


チャンネルAJER

『安倍内閣は「最悪の政府 三冠王」(前半)』三橋貴明 AJER2019.12.17

令和の政策ピボットの賛同者数が2万人を突破いたしました。

また、メルマガ「令和ピボットニュース」が始まりました。皆様、是非とも、メルマガ登録を!

三橋経済塾第九期の入塾申し込み受付を開始しました。


予習編として経世委史で好評を博した「MMTポリティクス 現代貨幣理論入門」(第一回~第三回)がご視聴頂けます。

三橋TV第176回【アベショックが始まった(後編)一人当たり年間15万円の消費税】



三橋TV第176回【アベショックが始まった(後編)一人当たり年間15万円の消費税】

 10月1日の消費税増税による経済失速が止まりません。


 日本百貨店協会が20日に公表した11月の全国百貨店売上高は、対前年比▲6%。10月の▲17.5%に続き、二か月連続のマイナス。

 特に、化粧品や衣料品など、軽減税率の対象外の商品の下落が目立っています。


 11月の消費者物価指数が発表になりました。

『11月の全国消費者物価、0.5%上昇 35カ月連続上昇

 総務省が20日発表した11月の全国消費者物価指数(CPI、2015年=100)は生鮮食品を除く総合が102.2と、前年同月比0.5%上昇した。上昇は35カ月連続。QUICKがまとめた市場予想の中央値は0.5%上昇だった。10月は0.4%上昇した。

 生鮮食品とエネルギーを除く総合のCPIは102.1と、0.8%上昇した。生鮮食品を含む総合は0.5%上昇した。』

 というわけで、最も固い消費者物価指数であるコアコアCPI(食料(酒類除く)エネルギーを除く総合消費者物価指数)と、実質賃金計算の際に使用する「持ち家の帰属家賃を除く総合」でインフレ率をグラフ化しました。

【日本のインフレ率の推移(対前年比%)】


http://mtdata.jp/data_67.html#CPINov19

 持ち家の帰属家賃を除く総合が08年にプラス化していますが、これはもちろん資源バブルの影響です。エネルギーを除くコアコアCPIがまともにプラス化したのは、21世紀に入って以降、何と2014年の消費税増税期しかありません。

 ところが、19年10月の消費税増税後は、14年時のように物価が上がっていません。


 コアコアCPIの対前年比は+0.5%でしたが、14年時は2%超の上昇を見せていたのです。

 なぜ、19年10月の増税のインフレ率上昇は「甘い」のか。

 中身を見てみると、やはり教育(▲7.8%)、授業料等(▲12.4%)、教育関係費(▲5.7%)と、幼児教育・保育の無償化の影響が見えます。

 とはいえ、逆に考えてみると、幼児教育・保育無償化の影響を受けない世帯は、確実に「物価上昇+実質賃金下落」に見舞われているということになります。

 

【歴史音声コンテンツ 経世史論】


http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

※2月15日まで、竹村公太郎先生の「日本文明の誕生~神話から歴史へ~」がご視聴頂けます。

 2019年10月の実質賃金速報値は「+0.1%」でした。つまりは無償化により実質賃金が上昇した世帯の影響が、そうではなかった世帯の悪影響を上回ったように見えました。


 が、確報値ではマイナスへ。

『10月の実質賃金、確報値は0.4%減 速報値から減少に転じる

 厚生労働省が20日発表した10月の毎月勤労統計調査(確報値、従業員5人以上)によると、実質賃金にあたる1人あたりの現金給与総額は前年同月比0.4%減と、速報値(0.1%増)から減少に転じた。基本給にあたる所定内給与は0.2%増の24万6236円だった。速報値は0.6%増の24万7118円となっていた。(後略)』

 プラスからマイナス化とは、相変わらず統計がいい加減としか表現のしようがありません。プラス幅やマイナス幅が変わったというならばまだしも、プラスのマイナス化はひどいです。(安倍政権、この手の下方修正が本当に多い。恥ずべき政権です)


 全体で▲0.4%ということは、子育て世帯ではない世帯は、より激しい実質賃金下落に見舞われていることになります。

 ちなみに、きまって支給する給与も対前年比▲0.1%に下方修正されました。結局、19年で実質賃金が対前年比で上昇したのは、9月のみ、という結果になりそうです。


 この状況で、五輪不況、7月再増税(ポイント還元終了)というネガティブなイベント目白押しの2020年を迎えなければなりません。


 安倍政権は、今回のアベ・ショックについて「外需のせい」と、責任逃れを図るでしょうが、許してはなりません。現在の日本国民の貧困化は、安倍政権の苛政の結果であり、人災なのです。

 緊縮財政による不況・再デフレ化、出生数の激減、国民の貧困化と分断の責任者は誰なのか。責任者を明確化するためにも、今回の災難は「アベ・ショックである」という認識を広く共有する必要があるのです。

「苛政の責任者を明確化し、責任を取らせよう!」に、ご賛同下さる方は、

↓このリンクをクリックを!


本ブログへのリンクは以下のバナーをお使いください。

◆関連ブログ

日本経済復活の会のホームページはこちらです。

◆三橋貴明関連情報

新世紀のビッグブラザーへ ホームページはこちらです。

メルマガ「週刊三橋貴明~新世紀のビッグブラザーへ~」はこちらです。



☆ ガン細胞たちは、

ブドウ糖だけ、 を、

唯一の、主な、栄養分としてあり、

糖質を制限する事を含む、

ビタミン・ケトン療法は、

ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、

ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、

ビタミン、たち、に、

ミネラル 、たち、を、 完全以上に、

飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、

一部の人々を除いた、

ほとんどの人々の健康性を成し続ける、

代謝ら、を、

完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、

これら、を、 より、 欠いてしまう事は、

万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、

より、 余計に、 成す事を意味する。


☆ Cancer cells

Only glucose,

As the only main nutrient,

Including restricting carbohydrates,

Vitamin / ketone therapy

Even if

you make cancer cells attack soldiers,

This will reduce

the possible degree of cancer.

With proteins,

Vitamins,

Minerals, more than complete,

Drink and eat, keep taking,

Excluding some people,

Keeps the health of most people,

Metabolism,

It ’s necessary to continue

to do more than perfect,

The more you miss these things,

Cause all kinds of illness,

possible degree,

More than that, it means to do it.


☆ いずれにせよ、

日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。


日本人たちには、核武装❗、と、地下避難網ら❗、が、より、日本の内外に、本格的な平和性らを成し付け得てゆく上でも、必要❗。


この事らを、 より、 日本人たちへ、

伝える措置を自ら成さない、 者らは、

より、 反日員としての、

負の度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを余計に成し、

より、 伝える措置を自ら成す主らは、

より、日本人たちの一般の、

足しに成り得る向きに、 働き得た主として、

正の向きの度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを成す。


差し引きで、 より、

どちら側であるかの、度合いを観積もられ、

その度合いらに相応しい処遇を、

宛てられるべき立場にも、

誰もが、ある。