経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

日本の芸能幹部らと、数千人以上の日本国民たちを監禁している、シナ

【 JASRAC などの、 シナ朝鮮らへ、 裏金を流して来てある、 とも、 おぼしき、

役人らの天下り員らが、 牛耳 ギュウジ る、

団体らによる、 著作権に託 カコ つける等しての、 日本国民らからの、 カネらの無理な収奪行為らが、 目に余る。


著作権の行使や、 それへの保護行為らも、

日本社会の主権者らの一般と全体に、 在るべき、

在り得る、 福利らの実現を、 妨げず、 未然にして、 阻害する事を成さない範囲内でのみ、

成されるべきものだ。


オレオレ詐欺らなどの、 経済犯罪らにも、

シナ朝鮮人らの関与が、 何度も、 報道されて来ており、

北朝鮮や、シナに、 韓国などの幹部らなどへ、

日本国民らの、 在り得る、 福利らが、 違法にも、

不当にも、 カネらとして、横流しされて来てあり、

菅官房長官が、 桃色クローバーZの事務所の社長だか、 会長だかの、 在日朝鮮人へ、

北朝鮮の幹部らとの仲介を求めて、 それと会見した事が、 報道されもした様に、

日本の芸能界の事務所方の幹部らの一定数も、

明ら様に、 日本国民らから収奪した、 カネら等の資本性らを、 シナ朝鮮らの幹部らの、

より、 贅沢な暮らしようらや、 その勢力性の度合いを維持し、増す事などの足しにするべく、 彼奴らへ流して来ていても、 当たり前な態勢らを成して観せてある。


日本国民たちの一般の側に立つ方の、

日本国民らが、

より早くに、 日本国民たちの足元の地下へ、

避難経路らと、住める避難所らとを作り拡げてゆく公共事業らを成して、 英米のカネ貸しらの側の者らから、 日本国民らへ押し付けられ続けて来てある、

日本政府の財政での緊縮を通しての、

デフレ不況性 、 を、 解消し去ってもゆく、

まともな、 日本政府を成し、 営み、 支え合いもしてゆく段階らを成してゆく状況においては、

こうした、 芸能界などの、 反日勢力員らの勢力性を増す代わりに、 日本国民らの一般と全体に、

在るべき、 在り得る、 福利らの実現を阻害する態勢らを成して来てある、 賊員らに対しては、

より早くに、 日本の内外の一般社会らから、 隔離して、 密入国への機会を与える事にもなる、

単なる、 強制送還などで済ます事をせずに、

日本国民らの監視の下で、 日本国民らへの賠償を 成す働きらを成す施設らへ入れるべきだ 】 。



ネット記事+論弁群+;


☆ SMAPの独立騒動を画策したといわれる、

“育ての親”の元チーフマネジャーの、飯島三智氏が、中国で、新会社を立ち上げた、 と報じられた。


 飯島氏は、 2011年の、

SMAPの北京コンサート以来、

中国の家電量販店の、 ラオックスの羅怡文社長と親交がある、 といわれ、

同社のバックアップで設立された、新会社の代表に就任した模様だ。


 昨年の1月の、 解散の報道後に、

「 飯島氏が、 中国の家電量販店の企業に、

バックアップを依頼した 」 、 という、

記事を、 実話誌に書いていたフリーライターの、

ハイセーヤスダ氏によると、


「 もとは、 中国の要人からの要請で、

ジャニーズ事務所の中国戦略となったそうですが、

任された飯島さんは、 ほとんどを、

ジャニーズを抜きで、 中国とのパイプを作り、

メンバーと、 当時の首相の、 温家宝の会談を設堵

≒ セッティング するまでになった 」。


 同年の8月ごろになると、

日本の芸能プロの関係者からも、 似たような話が聞かれるようになり、

ラオックスの名前も出ていたのだが、

ヤスダ氏は、

「 ただし、 韓国からも、 ラブコールがあって、

日本の韓流ブームにも貢献した人物が、

過去に、 草なぎ剛さんの出演のバラエティ番組の、 『 チョナン・カン 』 ( フジテレビ系 ) に協力した縁から、

飯島さんへの獲得に色気を出していた 」 、

という。


 そんな、 “飯島さんへの争奪戦”が、

海外で展開される中で、

当の飯島氏は、 元ジャニーズの赤西仁さんの他に、 中国で人気の、 山下智久さんなどにも、

接触していた、 という、 ウワサがあり、


10月には、 「 飯島氏が、ラオックスの企画を手伝っている 」、と話す、 テレビマンもいた。


まさに、 こうした情報も、

今回の新会社設立に至る、 序曲であったわけだ。


 ラオックスは、

日本の家電メーカーだったが、

量販店らたの競争に敗れ、業績が悪化し、

09年に、 中国企業に買収された。


その後は、 訪日外国人向けの免税店に、

力を入れ、 中国人観光客らの“爆買い”現象でも、

注目された。


「 逆に、 ジャニーズ事務所には、

飯島さんの後任となるような、 中国方面に強い、

スタッフがいないといわれ、

ターゲットを、 香港に変えて、 人脈作りをしていますね。

一説には、 内部に、 飯島さんに嫉妬する役員がいたことも、

SMAPの解散騒動の原因だといわれていますよ。


SMAP が、 北京でコンサートを開催したときに、

一部で、 『 客席ガラガラ、サクラ大量動員 』、 という、 妙な記事があったんですが、

出回った空席写真は、 もとから、 演出で、

客入れをしていないエリアだったり、

悪意のあるものでした。


飯島さんに反発する、 内部の人間が流した可能性は、あります 」 ( ヤスダ氏 ) 。


 いずれにせよ、

中国で、 国賓級の扱いを受けた飯島氏が、

そこを軸に、 新会社設立となれば、

芸能界での仕事を続けるということ。


そのために、 日本の大手芸能プロに、

バックアップを求めるなどして、 着々と、

再始動への動きも見せていた、 といわれるが、

日本の芸能界から、 冷たくされても、

市場が、 日本の3倍とも10倍ともいわれる、

中国大陸があるわけだ。


 去就が注目される、 SMAPの元面葉 ≒

メンバー 、 が、 もし、 そこに合流しても、

十分に、 商売は、 成り立つ。



SMAP の、 中国での人気は、 非常に高く、

日本の芸能文化自体、は、 現地でも、 高い知名度があり、 CDショップでは、 SMAPのアルバムが、 多く置かれ、 現地でも、 ヒットした、

「 世界に一つだけの花 」 は、 カラオケで歌うファンもいるほどだ。


 中国メディアで、 SMAPは、

「 天団 ( トップグループ 」 、 という形容で紹介され、

昨年の解散での報道も、 中国共産党の機関紙や、政府系ニュースサイト、に、 主要テレビ局でも、

大きく報道された。


ただ、 台湾人ジャーナリストの李銀珠氏いわく、

「 ドラマの影響で、 SMAPの中では、

木村拓哉氏の人気が、 ダントツな印象 」 、

という。


 いまだ、 決着がついていない印象の、

SMAPの解散騒動、渦中の人物が腰を上げたことで、緊迫度は、 より高まったといえそうだ。

(文=片岡亮記者/NEWSIDER Tokyo)



☆ 1990年代の音楽界を席巻した「ZARD」の、

ボーカルの、 坂井泉水さんが、

2007年の、 5月27日に、 40年の短い生涯を閉じて、はや、 8年の歳月が流れた。


昨年の末に、 小田急線・渋沢駅

( 神奈川県は、 秦野市 ) では、

同市と、ゆかりがある坂井さんを偲 シノ び、

「 駅メロ 」 に、 ZARDの曲が使われるなど、

死後も、 その功績が薄らぐことはない。



「 負けないで 」 や、 「 揺れる想い 」 などの、 ミリオンセラーを連発した華々しい功績とは、

裏腹に、

メディアへの露出が、極端に少なかった“歌姫”。

その知られざる素顔を改めて振り返ってみよう。



☆  謎に包まれた歌姫の生涯は、

最後の最後まで、 ミステリアスだった。


「 坂井泉水さんの転落死のニュースは、

所属事務所の発表を受けて、

テレビ局が、 臨時テロップで流した。

ただ、確認できた彼女の年齢は、 二つあり、

捜査員は、 年齢を確認するだけでも、

混乱したんです 」 ( 当時の捜査関係者 ) 。


 坂井さんは、 1967年の2月に、

神奈川県は、 平塚市で生まれている。


 坂井さんは、 2007年の5月26日の午前5時42分ごろに、 東京は、 信濃町の、

慶応義塾大学病院の非常階段の付近で、

大量の血を流して倒れているところを発見された。



スロープ状になっている、 高さが、 約3メートルの地点から転落して、

後頭部を強打した、と、 みられ、

発見後に、 救急病棟に運ばれたが、

翌る27日の午後3時すぎに、

脳挫傷のために死亡した。


 警視庁の、 四谷署では、 当時は、

事故と自殺の両面で、 捜査していた。


 「 手すり部分には、 手の跡が残っていた。

腰を掛けていて、 そのまま、 後方に転落した、

との見方が有力だった 」

( 前出の捜査関係者 ) 。


 坂井さんは、 06年の6月に、

子宮頸がんを患い、 全摘出手術を受けて、

回復の兆しを見せていた。


だが、 肺への転移が見つかり、

07年の4月から、 入退院を繰り返していた。


事故現場の非常階段は、

日課としていた散歩のコースだったようだ。


 そんな坂井さんのアーティストとしての経歴は、実に、 華々しい。


93年には、 シングルの、 「 負けないで 」 、

が、 164万枚を超える大ヒット。


その後に、 「 揺れる想い 」、

「 マイ フレンド 」も、 100万枚を突破した。

亡くなった、 07年の当時には、

CDや、 DVDの総売り上げは、 3600万枚を超えていた、 という。


 だが、 テレビ番組に出演したのは、 わずかに、

数回。

ファンの前に、 生の姿を見せたのは、

99年のライブと、 04年のライブ・ツアーだけ、

だった。


 ファンにさえ、実像をほとんど知られていない、

坂井さんだが、 その短い一生からは、

音楽への強いこだわりがうかがえる。



 坂井さんは、 神奈川県は、 秦野市内の、

小・中学校に通い、 1982年に、 県内の高校に進学する。 高校時代の親友が語る。


「 控えめな性格でしたが、

天然ボケのところがあって、 マイペースな子でした。 本名から、 『サッチ』と呼ばれていました。


歌手の大沢誉志幸さんの曲の、

『 そして僕は途方に暮れる 』 が、 好きで、

よく、 ノートに歌詞を書いていました。


授業中にも、 書いていたんですが、

先生が近くに来たのに、 彼女は、 まったく、 気がつかず、 先生に、 教科書で、 頭をポカンとたたかれていました 」 。


 スポーツも万能で、 高校時代は、

硬式テニス部に所属。

校内のミスコンで、 優勝し、

他校の男子生徒が、 のぞきにくるほど、

彼女の評判は広まっていた、 という。


 

「 高校1年のとき、 彼女は、 俳優の伊藤英明さんに似た先輩を好きになって、 告白したんですが、

なぜか、 フラれて、 相当、 ショックを受けていました。

『 サッチをフッたなんて信じられない 』、 と、 女子生徒から、 ブーイングがあがりました 」

( 前出の親友 ) 。


 3年生に進級すると、坂井さんは、

バンド活動に強い関心を示し、 周囲の友人に、

「 テニス部も、 夏で引退するし、バンドを組みたいな 」 、 と、 漏らしていた、 という。


「 バンドを組んでいる同級生に、 彼女は、

『 バンドに参加したい 』 、 と頼んでいました。 本人は、 かなり熱心でしたが、

どのバンドにも、 空きがなく、 実現しませんでした 」 ( 元同級生の男性 ) 。


 坂井さんは、 高校を卒業後に、

神奈川県内の短大に進学。

OL生活を経て、 芸能界入りする。

といっても、 そこは、 歌手とは畑違いの、

キャンペーンガールの世界。


89年には、 「 東映カラオケクイーン 」、

翌年は、 レースクイーンとして活動したが、

音楽への情熱は、 ますます高まっていた。


 当時の仕事仲間、タレントの岡本夏生さんは、

坂井さんと、 仕事帰りに行ったカラオケのことを、 よく覚えている、 という。


「 高橋真梨子さんのバラード 『 for you…』

を、 歌詞も見ずに、 気持ちを込めて、

歌っていました。

ふだんは、 10 話しかけても、 2 しか 返さないぐらい、 おとなしい子でしたが、

歌うときの自信に満ちた姿には、

歌手を目指す、 強い信念を感じましたね 」 。


 坂井さんが、 「歌手になるのが、夢なんです」、と、 大学ノートに、 ビッシリと書いた自作の詩を見せてくれたことがある、 という。


「 彼女は、 詩を書きためたノートを、いつも持ち歩いて、仕事の合間にも、詩を書いていました 」 。


 岡本さんは、 坂井さんから、

「 好きでもない男性に言い寄られて、

困っている。 恨まれないように、 うまくかわしたいんだけど、 どうしたらいい? 」 、 と

、 相談されたこともあった、 という。

恋愛については、歌ほど器用ではなかったようだ。


 そんな坂井さんも、 91年に、 ZARDのボーカルとして、 シングルの、 「Good-bye My Loneliness」で、 念願の歌手の仲間入りを果たす。



彼女の才能に目を付けたのが、

人気バンドの、 「TUBE」や「B'z」などを手掛けた音楽プロデューサーの、長戸大幸氏。


以後、 坂井さんは、 長戸氏の音楽事務所の、

「 ビーイング 」 に所属することになる。


「 当時は、 無名の歌手でしたが、

『 夜の番組で、 私の歌が使われるの 』 、 と

、 喜んでいました。


つやのある長い黒髪が、きれいで、

芸能人というよりは、 超美人のOL 、 といった印象でした。

芸能人であることを隠そうとして、 だてメガネをかけていましたけど、

レンズが入っていないので、

逆に、 目立っていました 」 ( 知人の美容師 ) 。


 93年には、 代表曲の、 「 負けないで 」 、 、が、 大ヒット。


そのころに、 ラジオ番組で対面した音楽評論家の富沢一誠氏は、 こう話す。


「 写真で見たイメージどおりの美人でした。

女性アーティストのなかには、

人気が出てくると、 おごりが見える人もいますが、 そんなところは、 なかった。

一つひとつの質問を受けとめて、

言葉を選んで話す。

文学少女のイメージが、ぴったりの女性でした 」。


●「美人」と言われ、 テレビが嫌いに;


 だが、ヒット曲を連発しても、

メディアへの露出は、 控えたままだった。


ファンの前に、 初めて、 生の姿を見せたのは、

デビューから8年後の99年の8月。

アルバム購入者を対象にした、

クルーズ客船での、 ライブだった。


「 このライブは、 彼女が所属する『ビーイング』の総帥、長戸氏が来場して、

坂井さんの、 かばん持ちをしていたほどの、

力の入れようだった。

リハーサル中も、 坂井さんが指示する、

照明や音響への注文も、いちいち聞いていた 」

( 芸能記者 ) 。


 坂井さんのように、メディア露出を控えることで、 “価値”を向上させ、

タイアップを駆使する戦略は、

当時は、 音楽業界で、 「 ビーイング商法 」

、 と、 呼ばれていた。


 この戦略は、 歌と私生活を大切にしたい、

という、 坂井さんの志向と重なり合っていたようだ。


 彼女の数少ない肉声が聞けるイメージビデオの、

「 Body Works 」 ( 大陸書房 )。

そのなかで、 坂井さんは、 こう話している。


「 仕事に入ってから、 自分が興味を持つ対象物が、 けっこう変わっちゃったなと。

( 友達と話す ) 話題や内容なんかが、違って、

話す機会が、少ないんです 」 。


 前出の親友も言う。


「 彼女は、 『きれい』とか、『美人』と言われるのが、 嫌で、 歌番組の共演者に、

『きれいな人』、と、 何度も言われて、

テレビ嫌いになった、と、 聞いています 」 。


 ミリオンセラーを連発しながらも、

坂井さんは、 派手な振る舞いを避け続けた。


人気の絶頂期の、 96年11月には、

東京の都心ではなく、 郊外の町田市に、一戸建てを新築。

40坪足らずの新居に、 親を呼び寄せたが、


「町内会に入ることも、近所付き合いもなかった」( 近所の住民 ) 。


 自宅には、 約105平方メートルもの、

地下階がある。


坂井さんは、 そこで、 歌の練習や作詞活動でもしていたのだろうか。


 また、プロモーションビデオ( PV ) を巡っては、 こんな話もある。


坂井泉水さんが残したPVを見ると、

彼女の横顔やうつむき加減の映像が、圧倒的に多いことに気づかされる。

PVの制作は、 通常、 シナリオに沿って、

アーティストが演技をして、 作品を完成させていくのが、 一般的だが、


「 坂井さんの場合は、 他のアーティストと、

まったく、 手法が異なっているんです 」 、


 そう語るのは、 1991年のデビュー以来、

坂井さんを撮り続けてきた映像制作担当者である。


「 レコーディングや、 何げない日常の風景を撮るために、 片隅で、 長時間、 カメラを回しました。

作りこんだ映像よりも、 自然体の彼女のほうが、

魅力的だった。

このため、 自然と、 横向きの映像が多かったのです。

本人も、そういった映像を気に入っていました 」。


 ロケで、 20時間も、 カメラを回しながら、

実際には、 1分程度しか、 本編で採用されなかったこともあった、 という。

作品に妥協しなかった、 という、

彼女のストイックな一面が、うかがえる。


「 PV というより、 ドキュメント番組に近い、

作りだと思います。

16年間で、 残された未公開映像は、

膨大な量になりました 」 。


 メディアへの露出が少ないためか、

街角で、 突然、 ファンに、 サインを求められる経験も、 少なかったようだ。

こんなエピソードもある。

シドニーのロケでの出来事だ。


「 坂井さんが散歩している姿を撮影していると、気がついた日本人の新婚カップルが、サインを求めてきました 」 。


 坂井さんは、 少し困ったような表情を浮かべて、映像制作担当者のもとに歩み寄り、

こう言った、 という。


「 こういうときって、 サインしてあげてもいいんですよね? 」 。


 この担当者が、

「 してあげればいいんじゃないかな 」、

と答えると、 うれしそうな様子で、 サインに応じた、 という。


 05年の末に、 小さな水族館を併設した、

東京は、 恵比寿のレストランで、 撮影をした。

海が好きな坂井さんは、 シチュエーションが、

とても気に入ったらしく、

「 今度は、 水族館で撮影したい 」 、 と、

自ら、 撮影を企画。

07年の4月には、 水族館でのロケを予定していた。


 だが、 撮影日の数日前になって、

坂井さんから、 撮影担当者に、一通のメールが届いた。

 〈 また、 治療のため、入院しなくてはいけなくなったので、撮影できなくなってしまいました 〉。


 子宮頸がんの摘出手術を受けたものの、

がん細胞が、 肺に転移していたのだ。


「 一度、 お見舞いに行きました。

彼女は、 もどかしかったでしょうね。

『 早く、 仕事がしたい 』 、 と。

いつも、 スタッフに心遣いをみせていた彼女は、 帰り際に、 ベッドから起きて、 わざわざ、

エレベーターの前まで、見送ってくれました。

それが、 坂井さんと会った最後でした 」 。


 前出のビデオで、 坂井さんは、

「 幸せとは? 」、 と問われて、こう答えている。


「 自分の好きなことを、一生やり続けていけることだと思います 」 。


 亡くなった年の秋には、

アルバムの発売と、 ライブ・ツアーを行う計画があった、 坂井さん。

闘病中も、 病床で、詩を書き続けていたというが、その一生は、 幸せだったのか。

やはり、 無念だったのか。


 いくら問うても、「永遠」に「君がいない」――。