経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

観念性の空間らの設定されよう 。 日本内外史略 ; 遣隋使

☆ 自らの回答の引っ越し保管と改訂など ;


sentdvさん

2009/ 12/19 1:25:18 ;


例えば、 「 4次元時空 」 、 といえば、

それは、 数学の便宜上のものです。

いわば、 相対性理論の計算の道具です。


それをもって、 4次元時空がある、 と、

言ってもいいし、 実体はないけど、

道具になる、と言ってもいい、と思われます。


一方、 「 りんご 」 、 は、 誰でも、 ある、

と、 言います。 食べたら、飲み込みます。



では、 「 電子 」 、や、 「 クォーク 」 、 は、

実際に、 物があるのでしょうか。

それとも、 便宜上の道具でしょうか。


補足 ; 聞きたいのは、 あるとすると、

何の矛盾もないものは、 全て、

実際にあるのか、 ということです。


実際に、 それは、 なくても、 あるように、

見えることってではないでしょうか。

うまく言えませんが、

何かが、 影を落としているように見えるが、

何かは、 実際にはなく、 あるのは、影だけ、

ということはないでしょうか。

例えば、 3次元で変化する物があったとします。 それは、 11次元で、こんな物だから,

その影だ、 と、 説明した時に、

本体は、 11次元に、 実際に、

あることになるのでしょうか。


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ベストアンサーに選ばれた回答


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bergflatさん


編集あり 2009/ 12/21 23:35:49 ;


字数の制限もあり、

( 丁寧な物言いは、 し難くなりますが ) 、

極初歩的な事柄に限って、記述してみます。


【 科学が物語る所によると、


我々の体を構成する物質らは、

原子の占める領域より、

さらに、 微々たる領域を占めるものらである、

と共に、

その各々の間を、

その大きさの何万倍もの距離のある、

空間に占められており、


いわば、

我々の体は、

はなはだ希薄な霧のごとき粒らの寄り集まり、

といった体 ( てい ) 、 の、 ものである、

事になるようだが、


ここで、

この、 微々たる物質ら、 にではなく、

それらを包み込んでいる、

膨大なる空間に目を向けると、

果たして、 この空間は、

不動で、 何もせず、

何もされない類の空間なのか、

あるいは、

重力などの、諸々の力の働きを伝える、

機能をそなえてある、 と共に、

何事かをなし、

何事かをなされる類の空間なのか、

それらな、 両者を重ね合わせ得た所のある、

空間性を帯びた何がしかなのか、


さらに、それに付加されるべき、

何かをも見出し得る、 何がしかなのか、と、

さまざまに、 思い構えて観るに当り、


我々の体内の、 諸々の物質らの間にある、

微々たる物質らに比べて、

遥かに膨大なる空間が、

第一に挙げたものである場合には、


我々が、 身じろぎをし、

歩いたり、 走ったりする、 時には、


我々は、 この空間を置き去りにして、

別の場を占めている、 空間、 との、

直近域へ入ってゆく事になり、


我々が、 移動してゆく事は、

そのまま、 ある領域を占める空間を、

我々が、 すり抜けてゆく事を意味し、


その場その場の空間が、 切れ目なく、

我々の体内の無数の隙間を、

すり抜けて、 置き去りにされてゆく、

事を意味する。



この第一の場合の空間は、

それが、 実在たる対象であっても、

実在たる対象でなくても、

そんな事に、 関わりは無く、


我々の精神の一定以上の作業の枠組みにおいて、

時系列の観念上の空間の諸相内の、

諸位置を、 連続化して観るに当たり、


無意識のうちに、 その前提たるものとして、

設定される、 観念上の空間であり、

直接的な諸感覚の対象には成らないものでもある。



何らかの運動態を、

空間の諸相の系列化において、

想い構えて観るに当たっては、


その基準となる空間は、

この第一の空間のごときもので、

十分であり、


余計な属性らなどを、 何も付与されずとも、

それで、 十分に、 その用を果たす、

という事である。


これは、

大カントの述べる類の空間の一種であり、


我々が、 空間内の、 諸物の動静を、

判断するに当たり、

時系列の観念上の空間の、

諸相同士を比べ合わせて観て、


その各々の相内の、 同一諸物同士や、

諸部分同士の、

位置の一致と不一致とを識別したり、


それらの様相の、 一致と不一致とを、

識別したりする際に、


その認識の脈塊 ( みゃくれ )、 を構築する上で、

どうしても、 要りようとなる、

余計な属性らの無い、 空間であり、


このての認識系を構築する上で、

その認識構築の作業の妨げになる、

余計な属性らを、 何一つとして、

持ち合わせぬように設定され、

性格付けられた、 観念的な空間であって、


我々の時空に絡む、 認識構築の作業を、

最も、 易々と成り立たせるのに適した、

性格しか与えられていない、

観念的な設定存在でもある。



我々の認識構築用の便宜的な設定を、

観念上に得た空間こそが、

我々が、 宇宙や身の回りの空間として、

想い構えて観る、 空間の第一位のものであり、


限りない宇宙の広がり等といったものとして、 我々が、 空間を想い構えて観る際にも、

我々は、 まず第一に、

この類の空間を観念した上で、


アインシュタイン氏流の、

相対的な空間を想い構えて観得る所に、

立場を占め、


第一位の認識構築用の便宜的な空間の諸相と、

時間的な持続の諸相と、

それらに内包される運動の諸相との、

相対的な諸関係を統括して観てゆく事を通して、


アインシュタイン氏流の、

物理的な運動の諸相と、

密接な相互作用の関係をもつ、

第二位以降の空間めいたものの相を 、

観念らの成り立ち合う系の主である、 我々が、

現前させて観るに至る事が、 可能となる 】 。




☆ 遣隋使 ( けんずいし ) 、 とは、


推古朝の時代に、

倭国 ( 俀國 ) 、 が、

技術や制度を学ぶために、 隋に派遣した、

朝貢使 、 ❔ 、 の、 ことをいう。


6百年でもある、 推古天皇の8年 ~、

618年でもある、 推古 26年 、 までの、

18年間に、 5回以上を派遣されている。


日本 、 という、 名称が使用されたのは、

遣唐使から、 だ 。


大阪の、住吉大社の近くの、 住吉津から出発し、

住吉の細江 ( 現・細江川 ) 、 から、

大阪湾に出、

難波津を経て、 瀬戸内海を、

九州は、 筑紫 、 の、 那大津へ向かい、

そこから、 玄界灘に出る。


倭の五王による、 南朝への奉献以来、

約 1世紀を経て、 再開された、

遣隋使の目的は、

隋帝国の文化の摂取が、 主であるが、

朝鮮半島での、 日本側からの影響力を、

維持する、 意図もあった。


この外交方針は、 次の遣唐使の派遣にも、

引き継がれた。



この派遣の第一回である、 6百年でもある、

隋、の、 開皇 20年 、 は、


『 日本書紀 』 、 には、 記載が、 無い。



『 隋書 』 、 の、 「 東夷傳 俀國傳 」 、

は、 隋帝国の初代皇帝で、 高祖である、

文帝の問いに、 遣使が答えた様を載せている。


「 開皇二十年 俀王 姓 阿毎

字 多利思北孤 號 阿輩雞彌

遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言

俀王 以天 爲兄 以日 爲弟

天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務

云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之 」 ;


開皇二十年、 俀王、 姓は、 阿毎、

字 アザナ 、は、 多利思北孤、

阿輩雞弥 、 と、 号 ナ 、 づく。


使いを遣わして、 闕 ケツ に詣 イタ る。


上 ≒ 隋の文帝 、

所司 ショシ 、 をして、 その風俗を問わしむ。



使者言う、 俀王は、 天を以て、 兄と為し、

日を以て、 弟と為す。


天未 イマ だ、 明けざる時、出でて、

政 マツリゴト 、 を聴く。


日出ずれば、 すなわち、

理務を停 トド めて、 云う、

我が弟に委 ユダ ぬ、 と。


高祖曰く、 此れ、 大いに義理なし。

是に於て、 訓 オシ えて、 之を改めしむ。



◇ 俀王 ( 通説では、 俀 、 は、

倭の誤りとする ) 。

◇ 姓の阿毎は、 アメ 、

◇ 多利思北孤

( 通説では、 北は、 比の誤りで、

多利思比孤 、 とする ) 、 は、

タラシヒコ 、つまり、

アメタラシヒコ 、 で、

天より垂下した彦

( 天に、 出自をもつ、 尊い男 ) 、

の、 意 、 と、 される。



阿輩雞弥、 は, オホキミ 、 で、

大王 オオキミ 、 と、 される。


『 新唐書 』 、 では、 用明天皇が、

多利思比孤である、 と、 している。



開皇 20年は、 推古天皇 8年にあたる。


この時に、 派遣された使者に対し、

高祖は、 所司を通じて、俀國の風俗を尋ねさせた。


使者は、 俀王を、

「 姓 阿毎 字 多利思北孤 」 、

号を、 「 阿輩雞彌 」 、 と云う、

と、 述べている。


ところが、 高祖からみると、

俀國の政治のあり方が、 納得できる物ではなく、

道理に反したものに思えたのであろう。

そこで、 改めるよう、 訓令した、

というのである。



第二回は、 『 日本書紀 』 、 に、

記載されており、


6百7年でもある、 推古 15年 、 に、

小野妹子 オノ・の・イモコ 、 氏 ≒

男性 、 が、 大唐❔国に、 国書を持って、

派遣された 、 と、 記されている。


倭王から、 隋皇帝の、 煬帝に宛てた国書が、

『 隋書 』 、 「 東夷傳 俀國傳 」 、に、


「 日出處天子致書日沒處天子無恙云云 」


( 日出ずる処の天子、 書を、

日没する処の天子に致す。 恙無しや、云々 )

、 と、 書き出されていた。


これを見た煬帝は、 立腹し、

外交担当官である、 鴻臚卿 ( こうろけい )

に、

「 蕃夷の書に、 無礼あらば、 また、

以て、 聞 モン するなかれ 」 ;


( 無礼な蕃夷の書は、 今後は、

自分に見せるな ) 、 と、 命じた、 という。


煬帝が立腹したのは、

俀王が、 「 天子 」 、 を、 名乗った、

ことに対してであり、


「 日出處 」 、と、 「 日沒處 」 、

との、 記述らに対してではない。


「 日出處 」 、や、 「 日沒處 」 、は 、

『 摩訶般若波羅蜜多経 』、 への注釈書の、

『 大智度論 』 、 に、

「 日出処是東方 日没処是西方 」 、

と、 あるなどし、

単に、 東西の方角を表す、 仏教用語だ。


ただし、 仏教用語を用いたことで、

中華的冊封体制に、 日本が、 無い、

事を、表明する表現であった、

とも、 考えられている。



小野妹子 ( 中国名: 蘇因高 ) 、 氏は、

その後に、 返書を持たされて返されている。


煬帝の家臣である、 裴世清を連れて、

帰国した、 妹子氏は、

返書を、 百済に盗まれて、 無くしてしまった、

と、 言明している。


百済 クダラ 、 は、 日本と同じく、

南朝への朝貢国であったために、

その日本が、 北朝の隋と国交を結ぶ事を、

妨害すべき、 動機は、 ある。


これについて、

煬帝 ヨウダイ 、 からの返書は、

倭国を、 臣下扱いする物だったので、

これを見せて、 日本の朝廷の人々の、

怒りを買う事を恐れた、 妹子氏が、

返書を破棄してしまったのではないか、

とも、 推測されている。



裴世清が持ってきたとされる書が、

『 日本書紀 』 、 に、 ある。


「 皇帝、倭皇に問う。

朕は、 天命を受けて、天下を統治し、

みずからの徳をひろめて、

すべてのものに及ぼしたい、 と思っている。

人びとを愛育したい、 という、 こころに、

遠い近いの区別は、ない。


倭皇は、 海のかなたにいて、

よく、 人民を治め、 国内は、 安楽で、

風俗は、 おだやかだ、 ということを知った。


こころばえを至誠に、遠く、 朝献してきた、

ねんごろなこころを、 朕は、 うれしく思う 」 。


「 皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高 等

至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇

思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇

知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂

風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢

丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也

故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別 」 ; 『 日本書紀 』 。


これは、 倭皇となっており、

倭王として、 臣下扱いする物ではない。


『 日本書紀 』 、 による、

これに対する、 返書の書き出しも 、


「 東の天皇が、 敬いて、

西の皇帝に、 白 モウ す 」 ;

( 「 東天皇 敬白 西皇帝 」 ;

『 日本書紀 』 ) 、 とある。


これをもって、 天皇号の始まりとする説もある。 「倭皇」を、 日本側の改竄とする見解もある。



裴世清が持参した返書は、 「国書」であり、

小野妹子氏が持たされた返書は、

「 訓令書 」 、ではないか、 と、 考えられる。


小野妹子氏が、 「 返書を掠取される 」 、

という、 大失態を犯したにもかかわらず、


一時は、 流刑に処されるも、

直後に、 恩赦されて、

大徳 ( 冠位十二階の、 最上位 ) 、

に、 昇進し、

再度 、 遣隋使に任命された事、


また、 返書を掠取した百済に対して、

日本が、 何ら行動を起こしていない、

という、 史実に鑑 カンガ みれば、

聖徳太子、推古天皇などの、

倭国の中枢員らと、 合意した上で、

「 掠取されたことにした 」 、

という事も推測される。



☆ 年表 ;

6百年でもある、 推古 8年 、

第1回の、 遣隋使を派遣。

この頃は、 まだ、 俀國は、

シナの、 外交儀礼に疎く、 国書も持たせずに、

遣使した。 ( 『 隋書 』 俀國伝 ) 。


6百7年でもある、 推古 15年 ~

6百8年でもある、 推古 16年 ;


第2回、の、 遣隋使、 小野妹子氏らを遣わす。


「 日出処の天子…… 」 、 の、 国書を持参した。


小野妹子氏、 裴世清らとともに、

住吉津に着き、帰国する。

( 『 日本書紀 』 、 『 隋書 』 俀國伝 ) 。


6百8年な、 推古 16年) - ?

( 『 隋書 』 ; 煬帝紀 ) 。


6百8年な、 推古 16年 ~

6百9年な、 推古 17年 ;


第3回、の、 遣隋使、

小野妹子氏と、 吉士雄成氏などが、

隋に遣わされる。


この時に、 学生として、 倭漢直福因

( やまとのあやのあたいふくいん ) 氏や、

奈羅訳語恵明 ( ならのおさえみょう ) 氏に、 高向漢人玄理

( たかむくのあやひとくろまろ ) 、 と、

新漢人大圀 ( いまきのあやひとだいこく )

氏や、 学問僧として、 新漢人日文

( にちもん、 後の、 僧旻 ) 氏、 と、

南淵請安氏らの、 8人、が、 隋へ留学する。


隋使、の、 裴世清が、 帰国する。

( 『 日本書紀 』、 『 隋書 』 俀國伝 ) 。



6百十年な、 推古 18年 - ? ;


第4回、の、 遣隋使を派遣する。

( 『 隋書 』 煬帝紀 ) 。


614年な、 推古 22年 ~

615年な、 推古 23年 ;


第5回、の、 遣隋使、

犬上御田鍬氏と、 矢田部造氏らを、隋に遣わす。


百済使、が、 犬上御田鍬氏に従って、 来る。 ( 『 日本書紀 』 ) 。



618年な、 推古 26年 ;

隋王朝が、 滅ぶ。



☆ 第一回の遣隋使は、

『 日本書紀 』 、に、 記載がなく、

『 隋書 』 、に、 あるのみ。


『 日本書紀 』 、では、

「 隋 」 、 ではなく、

「 大唐國 」 、に、 使いを派遣したとある。



『 日本書紀 』 、では、 裴世清、

『 隋書 』 、 では、 編纂された時期が、

唐の太宗の時期であったので、

太宗の諱 イミナ である、 世民、 を、

避諱して、 裴清 、 と、なっている。



小野妹子氏の返書紛失事件は、

『 日本書紀 』 、 にはあるが、

『 隋書 』 、には、 ない


( 『 隋書 』 、 には、

小野妹子氏の名前自体が、 出てこない )。


『 隋書 』 、 では、 竹斯國 ≒

筑紫 ツクシ 国か ❔ 、と、

秦王國の国名が出てくるが、

大和の国に当たる国名は記されていない。


しかし、 「 都 於 邪靡堆 」 、

とあることから、 都は、

「 邪靡堆 」 にあった、 と、 推察される。