経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 真田氏の躍進❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 真田氏の躍進❗ ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


☆ 歴史街道 ;

童門冬二氏 ;

大乱を策す家康氏に、

真田の兵法で挑む❗ ;


☆ 真田昌幸氏が敬慕した、

信玄氏と、典厩信繁氏❗ ;


真田といえば、 真田幸村氏、

真田十勇士を連想される方も、

少なくないことでしょう。

かく言う私も、 長野県は、

上田市の観光大使を務めており、

大使名は、 十勇士の一人、

根津甚八です。


ところが、 人口に膾炙する、幸村 、

という名は、 戦国期の史料で、

確認できず、 代わりに、

真田昌幸氏の次男の名は、

「 信繁 」、 と、 記載されています。


最近は、 歴史への研究の場に留まらず、

真田信繁氏の名が、 一般に、

浸透し始めており、 信繁氏が、

なぜ、 幸村、 と呼ばれるようになったのか、

については、 別稿に譲りますが、

信繁、 という名は、

真田氏と武田氏との深い結びつきを、

象徴するもの、と、 私は、考えます。


信州は、 小県 ( 現在の上田市の周辺 ) 、

の、 真田氏が、 甲斐の、

武田信玄氏に臣従するのは、

信繁氏の祖父な、 幸隆( 幸綱 ) 氏の、

時のこと。

真田幸隆氏は、 信玄氏の父な、

信虎氏らにより、 小県を奪われており、

流浪の後に、 信虎氏を追放した、

その息子な、信玄氏に仕えて、

旧領の回復への悲願を実現しました。


武田氏の躍進を智謀で助けた幸隆氏は、

信玄氏から重用され、 その息子たちも、

武田氏に仕えます。


その中の一人が、 信繁氏への父となる、

昌幸氏で、 幸隆氏の三男でした。


信玄氏は、 若い昌幸氏を、人質ではなく、

近習として用い、いわば、

将来の武田家を支える、

「 幹部候補生 」 、 として、

自分の側近くに仕えさせたのです。


名将と呼ばれる信玄氏の政治手腕や、

軍事における、 采配を間近で目にしながら、

昌幸氏は、 多くのことを学びました。


とりわけ、 信玄氏の領民の生活を守る、

姿勢、一種の、「 王道政治 」、の、

理念に、深く感銘を覚えたことでしょう。


たとえば、 隣国の信濃への進攻について、

信濃の豪族たちにすれば、

武田の侵略ですが、 当時の信濃は、

守護職の小笠原氏が、 力を失い、

豪族たちが、 勢力争いに明け暮れていて、

信濃の領民たちにすれば、

落ち着いた生活は、 望めませんでした。


むしろ、 武田の支配下に入り、

統治が安定した方が、 領民にすれば、

助かるのです。


実際に、 信玄氏は、 信濃の大部分を、

勢力下に置き、さらに、

信濃への守護職にも任じられますが、

その背景には、

領民の支持がありました。


つまり、 円滑な統治の基本は、

民の生活を常に守る姿勢にあり、

統治者とは、

「 護民官 」、 でなければならない、

という、 理を、 昌幸氏は、

信玄氏から学ぶのです。


また、 そんな信玄氏を助け、

新たな支配地での、

人心の掌握に尽力したのが、

武田の副将にして、 信玄氏の弟な、

武田典厩信繁氏でした。


典厩氏は、 99カ条、の、

家訓を残していますが、 そこには、

慈悲の心の大切さも、説かれています。


つまり、 信玄氏と同じ考え方に立って、

「 護民官 」、 としての、

兄を支えていたことが、窺えるのです。


後世に、 「 まことの武将 」、

と、称えられた、 典厩氏は、

第4次の川中島合戦で、 自ら、

上杉軍への盾となり、

信玄氏を守って、 討死。


その合戦が、 初陣であった、 という、

昌幸氏は、 命を捨てて、

兄のために働いた、 典厩氏の姿に、

武将としての理想像を見出し、

その生き方にあやかる意味で、

己の次男に、 信繁 、と、

名付けたのではなかったでしょうか。


真田信繁氏の誕生は、 典厩氏の死から、

6年後の、 永禄➕年 ;

( 1567年 ) 、 のことで、

明治元年、 への、 3百1年前でした ;

( 異説あり ) 。


「 統治者は、 護民官であれ 」、 という、

信玄氏の姿勢は、その後の、

昌幸氏や信繁氏らの生き方にも、

大きな影響を与えることになります。



人質の身から、 信玄氏に見込まれて、

重臣に引き上げられた、 昌幸氏は、

信玄氏を、 主君として敬愛し、

戦国で最強を謳われた、

武田家を支える事に、誇りを抱きました。


さらに、 息子の信繁氏の代になると、

武田家に仕えて、 3代目となり、

もはや、 新参者、 という、

コンプレックスはなく、

代々の武田家臣の一人、 という、

意識であったでしょう。


しかし、 さしもの、 武田家も、

天正➕年 ; ( 1582年 ) 、

に滅亡します。


時に、 信繁氏は、 16歳。


主家を失った真田家は、

北条・徳川・上杉、 という、

大勢力らに囲まれる中で、 昌幸氏は、

三者の間を巧みに泳ぎつつ、

一大名として、独立を図ります。


いずれかの家臣になってしまえば、

楽だったかもしれませんが、

昌幸氏は、 そうしませんでした。


そこには、 信玄氏に仕えた、

武田の重臣としての誇りと、

父な、幸隆氏が、 血のにじむ思いで、

奪還した、 信州小県から、

上州に及ぶ、 支配地への愛情、そして、

領民を自ら守り抜く、 という、

信玄氏が示した、

「 護民官 」、 としての、

意識があったはずです。


そんな昌幸氏に、

「 表裏比興 ( ひきょう ) の者 」、

といった、 批評が浴びせられる、

ことも、ありましたが、

昌幸氏にすれば、 笑止千万でした。


小勢力が、

大勢力らに呑み込まれずに対峙するには、

手段を選ばず、時に、 相手を、

手玉に取るほどの智謀を用いなければ、

到底、叶うものではないからです。


とはいえ、信玄氏の姿勢を範とする、

昌幸氏は、 後ろ暗い策謀には、

手を染めていません。


状況判断に基づき、

的確に手を打つことで、大勢力らを相手に、

キャスティングボートを握ってのけるのです。


一方で、 次男の信繁氏は、

真田の誇りを賭けて、 肚を据えた、

父の姿を眺めつつ、 昌幸氏の手駒として、

越後の上杉家、次いで、 大坂の、

羽柴家 ; ( 豊臣家 )、 に、

人質として出向きました。


人質である以上、 信繁氏も、

多くの苦労を重ねたのでしょうが、

信繁氏の面白いところは、 それを、

あまり感じさせず、 むしろ、朗らかに、

自分にとってのプラスの機会に転じた、

と、思える点でしょう。


兄の真田信幸氏 ( 信之 )、は、

信繁氏を、

「 物ごと柔和、 忍辱にして、 強からず。

言葉、 少なにして、

怒り、腹立つこと、 なかりし 」

、と、 評しています。


人当たりが、 柔らかく、

温和な印象を与える人柄であった、

ことが、窺えます。


そのためか、 信繁氏は、

人質として赴むいた先で、

厚遇されました。


越後では、 上杉景勝氏から、

一千貫の扶持を与えられ、 大坂では、

豊臣秀吉氏の勧めで、

豊臣家の重臣の大谷刑部吉継氏の娘 ;

( 一説に、養女 )、 を娶るのです。


もちろん、 そこには、 真田家を、

自らの陣営に取り込もうとする、

それぞれの思惑があったのでしょうが、

信繁氏自身のキャラクターも、

大きく影響していたのでは、

と、思わずには、いられません。


また、 信繁氏は、 上杉家では、

景勝氏や、 執政の直江兼続氏と接し、

豊臣家では、 奉行衆の、

石田三成氏や大谷吉継氏らと、

親しく交わりました。


彼らから学んだことも、

少なくなかったでしょう。


特に、 豊臣家においては、

重視されるのは、 家柄ではなく、

実力です。


その点、 信繁氏は、

何のコンプレックスも抱かずに、

小姓として励むことができました。


さらに、 天下統一に向かう、

秀吉氏を、 実務面で支える、

三成氏や吉継氏が、何を拠り所に、

働いているのかを知ったことも、

信繁氏の目を、

大きく開かせたかもしれません。

彼らが目指しているのは、

乱世を終息させる統一政権の確立でした。


そこにあるのは、 私利私欲ではなく、

戦乱をなくすことで、

日の本の民が安穏に生活できるようにし、

それによって、 国を富ませる志なのです。


まさに、父・昌幸上が、 信玄氏から学んだ、

「 統治者は、 領民の生活を守る、

護民官であれ 」、 に通じるものでした。


そして、 これらをきっかけに、

信繁氏は、 真田家を外から客観的に眺め、

改めて、昌幸氏が守る真田の誇りの本質が、

「 護民 」、 にあることを、

再確認したのかもしれません。


なお、岳父となる大谷吉継氏は、

優れた官僚ですが、 同時に、 秀吉氏が、

「 百万の軍配を預けてみたい 」

、 と評するほどの将器の持ち主でした。

信繁氏が、 軍略の面でも、

吉継氏から多くを学んだ可能性は、

十分にあるでしょう。


「 真田信繁氏は、 死に場所を求めて、

大坂夏の陣に臨んだ 」、

と、 時に、 語られることがありますが、

私は、 信繁氏を、 悲愴感に満ちた、

悲劇の将だとは、 全く、 思いません。

むしろ、 彼には、 天性の明るさがあり、

どんな時でも、 顔を上げて、

口笛を吹いているような、

不思議な陽性を感じます。


キリスト教の暦では、

第千6百年、 の、 丁度なの、

慶長 5年 、の、 関ケ原合戦、への前夜、

真田昌幸促しは、

その家を、2つに割る決断を下します。


すなわち、 昌幸氏と、 次男の信繁氏は、

西軍に、 長男の信幸氏は、 東軍につく、

という、 選択でした。


信幸氏は、 徳川家康氏の養女な、

( 本多忠勝氏の娘 ) 、 を正室にし、

一方の信繁氏は、

大谷吉継氏の娘を、 正室にしていた、

ことからの、 苦渋の決断、

と、 されますが、

「 たとえ、 どちらが、勝っても、

我らの本領と領民は、 真田の手で守る 」、

という、 昌幸氏の固い決意の表われ、

と、 受け取ることも、

できるのかもしれません。


また、 信繁氏にすれば、 大坂で、

三成氏や、 吉継氏が、

私心なく、 尽力しているのを、

見ているだけに、

統一政権を、 あえて、

崩壊させようとする徳川家康氏の、

私欲に与することは、

望まなかったでしょう。


そして、 昌幸・信繁父子は、

上田城に拠り、

徳川秀忠氏の大軍を迎え撃って、

散々に、翻弄しますが、

関ケ原では、 西軍が敗れ、

三成氏も、吉継氏も、落命します。


昌幸・信繁父子は、 処刑されるところを、

死の一等を減じられて、

高野山に配流 、 と、なりました。


父子にすれば、

「 上田城では、 勝っていた❗ 」 、

という、 無念の思いはあったでしょうが、

目論見の通りに、昌幸氏の支配地を、

その嫡男な、 信幸裏が、

代わって治めることになり、

領民を真田が守ることができたのは、

せめてもの救いだったはずです。


父子は、 ほどなく、 高野山から、

麓の九度山に移り、 蟄居生活を続け、

11年後の慶長16年 ( 1611年 )、

昌幸氏は、 65年の、

波乱の生涯を終えました。


彼が、 もう一度、 徳川と戦いたい、

と、 述べた、 との、伝えもあります。


信繁氏のもとに、 豊臣家が、

大坂への入城を要請してきたのは、

それから、 3年後のことです。


さて、 信繁氏は、 何のために、

大坂の陣を戦ったのでしょうか。

前述したように、単に、

死に場所を求めた、 という見方には、

私は、賛同できません。

たとえば、 信繁氏は、 生前の父

・昌幸氏とともに、 遠からず、

徳川と豊臣は、手切れとなると読み、

高野山の玄関口である九度山を、

情報収集に活用した、 と、 いいます。

また、 情報を集めるべく活躍した、

忍びたちが、真田十勇士、への、

モデルになったとも…。

つまり、 信繁氏は、

やる気で、 満々だったのです。


では、何のために、戦うのか。

父・昌幸氏の場合は、

真田家の当主として、

領民を自ら守ることに、

戦う意味を見出していました。


しかし、 信繁氏は、 当主ではなく、

領民を守る、 「 護民官 」 、

としての役目は、 兄・信幸氏

( 信之 )、 が果たしてくれています。


つまり、 立場的に、 信繁氏は、

フリーでした。 そこへ、

徳川家康氏が、かつての信繁氏の主家な、

・豊臣家に言いがかりをつけ、

大戦を引き起こそうと画策し、

豊臣家が、 助けを求めて来た。


ならば、 これに応こたえるのが、

武士ではないのか…。

そう考えても、不思議ではありません。

また、信繁氏にすれば、 かつて、

関ケ原の合戦を引き起こして、

三成氏や吉継氏が支えた、

統一政権を壊した、家康氏への憤りと、

不遇のままで、 配流先で没した、

父への思いもあったことでしょう。


そして 「 またも、 私欲で、

大乱を策す家康氏に、戦場で、

ただの一度も、

徳川に後れを取ったことのない、

真田の兵法のすべてをもって挑み、

天下万民が注目する、最後の大戦の場で、

鉄槌を下す 」 、 ことを、

期したのではないでしょうか。


もちろん、 これは、 あくまで、

私の推測であり、

信繁氏自身の真意が、

奈辺にあったのかは、わかりません。

しかし、 だからこそ、

後世の私たちは、

家康氏を討ち取る寸前まで追い詰めた、

信繁氏に、さまざまな思いや夢を仮託して、

人物像を思い描くことができるのでしょう。


いわば、 一人ひとりが、

それぞれの信繁像を抱いている、

といっても、過言ではないのです。

そんな懐の深さを持つ人物は、

日本史上でも、 稀有であり、それがまた、

真田信繁氏が、 現在でも、

まばゆい輝きを放ち続けている、

所以ではないでしょうか。


☆ 大坂の陣は、 所詮は、

大坂方に、 勝ち目はなく、

真田信繁氏らは、

「 死に花 」を咲かせようとしたのだ…。

そう語られることが、よくありますが、

果たして、真実でしょうか。


関ケ原に倍する軍勢が対峙した、

冬の陣は、 もちろんな事に、

堀を埋め立てられ、大坂城が、

裸城となった、夏の陣においてすら、

大坂方の武将たちは、 戦意が高く、

関東方の大軍勢に、最後まで挑みました。


寄せ集めの将兵である彼らを、

一つにしたのは、真田信繁氏らが立案した、

絶妙の策と、勝利への希望です。


すなわち、 家康氏を「 討つ 」❗、

ことさえできれば、 関東方は、瓦解し、

逆転できる、 という、 この、

戦いの本質を理解し、

勝つことを諦めていなかったのです。


「 死に花 」、 とは、 真逆の、

勝つために戦った信繁氏と、

大坂の陣を描きます。

第二特集は、

「 日本史をより深く愉しむ法 後篇 」、

です。





「 歴史街道 」 2015年 10月号 、 より ;


北条を脅かし、徳川に築城させ、

上杉が後ろ盾の強かさ ;


上田城 ;

「 上杉勢に備えるため、 海士淵に、

大兵を集められる城を築く、

ことこそが、 肝要❗ 」 ;

真田昌幸氏の主張に、

徳川家康氏は、 急ぎ、 支援を行ない、

結果にて、 完成したのが、 上田城だった。


一方で、 昌幸氏は、 北条勢を追い払って、

沼田城も取り戻し、 東西に、

大城を擁することになる。


が、 家康氏から、

沼田の割譲を打診されると、

昌幸氏は、 迷うことなく、

徳川との、手切れを選んだ。

北条氏への帰順 ;


1582 一期 イチゴ 半分 、 な、

1582年、 な、 天正➕年 、の、

6月2日、に、 京で、

本能寺の変❗ 、 が勃発。


天下統一を目前にしていた、

織田信長氏は、非業の死をとげた。


その知らせが、 京から、

350 キロ 、ほどを離れた、

信濃国は、 真田郷の、

真田昌幸氏に届いたのは、

いつ頃だっただろうか。


織田家の関東方面での司令官な、

滝川一益氏が、 自主的に、

昌幸氏らに情報を公開した、

という話もあるが ; 『 加沢記 』 、

それが、 事実でなくとも、

関東の雄な、 北条氏直氏が、

変を知って、 一益氏へ、

問い合わせの書状を発したのが、

11日だから、 その頃には、

昌幸氏も知っていたもの、 と思われる。


18日に、 彼は、 叔父の曾孫にあたる、

鎌原重春氏に対して、 こう書き送った。


「 今般、 御指図に任せ、

出陣せしめ候の条、 存分の如くに於いては、

御領分の内に於いて、

千貫文の所、 進め置くべく候 」 。


武田氏に仕えていた、 重春氏は、

その滅亡後に、 真田氏に、

属するようになっていたが、

その重春氏に対して、 昌幸氏は、

「 勝てば、 千貫文の土地を与える 」、

と、 督励しているわけだ。


一益氏は、 18日に、 北条氏直方と、

戦闘状態に入るのだが、 書状における、

「 御指図 」、 とは、 そのための、

動員を、 支配下の昌幸氏にかけたものだ、

と、 思われる。


だが、 19日に、 神流川の戦いで、

一益勢な、 1万8千は、

氏直勢な、 5万に完敗し、 一益氏は、

本領の伊勢に逃げ帰ることになる。


このときに、 昌幸氏は、

厩橋城で、 一益氏と、

別れの酒宴に参加し、 一益氏に、

護衛をつけて、 木曽路まで送らせた、

という。


昌幸氏の温かい人間性、 ともとれるが、

彼の行動は、 一筋縄では、いかない。


一益氏を見送る一方で、 昌幸氏は、

信濃小県・西上野の国人領主たちに対する、

所領についての、 宛行を、

矢継ぎ早に、実行しはじめたのだ。


これは、 寄騎 ヨリキ ;

( 指揮下にはあるが、 本来は、

同格の、 武士、 土豪員 ) ;

、 たちを被官化する方策、

と、 いえる。


「 信長も、 一益も、 我が頭上から、

命ずる者は、 いなくなった。

今のうちに、 皆を糾合して、

動乱に対応できる様にせねばならぬ❗ 」。


信長氏の死によって、 旧武田領国の、

甲斐・信濃・西上野が、 無主の地となり、

「 天正壬午の乱 」、 と呼ばれる、

大風が吹き荒れはじめる。


昌幸氏の闘志は、 この風にあおられ、

激しく燃え上がった。


一益氏は、 上野を去る際に、 昌幸氏へ、

沼田城を返還していたが、

昌幸氏は、 叔父の矢沢頼綱氏へ、

沼田城代を命じ、 湯本三郎右衛門氏へ、

岩櫃 イワビツ 城 ;

( 別名では、 吾妻城 ) ;

、への、 守備を指示する。


上田から、 鳥居峠越えで、

岩櫃、名胡桃、沼田と連絡する、

羅居 ライ ; ライン ; 、を、

固めよう、 というのだ。


そして、 沼田城に入った頼綱氏は、

さっそく、 部下に命じ、

➕ キロほども、 南に下った、

津久田城を攻撃させる。


この城は、 北条方の長尾憲景氏 ;

( 上野国は、 白井・八崎の城主 ) ;

、への、 属城だったのだが、

攻撃は、 失敗してしまった。


北条方は、 勢いに乗り、

岩櫃城と沼田城を分断すべく、

憲景氏に指示して、 その間の、

中山城を攻め落とさせ、 さらに、

中山新城を築かせた。


岩櫃と沼田との連絡路が遮断されると、

昌幸氏側としては、 分が悪い。


実は、 昌幸氏は、 すでに、 3月に、

武田氏が危急存亡のときを迎えている、

ときに、 憲景氏を通じ、 2度にわたって、

北条氏への帰順を打診していた。


そして、 武田勝頼氏が自刃した、

翌る、 12日には、 北条氏邦氏から、

昌幸氏の申し入れを歓迎する旨、

書状が発せられている。


この交渉窓口は、まだ、 生きており、

憲景氏は、 昌幸氏に圧力を加えながらも、

外交チャンネルを活かして、

帰順を促がしていたのだろう。


その実務を担ったのは、

日置五左衛門尉 ( 五右衛門尉とも )、

という、 人物だった。


五左衛門氏は、 真田昌幸氏の命を受けて、

北条氏の陣におもむき、

「 麾下に属すべき由 」、 を申し入れた ;

『 信濃松代真田家譜(乾)』 。


氏直氏が、 どれほどに、 喜んだかは、

彼が、 この五左衛門氏へ、

西上野の小島郷を与えた❗ 、

ことでも、 わかる。


西上野の北部の脅威を排除した氏直氏は、

4万3千の兵を率いて、 7月12日に、

碓氷 ウスイ 峠を越え、 海野平 ;

( 上田盆地の中心 ) 、 へ進軍した。


「 国衆真田( 中略 ) 十三日出仕候 」、

と、 『 甲斐国志 』、 にあるように、

昌幸氏が、 氏直氏の陣に伺候したのは、

その翌る日のことだった。


26日に、 昌幸氏は、

北条氏へ、人質を提出する。


ここでも、 北条氏は、 大いに喜び、

窓口となった、 矢沢頼綱氏へ、

高井郡は、 井上で、

千貫文の土地を与えている❗ 。


しかし、 昌幸氏の目は、 常に、

周囲を油断なく観察していた。


信濃は、 北条氏だけでなく、

徳川家康氏も狙っており、

武田の旧臣な、 依田信蕃氏を派遣して、

国人衆への切り崩しをはじめさせている。


信蕃氏は、 小諸城 ;

( 上田の南東で、 碓氷峠の玄関口 ) ;

、 に入っていたが、 12日に進攻して来た、

北条軍によって、 追われてしまった。


さらに、 北からは、 上杉景勝氏が、

すでに、 6月16日に、 川中島へ兵を出し、

7月29日には、 景勝氏、な、みずからも、

川中島に出陣する。


昌幸氏は、 北条軍の先鋒として、

この川中島の上杉軍に対峙し、

防波堤の役を務めることとなった。


だが、 景勝氏と氏直氏が、北信濃を、

上杉、そのほかを、 北条が支配する❗ 、

という条件で、 講和すると、

氏直氏は、 南下し、 8月10日から、

甲斐の、 若神子で、

徳川家康氏の軍勢とにらみ合いに入る。


が、 5万以上の大軍にも関わらずに、

1万の徳川軍に、 決戦を挑みもせず、

それどころか、 局地戦では、

敗北を喫した氏直氏は、

信濃の国人衆からの評価を、

大きく下げてしまう。


@ 徳川氏にも求められ ;


折りも折り、徳川方からの勧誘の手は、

昌幸氏にも及んで来ていた。


「 何とぞ、 才覚をめぐらして、

真田を引付け給え 」 ; 『 三河物語 』 ;

、 と、 依頼された、 依田信蕃氏、

それに、 昌幸氏の弟で、

北条から、徳川に転仕していた、

真田信尹 ( 昌春 ) 氏、 に、

日置五左衛門尉氏が、

その交渉流途だった。


9月28日付けで、 昌幸氏の、

家康氏への寝返りが決定し、

家康氏は、

「 本領を安堵のうえ、

上野国の箕輪と、 甲斐国内で、

計 2千貫文の土地、 さらに、

信濃諏訪郡を与える 」、

と、 宛行状を発給した。


徳川方からは、 五左衛門尉氏に、

「 真田房州 ( 真田安房守昌幸 ) 、

一味の儀、 その方、

才覚をもって落着 」 、

と、 書き送り、 慎重居士の家康氏も、

「 誠にもって祝着 」、 「 快悦 」、

と、 喜びを爆発させている。


今や、 真田氏の存在は、

信濃への支配のキーマンとして、

唯一無二のものとなったのだ。


だが、 家康氏からの宛行状は、

切り取りの権利を与える、

というものに過ぎない。


これを現実にするには、

昌幸氏、な、 自身が、

土地を攻め取らなければならないのだ。


彼は、早速に、 行動を開始する。

依田信蕃氏とともに、

甲斐の北条軍の背後をおびやかし、

その補給流途を寸断する❗ 、

とともに、

箕輪への攻略の準備をすすめ、

足もとでは、

北条方の祢津昌綱氏が守る、

小県 チイサガタ の、 祢津城を攻めた。


このときに、 城を守りきった、

昌綱氏に対し、 北条氏は、 海野で、

4千貫文の土地を与える、

と、 約束している。


いかに、 昌幸氏の離反が、

北条氏にとって、 痛手だったか、

この大盤振舞ぶりで、 わかるだろう。


結局は、 氏直氏は、

甲斐・信濃における、 家康氏の、

優先権を認め、 上野、への、

切り取りの権利を得ることで、

➕月の末に、 徳川方と講和を結ぶ。


ここに、 「 天正壬午の乱 」、は、

幕を閉じたが、 昌幸氏の戦いは、

これで終わったわけではない。


1583年、 な、 天正11年 、の、

3月に、 昌幸氏は、 小県の、

西の入り口にあたる、 虚空蔵山城の、

上杉勢を攻め、 翌る月には、

甲斐の甲府に在陣中の家康氏に出仕した。


徳川方の史料 ; 『 当代記 』、 には、

「 このときに、 信濃への支配体制を、

しっかりと定めておけば、 平定も、

スムーズに進んだだろうに、 何も、

置き目を定めず、 放置したために、

翌る年に、 羽柴秀吉氏 ;

( のちの、 豊臣秀吉氏 ) 、との間で、

戦いが起こると、 真田や小笠原らが、

離反してしまった 」 、 とあるが、

上杉氏への防波堤となっている、

真田氏へ、首輪をつけるわけにも行かない。


実は、 3月の虚空蔵山城への攻撃も、

外部の敵の存在を訴呈 ; アピール ;

、して、

自分の価値を高めるためのものだった、

とも、 深読みできるのだ。


家康氏のもとに出仕した昌幸氏は、

対上杉の防衛の重要さを訴えた、

と、 思われる。


その結果は、 すぐに、

具体的な行動となった。


上田での築城がはじまったのだ。


4月13日に、 昌幸氏の、

上田での築城を知った、 上杉景勝氏は、

「 真田、 海士淵 ( あまがふち )

取り立つるの由に候条、追い払うべき 」

、と、 阻止の命令を下す。


海士淵 ( 尼ケ淵 )、 というのは、

上田城の直下を流れる、 千曲川の、

畔 ホトリ 、 への名だが、 そこに、

大量の兵を集められる城を築く、

ことこそが、 肝要、と、

昌幸氏は、 家康氏を説得し、

築城への許可を得たのだろう。


この頃に、 景勝氏は、

家康氏が、 虚空蔵山城に軍勢を派遣して、

攻撃させる、 との情報にも接しているが、

その徳川軍を収容し、 攻撃への、

拠点となりうる規模の城を築くべき、

必要性がある、と、

昌幸氏が主張した可能性は、高い。


『 真武内伝 』 ; ( 真田家の編纂史料 ) ;

、 に、

「 家康氏から ) 、 上田の城を給う 」

、 とあるのは、 そのあたりの、

事情を反映しているのだろう。


あるいは、 その修築の費用も、

家康氏のふところから、

出されたかもしれない。


当初の上田城は、 その東に、大手を向け、

単純な方形の、 本丸を、一重の堀で囲み、

その周囲は、 河川や沼を、

自然の外堀とした、 単純なものだった ;

『 天正年間 上田 古城図 』 ;

、 が、 それでも、

大軍の集結には、 十分な広さを持ち、

とりあえず、 翌る年には、

粗方が、 完成した、 という。


北条との手切れ後に、 昌幸氏は、

沼田城に入っていた北条勢を追い払って、

城を取り戻していたが、

6月7日に、 矢沢頼綱氏を、

沼田城への守備につかせる。


真田氏は、 徳川傘下で、 上田と沼田、

2つの大城を東西に持つ大勢力となった。

だが、 このあとに、 昌幸氏は、

上杉景勝氏に寝返ることになる。

@ 上杉氏への接近 ;


その原因は、家康にあった。

北条氏直氏との講和の際に、

「 上野の領有権は、 北条方に 」、

と、 取り決められ、

1584年、 な、 天正 12年 、の、

3月になって、 家康氏は、

羽柴秀吉氏と交戦状態へ入る ;

( 小牧長久手の戦い❗ ) 。


その後も、 冷戦状態が続くなかで、

西に、大兵力を待機させなければならない、

家康氏は、 北条側から、

条件な事の履行をせまられ、

沼田城の引き渡しを求められると、

拒否することは、 できなかった。


家康氏は、 昌幸氏へ、

沼田の割譲を内々に打診したものの、

拒否されたのだろう。


6月に、 家康氏は、 室賀義澄氏 ;

( 正武氏 ) 、 という者に、

昌幸氏への謀殺を命じる❗ 。


「 はかりごとを以て、 真田を討つべし 」 ;

『 加沢記 』。


室賀義澄氏は、 上田近くの国人領主で、

かつて、 昌幸氏に敵対したあとで、

真田氏へ、 随身した人物だったが、

これを知った昌幸氏は、 逆に、

義澄氏をだまし、 上田城に招いて、

暗殺する。


1585年、 な、 天正 13年 、 の、

4月に、 昌幸氏は、 家康氏からの、

正式の使者に対し、

「 沼田は、 徳川や北条からいただいた、

領地ではない。 自分の武功によって、

得たものを、 北条に渡せるものか❗ 」

、と、 大見得を切ってみせた ;

『 上田軍記 』 。


その背景には、 上杉という、

「 保障 」、 がある。


徳川と決裂した昌幸氏は、 正式に、

上杉氏への帰順を申し入れ、 7月15日に、

寝返りが決定する。


上杉景勝氏は、 昌幸氏に対し、

小県・沼田・吾妻への援軍の派遣を保証し、

大幅な加増も、約束していた。


昌幸氏側からは、 その次男の弁丸 ;

( のちの、 信繁氏、 一般に、 幸村 ) ;

、が、 人質に出され、 閏8月2日に、

第1次上田合戦が始まる。


戦後の11月に、 羽柴秀吉氏は、

真田昌幸氏に、

「 家康との紛争については、 こちらで、

直に裁定する。 今回は、 許すから、

早々に、 上洛せよ❗ 」

、との、 朱印状を発した。


これは、 直前に始まった、

九州への征伐で、 秀吉氏が、

大義名分とした、 「 惣無事令 」、

を適用し、 家康氏と昌幸氏との戦いを、

「 私戦 」、 と、 断じたもので、

これによって、 昌幸氏は、

家康氏と停戦し、 秀吉政権から、

豊臣方の大名として、 公認された、

ことを意味する。


12月に、 昌幸氏は、 地元の信綱寺に、

旧主の、武田信玄氏の菩提所を建立する❗

、と、 宣言したが、 これは、

信玄氏の薫陶によって得られた、

智恵と経験で、 大乱を生き抜いた、

ことへの感謝とともに、 過去と決別して、

新たな道を歩む決意を示すものでもあった、

のでは、ないだろうか。


@ 父祖伝来の地は、渡さぬ❗ ;

真田昌幸氏、 獰猛な徳川勢を迎え撃つ ;


1585年、 な、 天正 13年 、 の、

閏8月、に、 徳川の精兵な、

7千の侵攻に、 上田城に拠る、

真田氏側は、 2千❗ 。


しかし、 上田城と城下には、

恐るべき仕掛けらが、 幾重にも、

施されていた。

@ 徳川勢、恐れるに足りず ;


「 いかに、 徳川中納言 ( 家康氏 ) 、

といえども、 理不尽極きわまりない、

命令じゃ。 武威を恐れて、

泣き寝入りしては、

真田の弓矢がすたる 」。


1585年、 な、 天正 13年 、 の、

初秋。 残暑に包まれた上田城。

真田昌幸氏が、 一族と老臣を集めて、

評議している。


天正壬午の乱のおりに、 家康氏と、

北条氏政・氏直氏らな父子が、 講和し、

同盟した結果にて、 上野は、

北条氏が領することになり、

家康氏は、 昌幸氏に、

沼田領を北条氏へ引き渡すように命じた。

それにどう対応するかの最終の評議だ。


「 沼田は、 中納言から、

拝領したものではない。

真田家が、 武略をもって切り取った地だ。

唯唯諾諾と引き渡すことは、できぬ 」 。

「 されば、手切れでござるか 」 。

「 うむ。 引き渡しを拒めば、

中納言が、 この城へ攻めかけてくるは、

必定なれば、 弓矢、鉄砲をもって、

会釈するほか、あるまい。ついては、

汝らの命、わしにくれい 」 。


家康氏は、 三河、遠江、駿河 、甲斐、

南信濃で、 約 百50万石を領する、

巨大な大名だが、

決心の臍は、鉄石よりも堅く、

武力衝突も辞さない覚悟の、

昌幸氏の双眸からは、 猛禽類のそれに似た、

勁烈な光が放たれている。


「 はっ。 一命は、もとより、すべて、

殿の思し召しのままに❗ 」。

首を横に振る者は、 皆無だった。

主従、決死の覚悟である。


家康氏との一戦は、

長篠設楽原の戦いで討死にした、

長兄な、 真田信綱氏と、

次兄な、 昌輝氏への、 弔い合戦でもあり、

闘魂は、いやがうえにも燃え上がる。


しかも、 戦国で最強の武将の、

信玄氏に近侍して、 その戦略・戦術を、

余すところなく、 学び、

自家薬籠中のものにしている、

昌幸氏は、 坐して、

徳川軍の来攻を待っているような、

凡将では、なかった。


天正壬午の乱の後に、 北信濃にまで、

勢力圏を拡大していた越後の、

上杉景勝氏へ、次男の信繁氏 ( 幸村 ) 、

を、 人質として差し出し、

盟約を結んで、 加勢を依頼する、

とともに、

家康氏を膝下に組み伏せての、

覇権の奪取を目論む、 羽柴秀吉氏、

とも、 誼 ヨシ みを通じるべく、

書状を送る、 算段を整えた。


稀世の智謀の将ならではの、

外交戦略である。


一方の家康氏は、 案の定、

沼田領の引き渡しでの峻拒と、

景勝氏への鞍替えに、 激怒し、

上田城攻めの軍勢を催した。


鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 、

柴田康忠氏らの、 三河の譜代衆に、

松平康国、諏訪頼忠、保科正直、

小笠原信嶺氏ほかの、 信濃の諸将、と、

三枝昌吉氏や、 武川衆らの、

武田の遺臣からなる、 派遣軍は、

総勢で、 およそ、 7千 ;

( 実数は、 1万以上? ) ;

、 を数える。


徳川勢雷発の飛報に接した上田城では、

迎撃の準備が急がれる。


支城の戸石城には、 嫡男の、

信幸氏、 以下の、 8百を入れ、

矢沢城には、 従弟の矢沢頼康氏、

丸子城には、 丸子三左衛門氏を配し、

昌幸氏は、 4百の将士とともに、

上田城に籠もった。


が、 動員できた兵力は、 徳川勢の、

3割にも満たない、 2千ほどでしかない。

そこで、 寡兵で、 大兵を邀撃する、

一策として、

徳川勢の突撃路になる、と予想される、

染谷筋 ; ( 大手筋 ) 、 の所々に、

深さが、 1間 ;

( 約 1・8メートル ) ; 、

幅が、 1間 、 ほどの、

堀切を掘り、 あちこちに、

千鳥掛 チドリガケ ; ( 互い違い ) ;

、に結い上げた、 柵を設けた。


かくて迎えた、 閏8月1日に、

北国街道を進軍して、信濃へ攻め込んだ、

徳川勢は、 千曲川の南岸に台地をなす、

八重原に着陣。


翌る2日に、 千曲川を、

大屋の付近で渡って、 神川の東岸の、

蒼久保に進出。

小休止する間に、 神川の浅瀬を探し、

一気に押し渡るべく、

水の飛沫を跳ね上げはじめた。


@ 決戦❗、 上田合戦 ;

( 神川の戦い❗ ) ;

神川の西岸には、

昌幸氏の密命を帯びた、 常田出羽氏と、

高槻備中氏が率いる、 前衛部隊な、

2百が、 邀撃の態勢を整えている。


だが、 1発の銃弾も、

1本の矢も、 放たない。


徳川勢の先鋒部隊が、 西岸に達した。


それでも、 抵抗することなく、

じりじりと後ずさる。


その間にも、 後続の兵らは、

神川を押し渡り、ついに、 大半が、

無傷で、 渡河を終えた。


直後に、 頃合を見計らっていた、

常田と高槻氏が、 大音声を張り上げる。

「 今だ。撃て❗ 」。


満を持して待機していた真田勢の鉄砲が、

一斉に轟発した。


徳川勢も、すかさず、 銃撃で反撃すると、

同時に、敵は、寡兵、 と見て、

遮二無二に、 突進しはじめた。


堀切も柵も、無視しての突撃だ。


数を恃んでの大攻勢の前に、

真田勢は、 負け色を見せて、

弱々しく引き退しりぞく。


「 敵は、 怯ひるんだ。

一気に、押し崩せ❗ 」 。


侍大将が叫び、 嵩にかかって、

攻め立てる徳川勢。

真田勢は、 しかし、ずるずるとは、

退かない。


敵が近づけば、 踵を返して、

鉄砲を撃ちかけ、 逃げては返し、

返しては逃げて、 という、

繰り引きで、 城の近くまで後退した、

あとで、 こらえかねた体で、

横曲輪へ引き入った。


昌幸氏が、 常田と高槻氏に命じていた、

巧みな誘引策であり、 前衛部隊は、

囮な部隊だったのだが、

寄せ手は、 気づきもしない。


鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉氏らの、

歴戦の勇将すら、 まんまと欺むかれ、

ここを先途とばかりに、

大声で、 下知を飛ばす。


「 城は、無勢ぞ。 付け入れ❗ 」。


吶喊。 徳川勢が、

獰猛な四足獣の咆哮にも似た、

雄叫けびをあげて、 城際へ押し寄せ、

我先にと、乗り入れを競う。


迎え撃つ昌幸氏の雄姿は、

上田城の本丸の、 大手門の近くの、

櫓 ヤグラ 、 にある。


徳川勢が、 城際に迫っても、

昌幸氏は、いささかも、 動じる風は、ない。

それどころか、甲冑も着さず、

六連銭の旗を吹きなびかせた傍らで、

禰津利直氏を相手に、悠然と、

囲い碁を打っていた。


家臣が、 数度にわたって、

注進におよぶが、 泰然自若として動かず、

短切に返すだけだ。

「 敵来たらば、 斬れ、斬れ❗ 」。


徳川勢が、 二の丸まで突入してくる、

のを待っているのだ。


上田城は、東を向いた大手口から、

直線的に、 三の丸、二の丸、本丸と、

門らが、 つづいており、 攻撃する際に、

正面から突入したくなるような、

縄張りになっている。


本丸に兵力を集中し、 狭隘な、

二の丸へ殺到してくる敵勢を、

邀撃することで、

相当の犠牲を強いることができる❗ 、

だけでなく、

敵の後続部隊が、 ひしめき合って、

押し出してくるので、

敵の前衛部隊には、 逃げ場がなくなり、

大混乱に陥るのは、 必至❗ 、

という、 構造だ。


昌幸氏は、 そこに、罠を仕かけた。


真田勢の囮部隊に誘引された徳川勢は、

三の丸橋と二の丸橋を突破して、

二の丸へ雪崩れ込んだ。


その間に、

真田勢からの、とかくの反撃は、ない。


徳川勢は、 城中の兵が少ないからだ、

と、 侮 アナド り、 どっと、

鬨 トキ の声をあげて、 本丸へ迫り、

我先にと、 大手門に取りついた。


それを待っていたかのように、

昌幸氏に近侍する参謀格の、

来福寺左京氏が、声をかける。

「 殿、時分は、ようござりますぞ❗ 」。


うむ、と、うなずいた昌幸氏が、

碁盤な上の石を突き崩して、

すっくと立ち上がった、 と思うや、

鉄板をも射抜かんばかりの、

鋭い眼光を放って、 音声で命じる。

「 太鼓だ、鉦だ。 貝を吹け❗ 」。


太鼓と鉦が、 乱打され、 法螺貝の、

吹鳴音が響き渡るや、天地をどよもす、

鯨波が、あがり、 静まり返っていた、

真田勢の反撃が開始された。


門や塀の上、矢狭間、鉄砲狭間から、

銃弾と矢を、 雨かあられかと注がせる。


石礫を打つ。 かねて用意しておいた、

丸太や大石を投げ落とし、 沸騰した、

油を降り注がせる❗ 。


攻撃しているのは、 軍兵だけではない。

猟師は、 鳥銃をぶっ放し、

農員や町人は、 石礫を投じ、

丸太や大石を運び、女子供は、

油を沸かす、 などの雑用に、

汗を流している。


「 我らが城下に住まう者は、

百姓であれ、 町人であれ、 皆、

わが子も同様じゃ。妻子を引き連れて、

籠城せよ❗ 」 。


昌幸氏は、 徳川勢が来攻する前に、

城下に触れを出し、希望者の、

入城を許していた。


領民は、 その仁愛に応えるべく、

徳川勢への攻撃に加わった。

みすみす、 罠に嵌まって、

二の丸へ殺到した徳川勢は、

昌幸氏の目算どおり、大混乱状態に陥った。


突出攻撃の機をうかがっていた昌幸氏が、

馬に打ち跨って、命じる。

「 門を開け❗ 」。


大手門が、 内側から開かれる。

「 突っ込むぞ。 者ども、

わしにつづけ❗ 」 。


槍をしごいた昌幸氏が、

馬の腹に強い蹴りを入れ、 先頭切って、

突いて出た。


旗本勢も、 後れをとってはならじ、と、

先を争い、 剣戟に刀杖をきらめかせて、

駆けだしていく。


時を移さず、 横曲輪へ、一旦は、

撤退していた、 常田と高槻氏が率いる、

部隊も、 横槍に突きかかり、

町家に、 火を放った。


放火も、 昌幸氏の命令だった。

町人は、 事前に、 避難させており、

無住となっている町家に、 次々と、

松明を投げ込んでいく。


折から、 強風が吹き荒れており、

紅蓮の火炎は、 渦を巻いて、

たちまち、 四方に飛び散り、 朦々たる、

黒煙らが、 城下を覆い尽くす。


さらに、 昌幸氏が、 四方の、

山や谷に埋伏させていた、 領民の、

3千余りが、 城内で乱打される、

陣太鼓の音を合図に、

紙旗を押し立てて、 群がり起こり、

徳川勢の側背へ襲いかかった。


城内へ入った領民と同じく、

昌幸氏の仁慈に報いての合力であり、

鳥銃を放ち、石礫を投げつける。


農員ら、は、 鎌や鍬を、 町人たちは、

竹槍や棍棒を手にして、

徳川勢の撤退路に立ち塞ふさがった。

 

「 敵は小勢ぞ。 退くな、退くな❗ 」、

進退に窮して、 思わず立ち往生する、

徳川勢に向かって、 大久保氏らな、

寄せ手の諸将が、 鞍壺を叩いて、

叱咤激励する。


徳川勢は、 しかし、

千曲川と神川を渡河したために、

戎衣は、 水に濡れて、 重くなり、

戦闘能力も、低下している。


指揮の系統も、 寸断されて、

陣形を立て直す、 余裕はなく、

浮足立って、 総崩れになった。


しかも、 堀切に落下し、

千鳥掛けの柵らにさえぎられ、

黒煙らに、 眼路を塞がれて、

進退は、 ままならず、混乱に、

ますます、 拍車がかかる。


「 追え。後を慕たって、

皆殺しにしろ❗ 」。


真田勢の諸将が、 ここぞとばかりに、

尾撃を命じる。


徳川勢の背後に、 槍が繰り出され、

刀が振り下ろされる。

一方的な、追撃戦だ。


徳川軍の将士のなかに、

踏みとどまる者も、 踵を返す者も、いない。


死傷者を続出させながら、

雪崩を打って潰走し、かろうじて、

神川の渡河地点まで逃れた。


だが、そこに、 新たな敵勢が出現した。


戸石城にあって、

後巻の機会をうかがっていた、

真田の嫡男な、 信幸氏麾下の、

8百の将兵が、 染谷郷から、

横撃してきたのだ。


真田勢は、 徳川勢を押し包むように、

三方から、 攻撃を加える。


神川を渡るしか、 逃れる術は、ない。


その神川は、 数日来の雨で、増水して、

激流❗ 、 と、 化している。


水深を探れば、 渡河はできるが、

真田勢に追い落とされては、

それも、 ままならず、

溺れ死ぬ者が続出して、 勝敗は、決した❗ 。


徳川勢の戦死者は、 千3百余り、

溺死者は、 数知れずで、

真田勢の犠牲者は、 わずかに、

40人ほどだった。


徳川勢の惨敗であり、

この合戦に参陣した、 大久保忠教氏は、

自軍の将たちの不甲斐なさを、

「 悉 コトゴト く、

腰がぬ ( 抜 ) けはて 」、

「 ふる ( 震 ) ゐまはりて

物も、 ゆ( 言 ) はず 」、

「 げこ( 下戸 ) に、 さけ( 酒 )

、 をし ( 強 )ゐたる、 ふぜい

( 風情 )、 なれば、 力もなし 」 ;

『 三河物語 』 ; 、

と、 慨歎している。


汚名の返上を期す、 徳川勢は、

同い月の、 20日に、 丸子城を攻めたが、

攻略に失敗。


その後に、 家康氏は、 井伊直政氏へ、

5千の兵を預けて、

上田城への再攻撃を命じたが、

作戦を発動しないまま、 対峙していた、

11月に、 突然に、 全軍を撤兵させた。


家康氏の腹心だった、 石川数正氏が、

家康氏から離叛して、大坂城の、

秀吉氏のもとへ奔ったために、

秀吉氏との関係性が、 再び、 緊迫して、

真田攻めどころでは、なくなったのだ。


この上田合戦 ( 神川の戦い❗ ) 、で、

秀吉氏ですら、 苦戦を強いられた、

徳川軍を、 寡勢でもって撃砕した❗、

昌幸氏の武名は、 一躍して、

天下に轟き渡り、

独立大名としての地位を確立した。


そして、 鬼神も、三舎を避けるほどの、

昌幸氏の智謀と底知れぬ胆力の血譜は、

その子の、 信幸・信繁氏らな、

兄弟に受け継がれていく。



☆ 三橋貴明氏❗ ;


大和田滝惠氏の、典型的な、

MMT藁人形プロパガンダ❗


2019-12-24 7:18:17

三橋貴明オフィシャルブログ

「新世紀のビッグブラザーへ blog」


チャンネルAJER

『MMTとナショナリズム(前半)』三橋貴明 AJER2019.12.24

令和の政策ピボットの賛同者数が2万人を突破いたしました。

また、メルマガ「令和ピボットニュース」が始まりました。皆様、是非とも、メルマガ登録を!

三橋経済塾第九期の入塾申し込み受付を開始しました。


https://members9.mitsuhashi-keizaijuku.jp/

今期は二回目の試みとして、全国各地で開催します。一月は東京で、ゲスト講師は竹村公太郎先生。二月は京都で、ゲスト講師は藤井聡先生です。

三橋TV第177回【日本経済を潰すギグエコ・シェアエコの拡大を防げ!】



三橋TV第177回【日本経済を潰すギグエコ・シェアエコの拡大を防げ!】

 たまには真面目に「MMT批判のテンプレ」について取り上げたいのですが(正直、ウンザリしている我々ですが)、

『現代貨幣理論(MMT)の誤り 懸念されるインフレとモラルハザード

 日本、米国、英国のように自国建て通貨を発行する国は、際限なく国債を発行でき、赤字を躊躇(ちゅうちょ)せず財政支出を拡大できるとする経済理論が話題になっている。現代貨幣理論(MMT)と呼ばれるもので、米国の一部の経済学者と貧困救済を掲げる民主党議員が提唱している。財政難の中でも財政出動を継続していけるとしたら魅力的な理論だが、果たして真偽のほどはどうか。まず、この理論の実施によって看過できないインフレが起き得るのではないかという、識者たちの議論が集中する論点から見ていく。(上智大学名誉教授・大和田滝惠)(後略)』

 もう、一行目から藁人形。

「日本、米国、英国のように自国建て通貨を発行する国は、際限なく国債を発行でき」

 はい、そんなこと誰も言っていません。


 インフレ率が許容する限り、政府は国債を発行できるといっているわけで、「際限なく」といった言葉を使う時点で、勝手にこしらえた藁人形でMMTを貶めようとする意図が満載です。


 つまり、学者として失格です。

 一応、後略部以降は「インフレ率」を問題にしていますが、ならば、

「自国建て通貨を発行する国は、際限なく国債を発行でき」

 ではなく、

「自国建て通貨を発行する国は、インフレ率が許容する限り、際限なく国債を発行でき」

 と、書くべきですね。


 その後、インフレ懸念について。

『危険な事態になり得るのは、市場のマインドが絡んでくるからだ。債務がどこまで増大しても無風で済むとは限らない。何らかのきっかけで、ある時点から市場に異変が起き得る。その後に制御可能かどうかは不透明で、誰にも分からない。』


 と、実に抽象的な、実にダメ学者らしい印象操作をしていますが、なんでデフレの国が、インフレ率ゼロ(現在)から、いきなり「制御不可能なインフレ」になるのでしょう。というか「危険な事態」「市場のマインド」「無風」「何らかのきっかけ」「市場の異変」「不透明」ついて、定義を示して頂きましょうか。


 そもそも、インフレ率が健全な範囲を超えて上昇したならば、金融引き締めをすれば済む話です。政策金利を上げるなり、預金準備率を引き上げるなり、銀行の貨幣創出(貸出)抑制手段はいくらでもあります。


 MMTについて「インフレ率上昇を止められない」と主張する者は、

『(引用)債務が増大し続ければインフレが止まらなくなり、ハイパーインフレに行き着くのが必然的な帰結』

 といった極論を口にしますが、なぜ金融政策を無視するのでしょう。

【歴史音声コンテンツ 経世史論】


http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

※2月15日まで、竹村公太郎先生の「日本文明の誕生~神話から歴史へ~」がご視聴頂けます。

 興味深いと思うのは、金融政策を重視する「いわゆるリフレ派」までもが、MMTについて、


『必ずインフレが起きる。(提唱者は)インフレになれば増税や政府支出を減らしてコントロールできると言っているが、現実問題としてできるかというと非常に怪しい(日銀の原田泰審議委員)』


 と、金融政策によるインフレ抑制を無視することです。


 デフレという需要不足の際は、量的緩和によりMBを増やしたところで、実需(需要)となるMSは増えません。何しろ、MSは政府の財政出動か、民間の借り入れによってしか増えないのです。


 政府が緊縮財政で需要を抑制している以上、民間がカネを借りるはずがないでしょう。デフレ期は、政府が緊縮財政を継続している場合、企業が投資や負債を増やす「投資利益率>>>名目金利(※実質金利ではない。特にデフレ期に実質金利を見ている経営者などいない)」の状況は訪れません。ちなみに「>>>」とは、十分に上回っている、という意味です。


 逆に、インフレ率を抑制したいならば、政府支出を抑制気味(一定でOK)にし、金融政策を引き締めに転じれば済む話です。政策金利を引き上げれば、「投資利益率<<<名目金利」となり、投資拡大や負債増はストップします。誰も、儲からない状況でカネを借りようとは思いません。


 MMTを含むあらゆる経済政策は、様々な道具(ツール)の集合体であり、時期によって「効果が十分な政策」「効果が不十分な政策」「無意味な政策」「逆効果の政策」があるというだけの話。


 それにも関わらず、財務省主導の緊縮財政路線に頭の中を染められた日本の政界、学界、官界、経済界の愚か者たちは、常に「一つの道具」を議論しようとする。あのね、東京から横浜に行くこと考えたとしても、自動車か鉄道か、鉄道ならば東海道線か、東横線か、横須賀線か、あるいは新横浜で良いならば新幹線か、色々と手段があるでしょう。状況に応じて、手段、道具を選択するのは、当たり前でしょうに。

 とりあえず、大和田教授の寄稿(後半のモラルハザード云々は精神論なので、どうでもいいです。というか、あんたは一度でも生き馬の目を抜くビジネス界で明日をも知れぬ身で働いたことがあるのか、と言いたい)を読んでわかることは、

「あ、この人、銀行の信用創造による預金貨幣創出の仕組みすら理解していない」

 という点です。


 なぜ、分かるのかといえば、そもそもインフレ率に最も直接的な関係がある「銀行預金(の創出)」を無視しているためです。


 単純に、「MMTは政府が無限に国債を発行できる理論」という出鱈目を耳にし、中途半端というか10%程度の理解で寄稿を書いたのでしょう。(あるいは、書いてくれと破綻派に頼まれたのだと思います)


 この程度のレベルの人物が「教授」を名乗れる。中身はほぼ間違いであるにも関わらず、「教授」というタイトルで権威づけられ、MMTについて勘違いする国民が増え、日本国や日本国民が救われない。(いわゆる権威プロパガンダ)


 いい加減にしましょう。

 MMTを批判するのは構いませんが(MMTだけではないですが)、正しい批判、議論をしましょう。さもなければ、自分の「頭の悪さ」「無知」を、全国にさらすだけですよ、大和田教授。(ちなみに、大和田滝惠名誉教授は元上智大の教授ですが、専門は環境)

「MMTを藁人形作って批判するのは、いい加減にやめろ!」に、ご賛同下さる方は、

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☆ ガン細胞たちは、

ブドウ糖だけ、 を、

唯一の、主な、栄養分としてあり、

糖質を制限する事を含む、

ビタミン・ケトン療法は、

ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、

ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、

ビタミン、たち、に、

ミネラル 、たち、を、 完全以上に、

飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、

一部の人々を除いた、

ほとんどの人々の健康性を成し続ける、

代謝ら、を、

完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、

これら、を、 より、 欠いてしまう事は、

万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、

より、 余計に、 成す事を意味する。



☆ いずれにせよ、

日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。


日本人たちには、核武装❗、と、地下避難網ら❗、が、より、日本の内外に、本格的な平和性らを成し付け得てゆく上でも、必要❗。


この事らを、 より、 日本人たちへ、

伝える措置を自ら成さない、 者らは、

より、 反日員としての、

負の度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを余計に成し、

より、 伝える措置を自ら成す主らは、

より、日本人たちの一般の、

足しに成り得る向きに、 働き得た主として、

正の向きの度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを成す。


差し引きで、 より、

どちら側であるかの、度合いを観積もられ、

その度合いらに相応しい処遇を、

宛てられるべき立場にも、

誰もが、ある。