経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 辻々の伏兵ら❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 辻々の伏兵ら❗ ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


☆ 根途記事➕論弁群❗ ;


☆ 藤原頼通氏 ;

992年 、 な、

正暦 3年 、の、 正月 ~

千74年、 の、 3月2日 、 な、

延久 6年 、 の、 2月2日 ;

その曾祖父な、 藤原師輔氏は、

女系を通して、 織田信長氏ら、への、

先祖員でもあり、

その父な、 道長氏から、 若くして、

後一条天皇への摂政の職を譲られ、

その後見を受ける。


父の死後は、 朝政の第一人者として、

後朱雀帝、と、後冷泉帝の治世にて、

関白を、 50年の長きに亘って、 務め、

父な、 道長氏と共に、

藤原氏の全盛時代を築いた。


現代に残る、 その栄華の象徴が、

頼通氏が造営させた、

平等院鳳凰堂 、だ。


しかし、 天皇への后にした娘が、

男子に恵まれなかったばかりか、

シナ朝鮮員らによる、 侵略な、

刀伊の入寇、 や、

平忠常の乱、 に、 前九年の役、 などの、

戦乱が相次ぐなどし、

朝廷の内外から、 それまでの、

絶対的な、 権力体制を揺さぶられる、

事態が生じた。


そこに加えて、 晩年には、

頼通氏と疎遠な、 後三条帝が即位した、

こともあり、 摂関家の権勢は、

衰退へ向かい、やがて、 院政と、

武士らの台頭する時代へと移る。


一条天皇の下で、 内覧左大臣として、

朝政を主導し、権勢を振るった父な、

道長氏には、 左大臣な、 源雅信氏、の、

娘な、 倫子女史、と、

藤原氏員らの裏工作らによる、

安和の変 ❗ 、 で、 失脚した、

左大臣、な、 源高明氏の娘な、

明子女史の、 二人の室があり、


正室とみなされた、倫子女史の子として、

頼通氏と、 教通氏は、

明子女史の子な、 頼宗氏や、能信氏らより、

昇進の面で、 優遇され、

その姉妹らも、 倫子女史の子が、

皇妃 、 と、 された。


キリスト教暦での、 第千3年、に当たる、

長保 5年 、 に、 12歳で、

内大臣な、 藤原公季氏からの加冠により、

元服し、 頼通 、 と名乗り、

正五位下に叙せられる。


千6年、 な、 寛弘 3年 、 に、

15歳にして、 従三位に叙せられ、

公卿に列し、

千13年 、 な、 長和 2年 、に、

大納言に準ずる、

権 ゴン 大納言 、 に任ぜられる。


村上帝の第7皇子な、 具平親王から、

その娘の、 隆姫女王を室にさせたい、

との、 申し入れに、 道長氏は、

この高貴な姫と、 頼通氏の縁談を、

「 男は、 妻がらなり 」 、 と、 言って、

喜んだ。

美女で、 文才もあった隆姫は、

頼通氏と、 仲が睦まじかったが、

子に恵まれなかった。


一条帝の後を継いだ、 三条帝に対し、

失明寸前の眼病を患った際に、 しきりと、

東宮 ; 皇太子 ; 、 な、

敦成親王 ;

( 一条帝の第二皇子で、 後の後一条帝。

その生母は、 道長氏の長女な、 彰子女史、

で、 道長氏の屋敷で、

道長氏らと共に、 暮らしながら、

そこで、 育てられる、 ので、

道長氏らな、 母方の身内員ら、 の、

仲間の一員として、

天皇に成ってからも、

政治を成し行う事が、

関係する、 人々から、

期待される立場にもある ) ;

、 への、 譲位を迫っていたために、

確執を生んでいた、 父の道長氏は、

天皇からも反発され、

譲位に応じてもらえなかった。


『 栄花物語 』 、 によると、

道長氏を懐柔すべく、 頼通氏、への、

皇女な、 禔子内親王の降嫁を申し出た、

天皇に、 道長氏は、 同意したが、

隆姫のみを愛する頼通氏は、

この縁談を憂いた。


これに対して、

「 男子が、 なぜ、 一人の妻で止まるのか。

しかも、 子が無いのだから、 広く、

継嗣を求めよ❗ 」、 と、 叱咤して、

無理矢理に、 縁組みを強いた、

道長氏だったが、 やがて、

頼通氏は、 重病となってしまう。


加持調伏の結果にて、

具平親王の怨霊が出たために、

この結婚は、 沙汰止みになった、という。


千16年、 な、 長和 5年 、に、

結局は、 道長氏からの圧力に屈した、

三条帝が、 敦成親王に譲位すると、

外祖父の道長氏が、 摂政となった。


千17年、 な、 翌る、 長和 6年 、に、

頼通氏は、 内大臣に累進すると共に、

父に代わって、 摂政の宣下を受け、

父から、 藤原氏長者も、譲られた。


このとき、 僅かに、 26歳であり、

最年少の摂政だった。


同年の末には、 太政 ダジョウ 大臣 、

に昇進しながら、 翌年には、 辞した、

父は、 前太政大臣として、

若い頼通氏を後見することで、

後継体制を固めた。


千19年 、な、 寛仁 3年 、に、

関白 、 となり、

千21年、 な、 治安 元年 、に、

左大臣 、 に転じた。


この間に、 後一条帝に、

道長氏の三女の、

威子女史を入内させ、 中宮となし、

東宮な、 敦良親王 ;

( 後の後朱雀帝 ) 、 にも入内させた、

末女の嬉子女史に、 親仁親王 ;

( 後の後冷泉帝 ) 、 が授かるなどし、

父の道長氏による、 将来への布石らは、

実を結びつつあった。


千19年、 な、 寛仁 3年 、に、

出家しただけで、 依然として、

実権を握りつづける道長氏には、

頼通氏も、 その意向に従って、

むしろ、大事に当たっては、

その判断を仰いでいる。


関白であっても、 公卿らの前で、

道長氏から、 罵倒されることもあった、

と、 いわれる、 頼通氏は、

千23年 、 な、 治安 3年 、 と、

千25年、 な、 万寿 2年 、には、

その不始末から、 父より、 一時は、

勘当の処分を受けている。


頼通氏は、 有職 ユウソク 故実に通じた、

当代の学識者だった、 小野宮流の、

藤原実資氏に師事して、 親交を結び、

共に、 藤原忠平氏を先祖員とする、

道長氏、への、 批判者だった、 実資氏も、

頼通氏には、 好意を持っていた。


千27年、 な、 万寿 4年 、に、

道長氏が薨去した。

その半年後の、 千28年 、な、

長元 元年 、に、 関東で、

平忠常の乱❗ 、 が起こる。


それへの鎮圧には、 3年を要し、

そのために、 主な戦場の、 房総地方が、

酷く荒廃した。

この乱を鎮圧したのが、

源頼信氏であり、 これを契機に、

清和源氏員らが、 関東に勢力を持ち、

武士らが、 本格的に、

表舞台に登場するようになる。


道長氏の亡き後に、 頼通氏は、自立して、

独自の権力の確立に努め、

千29年、 な、 長元 2年 、には、

太政大臣、 な、 藤原公季氏の薨去に伴い、

一座となる。


千36年、 な、 長元 9年 、 に、

後一条帝の崩御により、 同母弟の、

後朱雀帝が即位しても、 引き続き、

天皇への外叔父として、

関白を務めた、 頼通氏に、

朝廷の権勢は、 集中した。


が、 「 一家三立后 」、 を実現した、

道長氏と、 異なり、 子女に恵まれぬ、

頼通氏は、 やむなく、 正妻の、

隆姫の縁で、 敦康親王の娘の、

嫄子女史を、 養女として、

後朱雀帝に入内させ、 中宮、 となした。


後朱雀帝への妃となった妹の、

嬉子女史は、 東宮に立てられた、

親仁親王を生んで、 すぐに、 死去していた、

こともあり、 別に、 尊仁親王を生んだ、

禎子内親王 ; ( 三条帝の第三皇女。

道長氏の外孫で、 頼通氏への姪だが、

疎遠であった ) ; 、が、

皇后に立てられていた。


頼通氏が、 皇子の誕生を期待した、

嫄子女史は、 皇女を生んだのみで、

死去してしまった。


弟の教通氏も対抗して、 その娘な、

生子女史を入内させるが、

皇子を生むことはなかった。


千45年 、な、 寛徳 2年 、に、

病に倒れた、 後朱雀帝から、

親仁親王への次代の東宮に望まれた、

尊仁親王は、

道長氏への曾孫ではあるものの、

藤原氏を外戚としない、 親王であった。


そこで、 親仁親王に、男子が誕生した際に、

皇位への継承を巡って、 紛糾する、

との、 建て前で、

頼通氏は、 東宮を立てるのは、

時期が尚早である、 と、 反対した。


これに対し、

頼通氏とは、 反りが合わない、 異母弟の、

権大納言、 な、 能信氏 ;

( 源明子女史の子 ) ; 、 から、

尊仁親王の立太子、 への、

懸命な懇願を受けた、 陛下は、 決意して、

尊仁親王を東宮に冊立する、

との、 遺命を残して、 崩御した ;

『 愚管抄 』、 『 今鏡 』 。


こうして、 親仁親王の即位 ;

( 後冷泉帝 ) 、 に伴い、

異母弟な、 宮の、 尊仁親王が、

東宮に立てられた。


だが、 頼通氏は、

藤原氏との縁の薄い尊仁親王には、

合力をせず、

千50年、 な、 永承 5年 、に、

一人娘の寛子女史を入内させ、

皇后、 となし、

皇子の誕生に望みを繋いだが、ここでも、

皇子に恵まれることは、無かった。


@ 平等院鳳凰堂 ;


千51年、 な、 永承 6年 、 に、

陸奥国で、 前九年の役が勃発する。


末法思想が、 広まってあり、

地方の世情が、 不安になる中で、

道長氏への後継として、 長年を、

関白を務めた、 頼通氏の権勢は、

表面的には、 衰えず、 御所の傍に、

巨大な高陽院を造営し、

千52年、 な、 永承 7年 、 の、

3月28日には、 道長氏の別荘であった、

宇治殿を、 現代に残る、 壮麗な、

平等院鳳凰堂に改修した。


ただ、この頃は、 荘園の増加により、

朝廷の財政が、 危機的な状態にあり、

その整理が、 必要とされていた。


それらな、 荘園ら、への、 主たる、

領主が、 頼通氏ら、な、

権門員らであった。


頼通氏は、 千40年、 な、

長久 元年 、 と、 千45年 、な、

寛徳 2年 、 や、 千55年、 な、

天喜 3年 、 に、

荘園整理令に着手するが、

結果的には、 権門への擁護策に終わる ;

( 増加の抑制の成果については、

肯定的な見方もある ) 。


千61年、 な、 康平 4年 、 に、

70歳になった頼通氏は、

太政大臣の宣下を受け、 その位は、

人臣を極めた。


翌年には、 父の例に倣 ナラ い、

太政大臣を、 1年足らずで辞している。


千67年、 な、 治暦 3年 、には、

関白を辞して、 准三宮 ジュサンゴウ 、

を宣下された。


後任の関白には、 同母弟の、

教通氏が、 任じられた。


同年の➕月に、 頼通氏は、

後冷泉帝が、 平等院に対して、

封戸、 な、 3百戸を施入したのを機に、

願い出た、 平等院の荘園に、

不輸の権を認め、

それらな、土地らに、

不輸の権を与える、 太政官符を得て、

官使の検分のもとで、

四至牓示が行われ、立券荘号が行われた。


が、 実際には、 平等院の荘園へは、

9か所な、 全てに適用され、

その多くが、 頼通氏が、

長年をかけて、 寄進してきた、 土地で、

実質においては、 平等院への主である、

頼通氏の荘園らの中でも、 もっとも、

重要な一群であった。


明治元年、 から、 丁度で、

8百年前、 の、 千68年、 な、

治暦 4年 、 の、 3月に、

病に倒れた後の、 冷泉天皇の崩御と、

長年を冷遇してきた、 皇太子、 な、

尊仁親王の即位が、 もはや、

避けられない❗ 、

ことが、 明らかになると、


頼通氏は、 同月の23日に、

致仕の上表を行い、 28日には、

先の、 9か所の、

平等院領、な、 荘園ら、 に対する、

不入の権の適用を求める、 申請を行った。


前者は、 4月16日に、 勅許され、

後者は、 3月29日に、 改めて、

9か所についての、

不輸の権、 と、不入の権、 とを認める、

太政官牒の発給を受けた。


4月19日に、 後冷泉帝が崩御すると、

頼通氏は、 宇治に閉居した。


後冷泉帝が崩御すると、

尊仁親王が即位した ;

( 後三条天皇 ) 。


新帝は、 藤原氏とは、 直接の、

血縁がなく、 35歳と、 壮年であり、

25年の、 長い東宮時代を耐えた、

天皇は、 意欲的に、

朝廷の財政での改革に着手し、

有名な、 『 延久の荘園整理令 』 、

を出した。


藤原氏らな、 権門らの荘園らも、

審査の対象たるを逃れなかった。


『 愚管抄 』、は、 記録所が、

頼通氏にも、 文書らの提出を求めた時に、

「 そんなものは、 ないので、

全てを没収されても、構わない 」、

と、 答え、

頼通氏の荘園らについてのみ、

文書の提出を免除された、 という、

話を伝えているが、 実際には、

頼通氏の荘園らも、 文書を提出した、

ことや、

その審査の過程で、

規定外の荘園らが、 没収された❗ 、

こと、 などが、

孫の師通氏の日記な、

『 後二条師通記 』 、 に記されている。


頼通氏の荘園らの中核であった、

平等院領な、 9か所については、

全く、 手をつけることが出来なかった。


『 古事談 』、 では、 陛下が、

官使を派遣して、

平等院領への検注を行うように命じた、

ことを知った、 頼通氏は、 自ら、

官使を迎える準備をしていたものの、

頼通氏を恐れた官使が、 誰も、

宇治に赴かなかった、 と、 されている。


しかも、

後三条帝の視点からおいても、

後冷泉帝の崩御の直前に、

駆け込みで得た、 とは言え、

平等院領の、 太政官符・太政官牒、の、

効力を否定する、 ことは、

太政官符・太政官牒を、

荘園への公験として扱い、

これを持たない、 荘園を停廃する、

とした、 延久の荘園整理令の方針に、

反するものであった。


千72年、 な、 延久 4年 、 の、

4月に出家した。

同年の、 12月に、 後三条帝は、

在位を、 4年で、

貞仁親王に譲位した ;

( 白河天皇 ) 。


上皇となり、 新帝を後見して、

院政を意図していた、 とも、云われる、

が、 僅かに、 半年ほどで、

翌る年の、 5月に崩御した。


後三条帝とは、 東宮時代から対立した、

頼通氏だが、

賢主の早世を嘆息した、 という。


頼通氏は、 若い頃は、 長者風の、

温和な性格だったが、 長年を、

権力を持ち続けると、華美な生活を好み、

権勢に固執するようになった、 という。


『 古事談 』、 によると、

頼通氏は、 実子な、 師実氏へ、

摂関を伝えることを強く望んだが、

頼通氏の次の摂関の職は、

教通氏に伝えるべき、 との、

道長氏の遺言を理由に、 上東門院 ;

( 彰子女史 ) 、 に拒絶され、

やむを得ず、 教通氏に譲った。


その際に、 その次の摂関は、

師実氏へ伝えるよう、 関白となった、

弟の教通氏に約束させたが、

教通氏は、 一向に、

実行しようとしなかったために、

「 自分は、 師実が、 職 ( 摂関 )、

にあることを目にしなければ、

冥することができない 」、

と、 言ったが、 教通氏は、

「 私の勝手で、できることではない 」

、 と、 答え、

頼通氏は、 酷く恨んだ、 という。


千74年、 な、 延久 6年 、に、

83歳の長寿をもって、 薨去した。

摂関政治の全盛期をともに担ってきた、

姉の上東門院彰子女史、や、

弟な、 教通氏も、 同年から翌年にかけて、

相次いで、 薨去し、

白河天皇が、 譲位した後に開始した、

院政の時代へと移っていく。


頼通氏は、 長年にわたり、

権力者であった一方で、 文化的にも、

指導的地位にあった。

特に、 和歌に関しては、 自ら、

歌人であると共に、 積極的に、

歌合の開催や歌集の編纂に取り組んだ。


頼通氏の作の和歌は、

『 後拾遺和歌集 』( 1首 )、 以下の、

勅撰和歌集に、 14首が入首している。


また、 当時の例に漏れず、

頼通氏も、 日記を書いていた。


しかし、 弟の教通氏や、頼宗氏の、

日記と同じく、 散逸しており、

現在には、 伝わっておらず、

その一部のみが、 『 院号定部類記 』、

『 改元部類 』 、 『 園太暦 』 、に、

「 宇治殿御記 」、 「 槐記 」、として、

逸文が収められている。



☆ 古今東西、夜道は、危険が多いもの。

そこで、かつて、 死刑を廃止して、

自らと、自らの身内員らの安全性を、

確保して置きながら、

社会の全体の治安性を成す、

事からは、 より、 手をひいていた、

平安の貴族員らは、

兵 ( つわもの。 強者 )、 たちを雇って、

侍 ( さぶら ) わせ、

身辺を警護させたものでした。


それは、 同時に、 兵としても、

食い扶持への確保は、 もちろんな事に、

出世への手がかりにもなる、

得々な関係でしたが、

雇う兵らの腕前は、 時として、

その生死を分けることもあります。


今回は、 平安京でも、 最強比罨 クラン ;

クラス ; 、 であろう、とある、

用心棒の依披 エピ ; エピソード ;

、を紹介したい、

と、思います。


@ 深夜の急報、いざ、三井寺へ❗ ;


今は昔、 三井寺 ミイデラ ;

( 園城寺、 現:滋賀県は、大津市 ) ;

、の、

明尊僧都 ( みょうそん そうず )、

という、 高僧が、 ご祈祷のために、

平安京にある関白、な、

藤原頼通 ( ふじわらの よりみち ) 氏の、

館に滞在していた時のこと。


ある日の夜中に、 三井寺より、

遣いが来て、よんどころのない事情により、

大至急で、

帰らねばならなくなってしまいました。


「 あぁ、この夜道を行かねばならぬとは、

難儀なことじゃ… 」。


夜間の治安などは、 なきに等しい、

中世の、 日本の平安時代、

丸腰で出歩く、 などは、 命の危険さえ伴う、

可損 カゾ ; リスク ; 、の、

大きなものでした。


しかし、 行かねばならぬ以上は、

覚悟を決めて、明尊師は、

頼通氏へ、暇乞いを申し出ます。


明尊師の事情を聞いた頼通氏は、

この申し出を快諾。 更には、

道中の用心に、と、

警護もつけてくれました。


「 おぉ、 忝(かたじけな)し忝し… 」 ;


……が、 いざ、出立に及んで、

門前に待っていたのは、

弓矢一式 ; ( 弓と箙・えびら ) 、

を持った兵 ツワモノ 、と、

下人の二人だけ。


どちらも、見るからに、風采が上がらず、

これから、 京都 ~ 大津 、 という、

遠路にもかかわらず、 馬もなく、

足拵えは、 乗馬用でもない、

粗末な藁沓 ( わらぐつ ) 。


「 ……あの、この者たちは……? 」 ;


見送りに出て来てくれた頼通氏に、

明尊師は、 疑惑の眼差しで訊ねます。

しかし、 頼通氏は、 心配ご無用、

とばかりの、 ドヤ顔で、答えました。


「 これなるは、 大矢左衛門尉

( おおや さゑもんのじょう )、 こと、

平致経 ( たいら、の、 むねつね ) 。

弓馬 ( ゆんば )、 にかけては、

当家一番の達者にございますれば、

万事、 ご安心召されよ❗ 」 。


大矢とは、 文字通りに、

大きな = ロングサイズの 、

矢 、 を、 軽々と射こなす、

武勇から、 つけられた二つ名で、

自他ともに認められる、

腕前を証明しています。


「 ……さ、左様か。しからば、大矢殿、

よろしくお頼み申しますぞ 」 ;


頼通氏の太鼓判にも、 半信半疑、

明尊師が、 ぎこちなく会釈をすると、

平致経氏は、 わずかに、 首だけを傾けて、

武骨に応じました。


しかし、 その視線は、

明尊師を見据えたまま、実に、薄気味悪く、

むしろ、恐ろしさすら感じます。

一方の下人は、

デンと、 胸を張ったまま、 直立不動。


( …本当に、大丈夫なのじゃろうか… ) ;


しかし、 何はともあれ、

先を急がねばならない明尊師は、

自分の馬に跨りますが、つき従う、

致経氏らには、

乗る馬すら、 見当たりません。


「 …その方ら、馬はないのか?、

三井寺までは、 遠路ゆえ、 徒歩( かち )

では、 参れぬぞ? 」 。


明尊師が、 恐る恐る訊ねると、

致経氏は、 太い声で、短く、

「 参れまする❗ 」 、

とだけ、 答えると、 明尊師に構わず、

大股で、 歩き出し、

下人も、それに従います。


「 あいや、待たれよ 」 ;

警護の宛てを置いて、

先に行ってしまうとは、とんだ、

用心棒もあったものですが、

明尊師は、 笑顔で見送る、 頼通氏を、

恨みがましい眼差しで、ふり返りふり返り、

慌てて、二人の後についていったのでした。


「 頼通はん、あんなんで、

ホンマに大丈夫でっか? 」 ;


頼通氏は、 「 この男なら、大丈夫 」

、と、 太鼓判ですが、 危険な夜道で、

命を預けなければならない明尊師としては、

不安で、 たまらないのでした……。


@ 黒づくめの男らが出没❗ ;


「 …あぁ困った…、 警護してくれるのは、

ありがたいが、 徒歩で同行されては、

刻限に間に合わぬ… 、 さりとて、

この者らを振り切って、独りで行くのは、

あまりに心細い… 」 ;


致経氏と下人に追いついた明尊僧都が、

ブツブツと、 文句を言っていると、

十字路に差しかかりました。


すると、 その時、 十字路の両側から、

一人ずつ、黒づくめの男 ;

( 黒ばみたる者 ) 、 が出て来ました。


「 …さっ❗……さ、左衛門殿っ❗ 」 ;


馬から転げ落ちんばかりに、 魂消

( たまげ ) た明尊師は、

震え上がって、 致経に助けを求めますが、

致経氏は、 お構いなしに、

ずかずかと、 先に進み、

その男たちに近づいていきます。


( …もしや、 この左衛門め、

あの怪しき者どもと、グルであったか❗ ) ;


心中に、 悔やんだところで、 最早、

手遅れ……と思った、 明尊師でしたが、


「 ……え? 」 ;

その黒づくめの男たちは、

平致経氏が、 その前に来ると、音もなく、

跪 ( ひざまず )くではありませんか。


「 御沓 ( おくつ ) にございまする 」 ;


黒づくめの片方が、 そう言って、

致経氏の足元に、 乗馬用の沓を、

揃えて置くと、 致経氏は、 無言のまま、

藁沓の上から、 それを履きます。


「 御馬にございまする 」 ;


黒づくめの、 もう片方が、 そう言って、

曳いてきた駿馬 シュンメ を差し出すと、

致経氏は、 やはり、 無言のまま、

その駿馬に乗ります。


そして、 十字路の元から来た方へ、

一度は、 戻ると、それぞれ、

自分の馬と、 下人の馬とを曳いてきて、

三人ともが騎乗。

元から、 みんなが、

馬で出て来たかのようです。


この間に、 余計な言葉は、

一言も発せられず、黒づくめな、二人は、

明尊僧都の背後に回り、前方を行く、

致経氏と下人との四人で、 陣形 ;

フォーメーション ; 、 を組んで、

先を急ぎます。


何だか、 狐につままれたような気分の、

明尊師でしたが、この後に、 さらに、

驚かされることとなったのでした。


「 …げに、 奇異 ( あさま )しき、

わざかな 」 ;


それから、 十字路ごとに、

黒づくめの男たちが、 両脇の道らから、

二人づつで、 現れ、 無言で、

致経氏に跪くと、 自分の馬に跨って、

隊列に加わり、 気づくと、

平安京を出るまでに、 明尊師への護衛は、

総勢で、 三十名に膨れ上がっていました。


この頃になると、 最初は驚き、

不気味に思っていた明尊師も、すっかり、

安心して、 致経氏たちに、

信頼を寄せるようになり、 その道中は、

何事もなく、 三井寺に到着。


その用事を済ませると、再び、

京の都へ戻って行きますが、今度は、

逆のことが、 起こりました。


十字路ごとに、黒づくめが、

二人ずつが、 馬を下りて、

致経氏に跪き、 元の来た道へと、

消えていきます。


そうして、 二人、また、 二人、と、

去っていき、 最後の二人が、

最初の十字路に差し掛かると、

致経氏の、 駿馬と、 乗馬沓、そして、

下人の馬を引き取って、 去って行くと、

そこには、頼通氏の館を出発した時と同じ、

徒歩の致経氏と下人とがいるばかり。


まるで、 夢でも見ていたかのような、

ひとときに、明尊師は、

「 …げに、奇異しきわざかな 」、

と、 吐露したそうです。


以上が、 『 今昔物語集 』 ; 巻二十三 ;

「 左衞門尉平致經、 明尊僧正 ( ※ )

を導きし語 ( こと ) 」 、 の伝える、

顛末ですが、これだけだと、

平致経氏の凄さが、 今一つ、

ピンと来ないかも知れません。


( ※ ) 題名では、 明尊師の位が、

「 僧正( そうじょう 」 、

になっていますが、 この依披 エピ ;

逸話 ; 、 の当時は、

「 僧都 」 、 だったそうです。


「 …ただ黒づくめの、

SP集団を手配して、 要人を警護し、

送り迎えをしただけでしょ? 」 ;


そう感じられるかも知れませんが、

考えてみて下さい。


明尊師の深夜の外出は、

予定されていたものではなく、

突発的な事態である❗、

にもかかわらず、に、

平致経氏は、

( 傍にいた下人を除く ) ;

二十八名の部下らを、 たちどころに、

手配したのです。


彼が、 その気になれば、 いつでも、

出発できるよう、常に、 すぐ近くに、

待機させていなくては、

出来ない芸当です。


「 待つことも、大切な任務ぞ❗ 」 、

「 しかし、眠いのぅ 」 ;


その、 二十八名にしても、

食事や仮眠、 などの、 時間が、

不可欠ですから、 当然に、

交代の要員らが、必要になります。


となると、 今回に、 登場しない、

人員らが、 最低 ( 二交代制 ) でも、

28名、

三交代制なら、

56名は、いる❗、 ことになり、

これだけでも、 合計で、

56 ~ 84名以上の、

部下らを抱えていた事になります。


それだけでは、 ありません。

いざ、 平致経氏の出発に際して、

十字路の両脇で、 出番待ちをする時、

その栖堡 スポ ; スポット ; 、

が、 誰かに占拠されていたら ;

( 例: ものごい、が、

掘っ立て小屋を建てた、等 ) ;

、 格好が、 つきません。


普段から、 各栖堡への管理や、

面葉 メンバ ; メンバー ; 、の、

生活への佐幇 サポー ; サポート ;

、 を担当する、 裏方も、

必要でしょうから、 少なくとも、

百名前後の部下らが抱えられていたもの、

と、 推測されます。


そして、 それだけの大人数が、

いざ、 致経氏の命令の一つで、

阿吽の呼吸 ( パフォーマンス ) 、

を見せ、 致経氏も、 無言で、

この働きに、 全幅の信頼を寄せている、

のですから、 見事、 というより、 他に、

言葉が、ありません。


@ 終わりに・主従の絆 ;


こうした、 水も漏らさぬ、

緊密な連携性は、 単に、

報酬や食い扶持で雇われただけでは、

築き得ず、 恐らく、 幼少の頃より、

長く、濃厚な時間を共に過ごし、

致経氏の抱く、 大志や、 その人生、への、

ビジョンを共有すればこそ、

成し得たのでしょう。


「 俺たちが、 みんなで、

致経を盛り立てるんだ❗ 」 ;


「 あぁ、アイツは、 俺たちがいないと、

ダメだからな 」 ;


戦場でこそ、 「 大矢 」、の、

二つ名で恐れられた猛者でしたが、

日常では、 どこか、 ぼんやりとしていて、

こと、 世渡りとなると、

からっきしだった致経氏を、

みんなで支え、

一廉 ( ひとかど )の侍にしてやろうと、

黒づくめの旧友たちが、 一生懸命に支えた、

様子が、 目に浮かぶようです。


@ 「 皆が、 御大将のために、

御大将が、 皆のために 」 ;


かつて、 歴史の表舞台で活躍した、

者たちの陰には、 こうした、

無数の者たちの存在があり、

彼らの働き得ようらによって、 多くの、

偉業が、成し遂げられてきたのでしょう。


@ 藤原頼通氏の屋敷へ至る、

道々には、 平氏などの、

兵らが、 常に、 張り付いており、

日頃から、 厳重に、 頼通氏ら、への、

警固が、 成し付けられていた、

事が、 垣間見られる宛ての事でもあり、

辻々にまで、 蜘蛛の巣のように、

情報網らが、 張り巡らされてもいた、

訳であり、

昼でも、 夜でも、 異変らが、あれば、

その情報網らを構成する、

所々の人々が、 より、 直ちに、

対応をし、 知らせら、を、

蜘蛛の巣の中心を占める立場にある、

頭な人々へ伝えもし得る、

態勢も成してあった、 と、

観られる。



☆ 【 研究 】 ; 対等な個人も、

「 囚人のジレンマ 」、 により、

搾取関係に陥る❗ ;

2019/ 11/17 17:00 ;

ID:PoktJ6sN9 ;


搾取関係とは、 搾取する側は、

される側の利益を犠牲にして、

不当な利益を得、

搾取される側は、 たとえ、 自力で、

その関係性を解消できる、 としても、

そうせずに、受け入れている❗ 、

関係 、 を言う。


今回に、 東京大学の群婁 グル ;

グループ ; 、 は、

二人の個人らが、 相手を学習し、

自身の利益を追求する中で、

対称的な両者の間にも、

搾取関係が発生する❗ 、

ことを、 理論的に示した。


社会で、 頻繁に見られるような、

個人が、 利己行動か、

利他行動か、の、 選択を迫られる、

葛藤を表現した、 数理モデル 、な、

「 囚人のジレンマゲーム 」 、 では、

相手を裏切ると、 自身に、

利益がもたらされる❗ 、

が、

相手に合力すると、 裏切りによって、

自らが、 得る、

以上の利益を、

相手に、 もたらし得る❗ 。


これまでの、

囚人の焦宛 ジレン ; ジレンマ ;

、 における、 研究では、

非対称な、 搾取関係が発生する機構は、

解明されていなかった。


本研究者らは、 人間、 などの、

高度な知能を持つ生物に見られる、

特徴として、

個人が、 関わる相手の行動によって、

自身の行動を使い分ける、 状況を想定し、

戯務 ゲム ; ゲーム ; 、

を繰り返し行い、

得られた経験らから、

自分が、 より、利益を得るように、

学習を行う、 過程を定式化した。


その上で、 学習によって、

どのような関係が、形成されるかを、

仕観例 シミレ- ;

シミュレーション ; 、 した。


結果にて、 両者が、 同様に、

自身の利益を大きくしようと、

学習している、 にも関わらず、に、

その間には、

搾取関係が発生しうる❗ 、

ことが、 示された。


始めは、 似た戦略をとっていた両者が、

相互に、 学習を行うと、

心が狭い者は、

寛容な相手を学習することで、 より、

心が狭く、

寛容な者は、

心の狭い相手を学習することで、 より、

寛容になる❗ 、 と、いい、


戦略な上での、 微小な差が、 増幅され、

搾取として、 定着する❗ 。


すなわち、 始めは、 ほぼ、

対称的な、 両者の間に、 後天的に、

搾取関係が発生する、

「 対称性の破れ 」 、 を発見したのだ。


両者が、 自身の利益を追求するだけで、

その学習が、 対称的である❗ 、

にも関わらずに、 搾取が生じうる、

ことを示した、本研究の成果は、

社会における、 搾取の発生起源について、

新たな視点を提供している。


論文の情報: 【 Physical Review Research 】Emergence of Exploitation as Symmetry Breaking in Iterated Prisoner’s Dilemma

https://univ-journal.jp/28871/?show_more=1


ID:RyT82ZyL0 >>2 ;

経験則が、 証明になったのは、

大きく違うよ。

いつの間にか、 主従関係みたいに…、

じゃなく、

人は、 意識的に、 心掛ける、など、

しない限りは、 必然的に、

主従関係になってしまうって、

ことなんだから。

道徳教育を始めとした、 様々な部分は、

見直す必要があるだろうね。


ID:mAohW1530 ;

つまり、 隙を見せると、 どんどん、

漬け込まれて、 単価を下げられ、

搾取される。


ID:kqiAThJ90 ;

物事を円滑にすすめるために、

そういう関係性になってしまうんだろう。


ID:Pl4+sLjB0 ;

人類、みな、平等って、

絶対に、纏まらないよな。

小さな会社の仕事でさえ、

理拿 リダ ; リーダー ; 、や、

上司がいないと、 困ってしまう。

何かあった時に、責任を取ったり、

人を指導をしたりする人が、

新人と同じ、待遇なんて、

それこそ、不平等だ。

重い責任を背負ってても、

経験や知識を蓄えて、 周りを支えても、

初任給の新人と待遇が変わらない、

世界なんて、 嫌だろ… 。

差がありすぎるのも、 問題だけど、

無さすぎるのも、無理があるよ。


ID:ECaQC6WP0 ;

行きすぎた寛容性は、

相手を増長させるだけと、 実験で、

改めて、証明された意義は、大きいよ。


ゲーム理論の実験で、 優勝した戦略が、

基本的に、 相手を信用するが、

裏切り者には、

徹底的な報復を加える❗ 、

 というものだった。


ID:jIKuHlDL0 ;

いい人が、 出世しないと、よく、聞くが、

そういう論理的必然があるわけなんだね。

これは、いいことを学んだ。


@ 反社会員、 な、

反日員らを、 より、 無力化してゆく上で、

より、 不作為性らを自らに成して、

何の足しにも成らないままで過ごす、

者らは、

日本人として、生まれ得てあっても、

日本人たちの一般の側に立つ、

日本人たち、と、その子孫員らから、

日本人としての立場を、

改めて、 承認され、

与え付けられるべき、 筋合いから、

より、 自分と、その子孫員らとを、

遠ざける向きへ、 余計な、

圧力らを掛け増してゆく事になる。


誰彼らが、 より、

日本人たちの一般の側に立って、

働くにしても、

反日員らの側を利する、

不作為性らを余計に成す、

日本人モドキらへ対しては、

何らかの、 償いようら、を、

強いてでも、させない訳には、

いかなくなる。


反日員ら、などへ対して、

不作為性らを成し付ける事で、

保身性を自らの側に成し付け得る、

つもりに成れる主らは、

その精神系に、知的な、 障害性なり、

問題性なりのある主らであり、

治療と保護の対象として、

一般の社会らから、は、隔離して、

その、 同じく、

不作為性らを成し付けた場合の、

家族員らと、共に、

そこで、 暮らし、

一般の社会らへの貢献性のある、

仕事らへ従事させてやり、

一般の社会の主らの、

見守りようらを通して、

より、 ましな、 者らについては、

一般の社会へ参加し直す、

機会らも与え付けてやるべきだが、

より、 早くに、

日本人たちの一般の側に立って、

働く事を選び得た、

日本人たちや、 その子孫員らの一般が、

それ位で、 勘弁してやれる、

日本の内外の状況らに恵まれ得る、

とも、限らない。



☆ 三橋貴明氏❗ ;


ドイツ経済と妄想の財務省❗


2019-11-19 09:37:54

テーマ:欧州経済

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三橋TV第165回【病院が暇なのは、良い事だ】


 何度か解説しましたが、財務省は2025年PB黒字化目標の達成の前提として、外需(輸出)が2006年並に膨張するとしています。

 頭がおかしい、としか表現のしようがない狂った前提ですが、他に方法はありません。

◆ 民間企業収支+民間家計収支+政府収支+海外収支=0

 の恒等式からは、誰も逃れられない(当たり前ですが)。


 政府のPB赤字を黒字化するということは、「政府以外」の収支について赤字拡大するか、黒字縮小するしかありません。


 さすがの財務省も、

「政府のPBを黒字化するため、日本国民、日本企業を赤字化します」

 とは、宣言できません。

 というわけで、海外に赤字を押し付け、自分たちの赤字縮小分をカバーしようとする、厳密には「カバーするという前提」になっているのです。


 もっとも、誰でも分かりますが、すでに外需の06年並の膨張などありえません。というか、端から妄想でした。


 米中覇権戦争に基づく、中国需要の停滞。それを「当て」にしたドイツ経済の失速。

 ブレグジットはいかなる結末を迎えるか不明ですが(12月12日に分かりますが)、いずれにせよ世界的な需要低迷は回避できないでしょう。


 特に、最初に経済の落ち込みが明らかになったのは、ドイツです。(消費増税の影響で、次が日本でしょう)

『ドイツ経済、第4四半期はゼロ成長に-独連銀予測

 10-12月(第4四半期)のドイツ経済は恐らくゼロ成長になると、連邦銀行(中央銀行)が予測した。ドイツはリセッション(景気後退)入りを回避したが、成長が近く回復する兆しはほとんど見られないことを示唆した。

 ドイツ連銀は18日公表した月報で、国内製造業の低迷が緩和しつつある兆しが控えめながら表れていると指摘。依然として堅調を保つ雇用市場を「著しい下降」が影響し始めているものの、内需が引き続き景気を後押しし続けるはずだとの見方を示した。(後略)』

 参考まで、2018年の輸出依存度・輸入依存度。

【2018年 世界主要国の輸出依存度・輸入依存度】


http://mtdata.jp/data_67.html#izon

【歴史音声コンテンツ 経世史論】


http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。

 2018年の輸出依存度は、ドイツは38.2%。相変わらず、韓国並に高いです。


 ちなみに、ドイツは中国やロシア、EU加盟国相手に貿易黒字を拡大し、上記の「恒等式」の海外収支を大幅に赤字にすることで、政府の財政黒字を達成していました。

 日本の財務省のモデルは、要するにドイツなのです。

 何しろ、ドイツはユーロの盟主です。南欧諸国は、どれだけドイツの輸出ドライブを受けても、為替レートは変動しない。

 EUに加盟している以上、関税をかけることもできない。


 結果、対独で貿易赤字が膨らんでも、是正は不可能。逆に、ドイツは「海外収支」が確実に赤字になるため、政府収支を黒字化できる。


 無論、景気が良く、対独貿易赤字ユーロ加盟国が民間投資拡大(民間企業収支の赤字)で恒等式を満たせるならばともかく、「今は違うでしょ」という話です。


 繰り返しになりますが、財務省のPB黒字化目標は絶対です。それにも関わらず、外需が縮小。さらには、企業収支の赤字拡大も望めない(デフレが続く以上、負債・投資を増やす企業はいません)。


 となると、結局は公共サービス・投資の縮小(政府支出削減)か、増税という話にならざるを得ません。すでに「提言」が出始めていますが、更なる緊縮財政、更なる消費税増税、更なる社会保障負担引き上げです。


 外需で財政を黒字化するという「ドイツモデル」が崩壊した以上、PB黒字化目標自体が妄想なのです。


 10-12月期の経済成長マイナスは避けられないでしょうが、「結果」が判明した時点で、財務省の妄想から脱する。具体的には、PB黒字化目標を破棄する。

 PB目標ある限り、我が国の衰退は避けられない。衰退回避のためには、

「PB黒字化目標は、国民赤字化目標である」

 という事実を早期に国民が共有し、政治家に「教える」必要があるのです。

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☆ ガン細胞たちは、

ブドウ糖だけ、 を、

唯一の、主な、栄養分としてあり、

糖質を制限する事を含む、

ビタミン・ケトン療法は、

ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、

ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、

ビタミン、たち、に、

ミネラル 、たち、を、 完全以上に、

飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、

一部の人々を除いた、

ほとんどの人々の健康性を成し続ける、

代謝ら、を、

完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、

これら、を、 より、 欠いてしまう事は、

万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、

より、 余計に、 成す事を意味する。


☆ Cancer cells

Only glucose,

As the only main nutrient,

Including restricting carbohydrates,

Vitamin / ketone therapy

Even if

you make cancer cells attack soldiers,

This will reduce

the possible degree of cancer.

With proteins,

Vitamins,

Minerals, more than complete,

Drink and eat, keep taking,

Excluding some people,

Keeps the health of most people,

Metabolism,

It ’s necessary to continue

to do more than perfect,

The more you miss these things,

Cause all kinds of illness,

possible degree,

More than that, it means to do it.


☆ いずれにせよ、

日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。