経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 累代の策主ら❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 累代の策主ら❗ ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


☆ 尾張でも、 988年、 な、

永延2年、 の、11月8日に、

朝廷へ、 訴えが起こされ、


太政官に提出された、

「 尾張国 郡司 百姓 等 解文 」 ;

≒ 尾張国申文 ; 、は、


国司苛政上訴の詳細な事柄らを示す、

史料として、 有名だ。


藤原元命は、 この時の尾張守で、

解文 ゲブミ 、において、

その、 非法ぶりを訴えられ、

989年、の、永祚元年、の、2月5日に、

朝議において、 この問題が、 審議され、

同年の4月5日の除目 ジモク ;

≒ 人事異動 ; 、で、

守を停止 チョウジ 、 された。


が、 その後も、 彼は、 995年、の、

長徳元年、の、吉田祭での、

上卿弁代役をつとめるなどし、

官界に、身を置き、 その子の頼方は、

従五位下石見守 ジュゴイゲ・イワミのカミ 、

と、成り、

頼方の子の、 頼成は、

従五位上越前守、 と成り、

受領の家として続いている。


「 尾張国郡司百姓等解文 」、 により、

元命は、 私欲を満たすべく、

貧しい農者らから、 苛烈な収奪を行う、

受領の代名詞にされ、

後世の説話の世界でも、その評判は、

非常に悪い❗ 。


「 地蔵霊験記 」 、という、 書物には、

「 術つきて、東寺門にて、 乞食しけるが、

終いには、 餓死したりけり 」、

等と書かれる。


この訴状は、 国司の下の、

当時の国守の任国への支配ぶり、

国の状況を読み取り得る、

貴重な資料となっている。


例えば、

第19条の、

「 馬津の渡りの、船無きに依り… 」、

25条の、

「 購読師の衣料、並びに、僧尼、

等の、毎年の布施の、稲、

万2千余束 ツカ の事」 、 等は、

正に、 地方行政の長として、

国司か、国守、が果たすべきであった、

仕事らの事が書かれている。

その他に、 飢饉や、火災などの際に、

窮民を救うべき、 食料の倉出し ;

≒ 出庫 スイコ ; 、のような、

社会福祉活動も、 国衙 コクガ ;

≒ 地方の役所で、 警察署 ; 、 の、

仕事なのに、

国守が、 それをしなかったので、

それらの一部な事らは、 郡司らが、

私財をもって、 補わざるを得なかった、

と、訴えている。


伝わるのは、 その訴状だけで、

元命が、 どう反論したのかは、

残っていないので、

実情が、 どうだったのかは、解らない。


当時の公家の日記でも、訴えられた、

31ヶ条らの中で、 不法とされたのは、

1か条だけ、と、いわれる。


当時は、 旧来の律令制の枠組みのままでは、 地方の行政が成立たなくなっていた、

「 前期 王朝国家」 、 への、

転換点にあたる時期であり、


ここでの、

「 百姓 」、 は、

『 農員ら 』 、 ではなく、

名 ミョウ 、への耕作を請け負い、


農業や漁業、などの、 産業らでの、

大規模な経営を展開し、

富を蓄積していた、 郡司にも成る、

『 田堵 大名 タドダイミョウ 』 、や、

『 田堵 小名 』、 に、 田堵、 などの、

田堵負名層で、 新興勢力の、

「 農業経営者などの、事業者 」、 であり、


「 納税者 」、 として、 朝廷が、

宛にした人々だ。


「 農員ら 」、 などは、

その下で働いていた。


一方で、 朝廷は、

旧来の律令制の枠を越えて、 国守 ;

≒ 受領 ; 、らへ、

大幅な裁量権を与えて、

地方の農業、などの、 産業らの振興を図り、

かつ、 税収の増加か、

何らかの意味での、得られ得る税らの、

質的な度合の増加を目指した。


元命が、 尾張国の守となった、

花山天皇の時代も、

元命の甥 ; ≒ 一説に、叔父 ;

、の、藤原惟成氏や、藤原義懐氏も、

その様な政策を進めていた。


元命の当時の尾張も、正に、

その様な利害の対立のまっ只中にあり、

この状況は、一人、

元命だけが、 直面したのではなく、

その14年前の、 974年、 な、

天延 2年 、 にも、

尾張の国人 コクジン 、 らは、

国司 ; ≒ 守 ; 、を訴えて、

解任させ得ており、

その、 20年後の、千8年、な、

寛弘 5年 、 や、 千16年、 な、

長和 5年 、 にも、 結果は、不明ながら、

尾張の国人らは、上訴を行っている❗ 。


939年、な、 天慶 テンギョウ 2年 、

には、 尾張国で、 国司 ≒ 守 、

が襲われ、 殺されている❗ 、 などし、

豊かなだけに、極めて、

統治の難しい国だったらしい。


他国の例では、 千12年、 な、

長和元年、の、 加賀国の、

国司苛政上訴では、 守は、

反論の証拠と証人を揃えて、 臨んだ、

が、

その裁判に、 訴訟人、な、

加賀の国人が、 現れず、

不問となった。


詳細な内容は、 残っていないものの、

百姓から、 国司についての、

訴が起こされた例は、 この時期の、

公卿らの日記、 などに、

多く、 記されている。


国司苛政というと、 国司側による、

一方的な、 収奪で、

弱い農者らが苦しめられた、

との、 意目侍が抱かれ易いが、 時には、

上訴どころか、 千23年、 な、

治安 3年 、 の、12月には、

丹波守の、藤原資業 スケナリ 氏の、

京都の中御門の屋敷を、

丹波の国人の騎兵らな、

十数人が、 焼討ちにした❗ 、 とまで、

小右記にあり、

京に近い国で、 恐らくは、

京の法律の専門家らとも連携しやすい、

尾張国だから、 訴訟で済んだものの、


その前後の坂東 ; 関東 ; 、では、

恐らく、同じ様な、 国司と、 国人ら ;

≒ 負名経営者に、郡司や、在庁官人ら ;

、との、軋轢は、

戦乱にまでなっている。


平将門氏による、 天慶の乱 、に、

『 今昔物語集 』、 の、巻の第25第9の、

「 源頼信の朝臣、平忠恒を責めたる話 」、 や、

その後に、長く、関東を疲弊させた、

平忠常の乱も、 国司と国人の抗争であり、

「 百姓 」、 が、

非武装の農者らでは、ない❗ 、

事が、見て取れる。


前述の、藤原惟成氏は、 984年、な、

永観 2年 、 に即位した、

花山天皇の側近として活躍し、

花山帝が、 精力的に発布した、

政策な事らへの立案に、 深く参与し、

花山帝の政策な事らは、

荘園らへの整理令や、

武装への禁止令、に、

物価への統制令、と、

地方行政への改革、 などから構成される、

「 斬新な内容 」、 を持った、

花山新制を成し、 その花山新制は、

摂関家や有力寺社 ;

≒ 院宮王臣家 ; 、らと、

土地、 などの、彼らへの寄進により、

結びついていた、 当時の、

郡司、 などに成っていた、

田堵負名層と対立する物だったので、

花山天皇が、 摂関家の、

藤原兼家らな、 親子の計略により、

986年、な、 寛和 2年 、 に退位し、

摂関家の兼家らが、再び、政権を握る、

余波を受けて、

花山新制の方針に沿って、

行政を遂行した元命も、

尾張での苛政を名目に、 罷免された、

とする、 見方もある。


解文、な、 自体も、

和風の四六駢儷体、という、

高い文章の作成能力を要する、

漢文体を採っており、

解文、な、 その物は、

尾張の百姓の意向を受けた、

京都の文人が作成した、

とする、見方も、ある。

:

☆ 花山法皇 :


岩走る 滝にまがひて 那智の山

高嶺を見れば 花のしら雲 :


夫木抄 )【 通釈 】 :

那智の山の頂 オべ 、 を見上げれば、

岩に迸 ホトバシ る、 滝の飛沫ら、と、

見分けがつない様子で、 花達が、

白雲の様にかかっていることよ❗。 :


◇ 那智 ナチ :

和歌山県は、 那智勝浦町。

熊野那智大社がある。


【 補記 】 :

那智の山の中腹から落ちる滝の水しぶきと、

山にかかる、白雲の様な桜の一群が、

見分け難い、とした、 花山院は、

那智山で、千日修行をした、と伝わり、

二の滝の上流に、 行在所の跡が残る。


@ 年が明けた、 979年 、な、

天元 2年 、 に、 大陸から、 ついに、

情報が届いた。 


五代十国を構成してきた国らの一つの、

北漢が、宋に降伏して、滅び、

宋が、シナを統一したのだ❗ 。


唐の衰退から、各地に、諸侯が生まれ、

諸侯が独立して、国を成し、

朱全忠らにより、唐が滅び、

五代十国の混迷の時代を迎えてから、

半世紀以上を経ていた。


日本の源信師の、 『 往生 要 集 』 ;

≒ 985年 ; 、は、 宋にも伝わり、

仏教系の興りを喚起した。


@ 藤原純友の乱に、

天慶の乱が前後した頃の、海賊らの横行は、 日本の国内問題では、ない。


後世の倭寇も、 同じだが、

その構成員の圧倒的な大多数は、

日本人では、ない。 


何より、 日本語が通じない。


新羅の滅亡により、

日本列島の各地域へ流れてきた、

反社会的な、 部族儒教奴ら ;

≒ 部族ヤクザ員ら ; 、 に過ぎない、

新羅人らが、

日本で、海賊となり、

藤原純友の配下となって、暴れ回った、

が、

新羅の滅亡から、 何年が経とうと、

この流れは、変わらなかった。


979年、な、 天元 2年 、 の、

日本は、 シナを、ほぼ統一した宋による、

日本、への、 侵略の可損 カゾ ; リスク ;

、 に対して、

その時代の、朝廷がとりうる、

最大限の努力はしたが、

徴兵制である、防人 サキモリ 、は、

もう、百年以上も前に、 廃止されており、

防人と交替で導入した、

健児 コンデイ 、 も、

有名無実化していた ;


≒ 平安貴族らは、 自家に、

私兵らを備えたが、 日本の全域での、

社会治安を維持する事からは、

手をひいて、 死刑を、

2百年以上も、 廃止したままにしていた、

最中にあり、

私的な暴力行為らにより、

自分らや、自分の私兵らが、

死刑になる事を予防し、

昼日中の事では、 あっても、

闇での暴力沙汰を甚だしくし得て、

自らの利権となる物を、

私兵を欠いた人々、 などから、

収奪し易くする度合を高める、方向へ、

余計な、 圧力を掛け続けていた、

ので、

公 ;

≒ 社会一般の人々 ; 、 の、

福利らを成す為に働く、 あり得る、

正規の武装勢力、 へ対しては、

それを弱体化するに任せる、

傾向性を成してもいた 。


代わりに、

各地域の社会治安を、成すべくも

、乱すべくも、登場してきたのが、

武士らだ❗ 。


この武士らの存在により、

百年にも渡る、 新羅からの侵略の全てに、

完勝する事が出来た❗ 。


@ 私兵らを蓄えて、 日本の全域で、

社会治安を壊しながら、 より、

武力性の無い人々から、

利権性のある物事らを収奪していった、

有力貴族らと、

その手先の私兵らを束ねた、

軍事貴族らの、

作為と不作為とによっても、

治安が悪化し、経済恐慌が生じ、

人災が連続する最中 サナカ 、に、

一人の僧侶が、

人々の支持を集める様になっていた。


その僧の名は、 源信 ゲンシン 師。


かつて、同じ、 「 源信 」、という、

字の姓名の貴族が、

藤原良房への側近として、

左大臣職を務めていたが、

左大臣であった、貴族の名の読みは、

ミナモトのマコト 氏。


漢字で書くと同じだが、読みも違うし、

血縁関係もない、

活躍した時代も、違う。


極楽浄土へ往生する上で、

要 カナメ な事ら、 を、 集めて、述べた、

『 往生 要 集 』 、 は、

比叡山の中の、 横川 ヨカワ 、の、

恵心院に隠遁していた、 源信師が、

985年、 な、 寛和 元年、に、

浄土教の観点より、

多くの仏教の経典や論書ら、 等から、

極楽往生に関する、重要な文章らを集めた、

仏教書で、

一部が、3巻からなる。


死後に、 極楽へ往生するには、 一心に、

仏を想い、 念仏の行をあげる ;

≒ 観想念仏や、 唱える念仏 ;

、以外に、方法は、 ない、 と、説き、

浄土教の基礎を創る。


この書物で説かれた、 地獄や極楽の観念ら、 に、 厭離穢土 エド ・欣求 ゴング

浄土の思想は、

貴族や庶民らにも普及し、

後の文学思想らにも、大きな影響を与えた。


その末文からも知られる様に、

本書が撰述された直後に、 北宋の、

台州の居士で、 周文徳、 という人が、

本書を持って、天台山国清寺に至り、

シナの僧と俗の多くの尊信を受け、

会昌の廃仏、以来、 唐末から、

五代十国の戦乱の中で散佚した、

教法な事らを、

中国の地で復活させる、素材になった、

事が、特筆される❗ 。


源信師が説いた事は、

死後の極楽浄土、等の事で、 

この世で、 苦しい日々が続いても、

亡くなった後は、

心安らかな世界が待っている、

と、 説いた事は、

この時代の人達に、 救いをもたらした。


しかも、 源信師は、 出家して、

僧侶となった上で、日々、に、

念仏を唱える必要は、無く、

民間人のままでも、

仏を敬い、 念仏を唱える事で、

死後の救いが待っている、

と、 説いた。


これは、この時代の人には、

新鮮な教えであった。


何しろ、この時代の寺院は、

荘園を持ち、武力を持つ集団として、

認識されていた。


寺院の彼らが、

宗教の関係者な事は、 人々は、

知っていたが、 その彼らと、

今の自分達の心の救い、

との、 接点などは、

見いだせなかったのだ。


多くの寺院らは、

高位の貴族や裕福な者の為に祈る、

事は、 あっても、

一般の公民らの為に、

祈りを捧げる事はなかった。


それをやった、空也上人 ショウニン 、

が、 絶大な支持を集めたのも、

一般の人たちから、 一線を画した、

上位の身分にある者としての、

僧侶ではなく、

一般の人らに溶け込み、

一般の人らの中で、

念仏を唱える、 僧侶に成っていたからだ。


源信師は、

空也上人の教えを更に進めた。


空也上人は、

一般の人らの中に溶け込んで、念仏を唱えて、

心の救済をなしたが、 源信師は、

本に、導きになる事らを記した。


直に、手をさしのべるのではなくとも、

本を読める人らや、

その本の朗読を聞ける、全ての人らへ、

手をさしのべた。


その本こそ、 「 往生要集 」、 だった。


この本が、 世に出たのは、 985年、な、

永観 3年 、 の、 四月。

四月の何日かは、 判らないが、

藤原斉明と藤原保輔の兄弟が起こした、

傷害事件で、平安京の全体が揺れている、

最中に出た事は、判明している。


本は、 黙読されるだけでなく、

聞き手らを得て、 朗読される事が、

今に比べて、 ずっと、 当たり前な、

行為であった事も、

各地域の社会の一般の人々が、

共通な事らに富む、

世界観の体系を構築し合い、

互いに、互いの、

心分かりの度合いらを深め合う、

機縁らを増す上で、

極めて重要な働きを成し得ていた事も、

特筆すべき事だろう。


@ 五代十国時代 ; 907年 - 960年 ;

、は、 朱全忠らによる、 907年の、

唐王朝の滅亡から、北宋の成立までの間に、 黄河の流域を中心とした、 華北を統治した、

5つの王朝ら ; 五代 ; 、と、

華中に、華南と華北の一部を支配した、

地方政権ら ; 十国 ジッコク ; 、

とが、 興亡した時代 。


@ 往生要集が出た、 985年 、な、

永観 3年 、の、 4月27日に、

寛和 、に改元する、と、発表された。


名目は、 花山帝の即位に伴う、改元だが、

遅すぎる。

即位から、半年も経ている。

この半年は、 ただの半年では、ない。

花山帝の、 『 革新的な 』、

政策事項らが、 矢継ぎ早に発布され、

直ちに、混乱と、日本全国の至る所で、

荘園領主らの、有力な、貴族らや寺社らに、 猛烈な反発を喚起し得た、 半年だった。



☆ 花山帝が即位する前の時代に、

関白太政大臣にまで、 成った、

藤原兼通氏は、

同母妹の、中宮な、藤原安子女史、

と、 その所生の春宮な、 憲平親王に仕え、

同年に、 村上朝の有力者であった、

父の右大臣な、藤原師輔氏を失うが、

安子女史が、 村上帝からの、

寵愛を深く受け、 有力な皇嗣への候補な、

憲平親王 ; ( 冷泉帝 ) 、

・為平親王、 ・守平親王 ; ( 円融帝 ) 、

を儲けていたことから、

伊尹・兼通・兼家の兄弟は、

政治な上で、 極めて有利な立場にあった。


が、 964年、な、 応和 4年 、

に、 安子女史が急死し、 その際に、

最後まで、 彼女に付き添ったのは、

父の死後に、 彼女を支えた、 2人の、

「 兄 」、 である、 伊尹氏 ( 参議 )、

と、 兼通氏 ( 中宮権大夫 )、 であった。

安子女史への、 「 弟 」であった、

兼家 ( 左京大夫 )、は、

その場に立ち会えなかった。


967年、 な、 康保 4年 、 の、

正月に、 蔵人頭兼内蔵頭に任ぜられるが、

同年の5月に、 村上帝が崩御したため、

冷泉帝の即位と共に、

蔵人頭を、 弟の兼家と交代する。


この年に、 兼通氏は、 7年ぶりに、

昇叙されて、 従四位上に叙せられるが、

その弟な、 兼家は、 1年の間に、

三度の昇叙を受けて、 一挙に、

従三位に昇っており、 位階面で、

先を越されてしまう。


969年、 な、 安和 2年 、に、

兼通氏は、 従三位・参議に叙任され、

公卿に列すが、

兼家は、 参議を経ずに、 正三位・中納言、

と、 昇進面で、 水を空けられた。


これについては、 子息の・正光氏が、

源高明氏の娘な、 「 中姫君 」、

を娶っていたため、 安和の変の際に、

兄弟の中で、 唯一に、

高明派、と、みなされて、 冷遇された、

とする説がある。


兼通氏は、 世間体を苦にして、

出仕を怠るようになると、そのために、

冷泉帝に次いで即位していた、

円融帝からも、

疎遠に思われるようになってしまい、

この間に、 長兄な、伊尹氏は、

970年、な、 安和 3年 、 に、

摂政右大臣、 971年、な、

天禄 2年 、 に、 太政大臣に昇り、

翌る、 天禄 3年 、の、 閏2月に、

兼通氏は、 ようやく、 権中納言に進むが、

弟な、 兼家は、 権大納言兼右近衛大将と、

大臣の座を目前としていた。


この頃の、 兼通氏と兼家の官位の逆転が、

二人の不和への原因となった、

とも、される。


同年の、 8月ごろより、 伊尹氏は、

病に伏し、 ➕月には、 危篤に陥って、

21日に、 辞意を示す上表を行った。


それを知った、 兼通氏と兼家は、

早くも、次の日には、 円融天皇の御前で、

後任を巡って、 口論を始める有様であった。


23日に、 伊尹氏の摂政の辞任だけは、

認められる。

しかし、 帝の本心は、

伊尹氏への後任として、 右大臣、で、

藤原氏の嫡流とも言える、

藤原忠平氏の孫な、 藤原頼忠氏を、

内覧に任じて、 親政を行う意向であり、

実際に、 頼忠氏へ、内覧、への、

就任の意向を尋ねた、 という。


ここで、 兼通氏は、 この状況に乗ぜんと、

参内する。

帝は、 平素から、 疎んじていた、

兼通氏の姿を見ると、別の間へ移ろうとした。 そこで、 「 奏上したき事があります 」、

と、 兼通氏は、 言上し、

帝を座に留まらせて、 書を奉った。

その手跡は、 帝が幼い頃に亡くなった、

母后の、 安子女史のものであった。


先に、 弟の兼家に摂関職を奪われる、

ことを恐れていた兼通氏は、存命中だった、

妹の安子女史から、 「 将来、

摂関たることあれば、必ず、

兄弟の順序に従って、補任すること 」、

との、 書付を受け、 この書を懐に入れて、

肌身に離さずに持っていた、 という。

それを見た帝は、 亡き母の遺命に従う、

こととした、 という。

この、『 大鏡 』、 に記載された逸話に、

関連して、 以下の考察が行われている。


『 親信卿記 』、 において、

兼通氏の、 内大臣への就任の背景として、

「 前宮遺命 」、 があったとする、

記述より、 「 安子后の遺命 」、は、

存在したものの、 長兄の伊尹氏の、

摂関への就任より前に死去した安子女史が、

『 大鏡 』 、 に書かれたような、

摂関の地位について、 意見を述べた、

とは、 考えにくい。


実際の内容は、 自分を庇護してきた、

その、「 兄 」、な、 兼通氏、の、

将来に関するものだった。


当時の皇統について、

冷泉帝の子孫員が継承するもの、

と、 認識されており、

伊尹氏や兼家は、

冷泉帝の弟妹に対しては、

冷淡な対応を取っていたのに対し、

「 安子女史の遺命 」、 は、

兼通氏へ、 他の皇子女への庇護を求めた、

ものとする。


安子女史の没後に、 本来は、

皇位の継承を想定されていなかった弟の、

守平親王が、 立太子されて、

円融天皇として即位した後も、

伊尹氏や、兼家は、 円融天皇を、

「 一代主 」 ; ( 中継ぎの天皇 ) ;

、 とする、 認識を変えず、

自らの娘を、 后にすることはなく、

安子女史に、 守平殿下 ( 円融天皇 ) ;

、らを託された、 兼通氏だけが、

その娘を入内 ジュダイ させた。


その結果にて、 伊尹氏の死の直前に、

元服した、 円融帝は、 母の遺命に従って、

自らを保護し続けた兼通氏を、

唯一の後見として、 関白に任じ、

反対に、 冷泉上皇派とみなされた兼家は、

遠ざけられた。


まず、 10月27日に、 兼通氏に対して、

内覧が許されると、 11月1日の、

伊尹氏の薨去を経て、 27日には、

兼通氏は、 権中納言から、 一挙に、

内大臣に引き上げられた。


これらな、 一連の経過を受けて、

藤原済時氏は、 大納言を経ずに、

兼通氏が、 内大臣に就任したこと、

この人事を行った円融天皇、更には、

これを止めなかった藤原頼忠氏を、

強く非難している。


村上帝、と、藤原安子女史の死去後に、

その所生の皇女たちへの後見を、

藤原兼通氏が務めていた形跡があり、

兼通氏が、 守平親王( 円融天皇 ) 、

を養育していた、 藤原登子女史 ;

( 兼通・安子女史らへの妹、で、

重明親王の未亡人 ) 、 と親しかった ;

( 兼通氏の息子の朝光氏は、

重明親王と登子妃との娘を娶っている ) 、

こと、

円融天皇の元服の後に、 直ちに、

娘を入内させた公卿は、

兼通氏だけであったことから、 当初は、

皇位の継承の構想から外れていた、

守平親王 ( 円融天皇 )、 と、

為平親王、への、 後見も、

兼通氏が務めていた、とする、見方もある。


明けて、 973年、な、 天禄 4年 、

の、 2月に、

長女の藤原媓子女史を入内させ、7月には、

中宮とする。

当時は、

「 中継ぎ 」、 と、みなされていた、

円融帝、への、娘の入内を、多くの貴族が、

ためらった中で、 兼通氏だけが、

天皇の元服後に、程なく、

娘を入内させたこと、

円融天皇の同母妹であった、

選子内親王を、 兼通氏が、 自邸の、

堀河殿に引き取って、 昭子女王、と、

媓子女史な、 母娘が養育した、と、

されるところは、 注目される。


974年、な、 天延 2年 、 には、

藤原頼忠氏に代わって、 藤氏長者となり、

正二位・関白太政大臣に叙任され、

975年、 な、 天延 3年 、 に、

従一位に昇った。

976年、 な、 貞元元年、に、

内裏で、 火事が発生すると、

帝は、 兼通氏の邸宅である堀河第に移り、

時の人は、これを、

「 今内裏 」、と呼んだ。


弟の兼家との不仲は、 顕著で、

兼通氏の関白への就任の後には、

兼家の昇進を全く止めたばかりか、

異母弟の、 為光氏を、筆頭大納言として、

兼家の上位に就ける程であった。


さらに、兼通氏の娘の中宮な、

藤原媓子女史に対抗して、兼家の方でも、

冷泉上皇の女御であった長女の、

超子女史に次いで、 次女の詮子女史をも、

円融天皇に入内させようとしたおりには、

兼通氏は、 これを激しく非難して、

妨害した。

すると、 円融天皇は、

「 詮子を入内させないのは、

超子が生んだ子に、 皇位が継承されるのを、

兼家が望んでいるのではないか 」、

と、 疑って、 兼家を遠ざけ、 かえって、

兼通氏を重用するようになっていった。


超子女史が、 冷泉帝の皇子の居貞親王 ;

( 後の三条帝 ) 、 を生むと、

兼通氏は、 ますます、不機嫌になり、

円融帝に讒言する有様であった。

兼家の東三条第は、 閑院を間に挟んで、

堀河第に近接していたが、

東三条第に客が来ると、

兼通氏は、 これを罵り、人々は、恐れて、

夜に忍んで、東三条第を訪ねる様になった。


一方で、 兼通氏は、 右大臣で、

藤原忠平氏の子孫な、藤原頼忠氏、

との関係は、 良好であり、

全ての政務を、 二人で相談して、

執り行っている、と、評される程であった。

加えて、藤氏長者を譲られた事もあり、

頼忠氏を、自分の後継に、と、考え、

左大臣に、 頼忠氏を任じた。


977年、 な、 貞元 2年 、 の、

➕月に、 重い病に伏した兼通氏は、

家人より、 東三条第から車がやって来る、

と、 報を受け、 てっきり、

兼家が見舞いに来るのかと、

周囲を片づけさせて、 来訪を待っていたら、

兼家の車は、 門前を通過して、

内裏へ行ってしまった。


兼通氏が、もう臨終だと思った兼家は、

早速に、 帝へ、

その後任を奏請するつもりだったのだ。


これを知った兼通氏は、 激怒して、

起き上がり、 四人に支えられながら、

病をおして、 参内した。

ちょうど、 陛下に奏請していた最中に、

兼通氏が現れたために、 驚愕した兼家は、

他所へ逃げてしまった。


兼通氏は、 最後の除目 ジモク を行う、

と、宣言し、

左大臣の頼忠氏をもって、

自分の後任の関白とした。


その上で、 兼家の右近衛大将の職を解き、

治部卿へ降格してしまった。

兼通氏は、居並ぶ公卿たちを顧みて、

右近衛大将を欲する者は、ないか、

と、 問う。

公卿たちは、 言葉も出なかったが、

中納言、の、藤原済時氏が進み出て、求め、

右近衛大将に任じられた。


それから、程無い、同年の11月8日に薨去。

享年は、 53。 正一位を贈られるとともに、

忠義公と諡され、遠江国に封ぜられた。


兼通氏は、 きらきらと輝くような、

美しい容貌をしていた。

臨時客の日に、 真っ盛りに咲いていた、

紅梅を一枝を手折って、 冠に挿し、少し、

形だけ、 舞の手つきをした姿の立派さが、

『 大鏡 』 、で、 賞賛されている。


寝酒の肴に、 絞めたばかりの、

雉の生肉を食べることを好んだが、

毎日に、 その時間にちょうど合うように、

雉を準備するのが、 難しいため、

宵のうちから、生きた雉を用意していた、

という。


@ この、 兼通氏によって、

その弟よりも、 引き立てられた、

藤原頼忠氏の父 ;


天皇の即位礼は、 通常は、 大極殿で、

百官を集めて行うべきだが、

冷泉帝の精神の病が案じられ、

藤原実頼氏は、 異常事に備えるべく、

内裏内の紫宸殿で挙行させた。


これは、 実頼氏の功績である、

と、称賛され、以降は、 即位礼は、

紫宸殿で行われるのが、 通例となった。


冷泉帝に、 狂気の病がある以上は、

長い在位は望めず、 弟な、 皇子から、

早急に、 東宮を定める事になった。

同母弟で、 年長の為平親王が、 有力だった、

が、

東宮には、 守平親王、 と、 決した。


これは、 為平親王の妃が、

左大臣の、 源高明氏の娘であり、

実頼氏と、 師尹氏が、

源氏の高明氏が、将来に、 帝への、

外戚となる事を恐れたためであった。


969年、 な、 安和 アンナ 2年 、に、

代々に、 連携して、 謀を成しては、

他の氏族をおとしいれる事を、

家業としていた、 藤原氏員らにより、

失意の高明氏に、 突如として、

謀反への嫌疑がかけられ、 失脚し、

大宰府へ流される事件が起きた ;

( 安和の変❗ ) 。


実頼氏は、 この陰謀の首謀者、

と、 されているが、 その弟な、師尹氏、

または、 師輔氏の子の、 伊尹氏、や、

兼家 、 を擬定する説もある。


同い年に、 冷泉帝は、譲位し、

守平親王が即位して、 円融帝となった。


新帝が、未だに、 幼年であったため、

実頼氏は、 摂政に任じられた。

が、

翌る、 970年、 な、天禄元年、に、

病に倒れ、 5月に死去。

享年は、 71。 正一位が追贈され、

尾張国に封じ、清慎公、と、諡号された。


実頼氏は、 摂関を歴任したものの、

帝との外戚関係を結ぶ事ができず、

自らを揚名官 ( 名前だけの名誉職 ) 、

の、 関白、 という意味で、

「 揚名関白 」、と、 称している。


村上朝においては、 師輔氏、

冷泉・円融朝においては、 両天皇と、

外戚関係にあった、 師輔氏の子、な、

伊尹・兼家、 等が、実権を掌握した、

と、 捉えられている、

が、 村上朝においては、

太政官符・宣旨の発給への責任者である、

上卿の回数が、 師輔氏と較べて、

多い、事や、 冷泉帝の即位式の際に、

通常は、 大極殿で行うべきところを、

天皇御悩のために、 紫宸殿での、

挙行に変更させた事、 等を考慮すると、

実頼氏の政治的実権が、乏しかった、

とするのは、 穏当ではなく、

更に、議論が必要であろう。


実頼氏は、 有職故実に詳しく、

父な、忠平氏の教命を受け、

( 忠平氏の教命は、 実頼氏が、

『 小野宮故実旧例 』、 として纏めた ) 、

朝廷儀礼の一つである、

小野宮流を形成した。


実頼氏の流派が、 小野宮流と呼ばれる、

所以は、 彼の邸宅の名による。


その日記な、 『 清慎公記 』 ;

( 『 水心記 』、 ともいう ) 、

を著していた事が、

『 小右記 』、 等の逸文によって知られる。

藤原公任氏が、 『 清慎公記 』、の、

部類記を作成する際に、 書写をせずに、

原本を、 直に、 切り貼りしたために、

部類記に収録した、 以外のものは、

反故になってしまい、

元来の所持者であったと考えられる、

公任氏の従兄弟の藤原実資氏 ;

( 公任・実資氏ともに、 実頼氏の孫 ) 、

の憤激を買っている。


その部類記も、 千15年 、 な、

長和 4年 、の、 藤原教通邸の焼亡の折に、

焼け失せたが為に、現存していない。


和歌に秀で、 歌集な、 『 清慎公集 』、

がある他に、 『 後撰和歌集 』( 9首 )、

以下の、 勅撰和歌集に、

34首が採録されている。

笙・箏の名手として知られ、 特に、箏は、

醍醐天皇より学んでいる。


実頼氏は、 多才で、趣味も豊富である上に、

きちんとした性格で、 人の模範として、

引かれる程であった。

一方で、 心の奥底が深く、

気難しい性格であった、 という、

評価もある。


実頼氏は、 私邸の南庭に出る時、常に、

冠を被っていた。

人が、 これを怪しんで聞くと、

稲荷山が、 南庭から望まれ、敬して、

威儀を正しているのだ、 と、 答えた。

もしも、 これを忘れれば、 袖で、

頭を隠して、邸内に駆け入っていた。

彼の謹直なる事、かくの如し。

( 『 大鏡 』 ) 。


その異母弟の、 師輔が、長身であった、

のに対し、 実頼氏は、 背が低かった。

そのため、糊のきいた強装束を用いていた

( 『 富家語談 』 ) 。


平将門氏への追討の将軍であった、

藤原忠文氏は、 東国への到着の以前に、

乱が決着したため、 そのまま、 帰京した。


その論功行賞について、

「 賞の疑はしきは、ゆるせ 」、

と主張する、師輔に対し、 実頼氏は、

「 疑はしきことをば、行はざれ 」

、と主張し通して、 恩賞を出さなかった、

ので、 忠文氏の恨みをかった。

そのために、 忠文氏の怨霊によって、

実頼氏の子孫が繁栄しなかった、

と、 いわれている ;

( 『 古事談 』 ) 。


実頼氏は、 小野宮第の大炊門の前に、

菓子を置き、 それを食べる、

京の民衆の雑談を聞いて、 世情を知った ;

『 古事談 』 。


小野宮第の四足門に、

菅原道真氏の霊が来て、

実頼氏と、終夜を対談した、

と、 いわれている ;

『 富家後談 』 。


師輔の亡霊が、 生前に、 実頼家の、

子孫の断絶の祈願をした事を語った、

という話を、 実頼氏の孫な、

藤原実資氏が、 観修僧都から聞き、

「 骨肉と云ふと雖も、 用心あるべきか 」

、 と述べた ; 『 小右記 』 。


村上天皇の御前で、 実頼氏が、

師輔と、 醍醐帝の皇女の、

康子内親王との、 密通を暴露した❗ ;

『 大鏡 』、 『 中外抄 』。


『 栄花物語 』、 に、

「 いと、 たはしき ( 淫しき 」、

と、 評価される程、

師輔が好色であった、 のに対し、

実頼氏が、 当時の貴族員としては、

珍しく、 堅物であった、 という。


また、 『 中外抄 』 ;

( 藤原忠実氏の語録 ) 、 は、

摂関家の言い伝えとして、

「 九条殿 ( 師輔 ) 、 は、

まらのおほきにおはしましければ 」、

という、 記述がある。


実頼氏の薨去の折には、 諸人が、

小野宮第の門前に集まって、 挙哀した。

; 『 富家語談 』 。



☆ 984年、 な、 永観 2年 、に、

円融天皇は、 冷泉天皇の皇子な、

花山天皇に譲位した。


新帝への外祖父である、 藤原伊尹氏が、

既に他界していたために、

伊尹氏の弟で、 関白だった、

兼通氏に見込まれて、 関白に据えられた、

頼忠氏は、 そのまま、 関白に留まったが、

東宮には、 懐仁親王がなった。


頼忠氏は、 外戚たらんと、 花山帝にも、

諟子女史を、 女御 ニョウゴ 、 に入れる、

が、

花山帝の寵愛は、 受けられず、

子が、 得られなかった。


また、 若年ながら、 新帝への補佐役として、

権 ゴン 中納言に抜擢されて、

将来の大臣・関白への資格を得た、

藤原義懐氏 ;

( 伊尹氏の五男で、 花山帝への叔父 ) ;

、が、 加わった事で、 更に、

彼の立場は、 不安定にされた。


こうした中で、 積極的に、

親政を進めようとする花山帝、 及び、

これを補佐する、 義懐氏らと、

頼忠氏、との確執は、 深まり、

この年の12月28日に出された、

「 令上封事詔 」 ;

( 『 本朝文粋 』 、 に所収、 実際に、

これを執筆した、 慶滋保胤氏の、

代表作としても、知られる ) ; 、

では、 「 大臣重禄不諫 」、 と書かれて、

頼忠氏以下の諸大臣が、

陛下から糾弾される、 事態となっている。


前の関白、への、 仲の悪い、 弟の、

藤原兼家は、 懐仁親王の即位を望み、

986年、な、 寛和 カンナ 2年 、

に、 策謀を講じて、 花山帝を出家させ、

退位させてしまった❗ ;

( 寛和の変❗ ) 。


幼い懐仁親王が即位して、

一条帝となる。


陛下らは、 母方の祖父の屋敷で、

育てられ、 慣れ親しんである、

母方の祖父と、 朝廷での政治を成し行う、

事が、 当たり前な、 世の中に成っていた、

ので、

外祖父たる兼家がいる、からには、

頼忠氏は、 関白を辞するしかなく、

兼家が、 摂政となり、

朝政を完全に掌握した。


頼忠氏は、 太政大臣の地位こそは、

維持したものの、 名目のみの存在と化し、 989年、 な、 永延 3年 、 に、

失意のうちに薨御した。

享年は、 66。


頼忠氏は、 参内するときは、 常に、

布袴を着ていた。

これは、 束帯に次ぐ、 礼服で、

普通の公家員らは、 普段着の直衣で、

参内しており、 それほどに、

謹直な人柄だった。


花山天皇と義懐氏、そして、

父の代からの側近で、

帝への乳兄弟でもある、 藤原惟成氏が、

中心となって推進した、 荘園整理令、

といった、 新制の発布、

貨幣の流通の活性化などの、

革新的な政策は、 関白の藤原頼忠氏ら、

との、 確執を招いた。

さらに、 皇太子、な、 懐仁親王、への、

外祖父である、 右大臣、な、 藤原兼家も、

花山帝の早期での退位を願い、

帝や義懐氏と、 対決の姿勢を示した。


藤原為光氏の娘な、 忯子女史に、

心を動かされた花山帝は、忯子女史を、

女御にする事を望み、

陛下の寵愛のし過ぎが、 忯子女史に、

無理を強いて、 結果的に、

病死させる事となった。

これに所懼を受けた陛下は、出家して、

忯子女史への供養をしたい、

と、 言い始めた。

義懐氏は、 帝の生来の気質から、

出家への願望が、 一時的なものである、

と、見抜き、 惟成氏や、 更に、

関白の頼忠氏も加わって、

帝に翻意を促した。


しかし、 986年、な、 寛和 2年 、

の、6月23日、に、 花山天皇は、

深夜に、 藤原兼家の子な、

藤原道兼に促されて、

宮中を後にし、 その後に、

三種の神器が、 その兄の道隆や、

異母弟の、 道綱らの手により、

皇太子の許に運ばれた。


全ては、 道兼兄弟の父である、

兼家の策略だった❗

、と、 伝えられている ;

( 寛和の変❗ ) 。

義懐氏が、 花山帝の「失踪」を知った、

のは、 その後のことだ。

義懐氏と惟成氏は、 必死に、

陛下の居所への捜索にあたったが、

義懐氏が、元慶寺 ; ( 花山寺 ) 、にて、

陛下を発見した時には、 陛下は、 既に、

出家を済ませていた。


自分達の政治的敗北を悟った義懐氏は、

惟成氏と共に、 その場で、 出家した。


『 枕草子 』、の、

「 小白河といふ所は 」、 の段には、

小白河第で、 6月18日から21日に行われた、

法華八講に出席していた、 出家する、

数日前の、 義懐氏の事が、書かれている。


僧侶となった義懐氏は、

比叡山の飯室に籠った。

藤原道長氏らな、 旧知の人達との交流は、

残しながらも、 その残り人生の、

ほとんどを、 仏門の修行に費やした。


その死を聞いた人々は、

「 義懐氏は、 極楽への往生を遂げた、

に違いない 」、 と、

語り合った、 と、 言われている。


その息子の、 2人( 尋円師・延円師 )

、 が、 義懐氏と共に、 出家、 続いて、

成房氏も、 長保 4年 ( 1002年 )、

伊成氏も、 寛弘 6年 ( 1009年 ) 、

に出家と、 義懐氏の息子らは、

若くして、 多くが、 出家の道をたどった。



☆ 三橋貴明氏❗ ;


屈辱のインバウンド戦略からの脱却を❗


2019-11-16 09:25:00

テーマ:日本経済関連

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三橋TV第164回【国産のステルス戦闘機作ろうぜ!】



三橋TV第164回【国産のステルス戦闘機作ろうぜ!】

 無事に帰国しました。

 本日は、三橋経済塾第八期第十一回講義開催日です。ちなみに、羽田に降り立ったのが昨日の16時。翌日に経済塾とは、なかなかハードでございますね(わたくしが決めたわけではないです)。

 ゲスト講師は青木泰樹先生。MMTを「経済学」的に学びましょう。

 ブログやツイッターからもお分かりでしょうが、半世紀になろうとする人生において、最高の「旅」を満喫しておりました。とはいえ、観光は観光であり、「暮らし」ではありません。


 イギリスで暮らすとなれば、色々とキツイことも出てくるのでしょう。とりあえず、イギリスの食事は、ネットで叩かれるほど酷くはないですが、美味しくはないです。


 また、現地の日本人の方が、特にロンドンでは「犯罪」がかなり深刻で、

「ソマリア移民が治安悪化を懸念して、子供をソマリアに帰国させた」

 と、事実なのか、都市伝説なのか,頭を悩ませてしまう話を教えてくれました。


 結局、あらゆる国がそれぞれ深刻で、かつ多種多様な社会問題、政治問題を抱えており、人々は足掻きながら暮らしているものの、観光客には「見えない」あるいは「見えにくい」という話なのでしょう。


 ちなみに、わたくしは外国人観光客や、日本人の海外旅行を否定したいわけではありません。

 今回、つくづくと思いましたが、わたくしたちは「自分と違う暮らし」が見たいのです。それこそが、海外旅行の醍醐味でしょう。


 無論、あらゆる「暮らし」がパーフェクトであるはずがなく、外国の方々は暮らしにおいてそれなりの問題を抱えているのでしょうが、それでも、人間は理想郷を求め、世界を旅したくなるのでしょう。

 違う暮らしと言えば、高山市(岐阜県)などの観光地で、多くの西欧人を見かけた際に、

「彼らは、一体、何が楽しくてこんな奥地(失礼)まで来ているのだろうか?」

 と、不思議に思ったことがあるのですが、先方からしてみれば、日本の街並み、人々の暮らしが「西欧とは違う」という話なのでしょう。


 特に、日本は「木の文化」であるため、西欧人にとっては新鮮なのかも知れません。我々が、エジンバラの旧市街・新市街の「石の街」に嘆息を漏らすように。(実際に暮らすとなると、滅茶苦茶寒そうですが)

 日本や英国の街並みは、別に狙ってそうなっているわけではなく、単に我々の御先祖様が暮すことで、自然に創出されたものです。現在の日本の光景は、先人の人生の結果なのです。


 現在の世界の観光資源の多くは、過去の先人の生活、暮らし、伝統の上に成り立っています。

 上記を理解すると、安倍政権の「インバウンド戦略」とやらが、何重にもおぞましく、邪なものに見えてきます。

【歴史音声コンテンツ 経世史論】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。

『「安い国」になった日本の現実は、日本人にとって幸せなことか

 米中貿易戦争の影響で中国経済が失速しているが、日本にやって来る中国人観光客の勢いは衰えていない。訪日外国人のうち3割弱を占める彼らの人数は、今年に入ってからも前年同月比で10%以上の増加が続いている。

 中国が不景気であるにもかかわらず、日本にやって来る中国人観光客が増えているのは、日本での買い物が「安い」からである。かつて日本は世界でも有数の物価が高い国だったが、景気低迷が長引き、その間に諸外国が目覚ましい経済成長を遂げたことから、日本の相対的な物価は安くなった。不景気になり、中国での高額なショッピングを手控えるようになったことで、余計に日本の買い物が魅力的になった面もある。

 一般的に各国の購買力の差はGDP(国内総生産)と為替レートによって決まる。1985年のプラザ合意によって日本円は10年間で1ドル=240円から80円台まで3倍近くに高騰した。同じ金額で買えるモノの量が3倍になったので、当時の日本人が海外に行くと全てが安く見えた。パリやミラノが、ブランド物を大量購入する日本人観光客であふれ返っていたのもうなずける話である。

 1ドル=約80円まで進んだピーク時と比較すると、今の日本円は25%ほど減価しているが、日本人の購買力は為替の変動以上に大きく減少している。その理由は、日本以外の各国が経済成長したことによって、日本の相対的な経済力が低下したからである。(後略)』

 デフレが続き、成長を続ける世界において、ほとんど唯一の「落第生」。GDP、所得が増えず、相対的に安くなっている日本。

 この現実から目をそらし、相変わらず緊縮財政と「ビジネスのための改革」に邁進する、我が祖国。


 政府が支出せず、カネ、カネ、カネ。デフレから脱却できず、経済成長率が低迷し、国民が貧困化。

「ならば、インバウンド!」

 と、自分たちが「将来世代」のために投資をするのではなく、過去の先人の遺産(観光資源)を切り売りする。しかも、外国人に媚びる。

 先人の生活、暮らしゆえに存在する文化、伝統を「カネ」に換算し、ビジネスと化してしまう。

 将来的に、我が国の観光資源はビジネスに食い荒らされ、魅力を失っていくのでしょう。


 そうではないですよね。

 我々が豊かになるべく、懸命に投資し、普通に暮らしていく。我々の暮らしが魅力的なものであるならば、自然、惹きつけられる外国人は多いでしょう。

 日本に魅かれた外国人は、勝手に観光に来ればいいのです。


 カネ目的で彼らに媚び、先人から受け継いだ資産を切り売り、安売りしていくのは、これは単なる「売国」であって、政府が推進するべき政策ではありません。

 そう言えば、以前、中野剛志先生に、

「自由貿易で製造業が衰退し、金融にシフトし、それでも衰退を止められなかったイギリスが何を『売り』にしようとしたか分かります。”観光”なんですよ」

 と、教えて頂いたことを思い出しました。


 我々は、豊かに生活し、他国の人々が羨む暮らしをし、

「高くても、素晴らしい日本人の暮らしを見たい」

 と、外国人が押し掛ける国を目指すべきです。安さを売りに、外国人に媚びる「屈辱のインバウンド政策」から脱却しましょう。

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☆ ガン細胞たちは、

ブドウ糖だけ、 を、

唯一の、主な、栄養分としてあり、

糖質を制限する事を含む、

ビタミン・ケトン療法は、

ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、

ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、

ビタミン、たち、に、

ミネラル 、たち、を、 完全以上に、

飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、

一部の人々を除いた、

ほとんどの人々の健康性を成し続ける、

代謝ら、を、

完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、

これら、を、 より、 欠いてしまう事は、

万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、

より、 余計に、 成す事を意味する。


☆ Cancer cells

Only glucose,

As the only main nutrient,

Including restricting carbohydrates,

Vitamin / ketone therapy

Even if

you make cancer cells attack soldiers,

This will reduce

the possible degree of cancer.

With proteins,

Vitamins,

Minerals, more than complete,

Drink and eat, keep taking,

Excluding some people,

Keeps the health of most people,

Metabolism,

It ’s necessary to continue

to do more than perfect,

The more you miss these things,

Cause all kinds of illness,

possible degree,

More than that, it means to do it.


☆ いずれにせよ、

日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。