経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 主君でなく、上司でしかなかった、室町将軍❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 伊達秘史❗ ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


☆ 「 政宗氏の弟 」、とされる、

住職❗ ;


東京都の、 あきる野市に、

大悲願寺 、 という、 寺があり、

注目すべき記録が残されている。


寺の、15代目の住職の秀雄師が、

伊達政宗氏、への弟だ、 というのだ❗ 。


大悲願寺には、 1622年、 な、

元和 ゲンナ 8年 、 の、 8月21日、に、

当時の住職な、 13代目、の、

海誉上人にあてた、

政宗氏の手紙が、伝わっている。


内容は、 大悲願寺を訪れた、

政宗氏が、 庭に咲いた、

白萩の美しさに心を奪われ、

江戸に帰ってから、

株分けを所望したものだ。


この手紙の包み紙の内側には、

「 実は、 大悲願寺の15代目の住職の、

秀雄師は、 伊達輝宗氏の末子で、

伊達政宗氏の弟だ 」 、

と、記されている。


これを書いたのは、 江戸時代の中期の、

住職な、 如環師 、 とされ、 彼は、

大悲願寺の過去帳 ;

( 『 福生市 史 資料編 中世寺社 』 、

に、 全文が、 翻刻されている ) ;

、も、 整理している。


そして、 その過去帳に、 如環師が、

秀雄師を、 政宗氏の弟 ❗

、と、 記した根拠があった。


秀雄師が、 15代目の住職を務めていた、

1636年 、 な、 寛永13年 、の、

5月24日の条 クダリ 、 に、

伊達政宗氏が没した時に、 秀雄師が、

その回向 エコー ; ( 供養 ) ;

、 を行なったことを示す、

次の記述がある。


「 奥州住、 伊達陸奥守権中納言

従三位・藤原政宗、左京大夫・輝宗之嫡子、

沙門秀雄兄、 寛永十三 丙子 五月廿四日薨、

七十歳也 」 。


亡くなった時の政宗氏の官位、

藤原 、 という、 伊達氏の本姓、

左京大夫・輝宗氏への嫡子、 という、

記述は、 正確であり、 そして、

「 沙門秀雄兄 」、すなわち、

「 私の兄 」、 で、 だから、

供養した、 というのだ❗ 。


過去帳は、 言うまでもなく、

住職が書くものであり、 つまり、

秀雄師、な、 自身が、

「 政宗氏は、 自分の兄 」

、と、 記したことになる。


また、 過去帳には、 秀雄師が没した、

1642年、 な、 寛永19年 、の、

7月26日の条に、

「 秀雄師は、 輝宗上、の、 二男で、

政宗上の弟 」 、 とある❗ 。


政宗氏の弟は、 小次郎氏、 の、

ただ一人だ❗ 。


それ以外の弟は、 系図な上には、

一切に、 出てこない。


すると、御落胤 、 という、

可能性も、ない、とは、 言い切れないが、

秀雄師 = 小次郎氏 、 という、

可能性が出てくる。


実は、 他にも、 小次郎氏の、

生存の可能性を示す記録がある。


『 治家 記録 』、 を編纂する際に、

史料として使われたのが、

当時の伊達家の日記、な、

『 伊達 天正 日記 』 、 だ。


原本を見ると、

政宗氏が、 小次郎氏を手討ちにした、

とされるら 天正18年、の、

4月7日の部分が、何行分か、を、

切りとられていて、 残された部分には、

政宗氏が、 小次郎への傅役 モリヤク 、

だった、 小原縫殿助 ヌイイノスケ 氏 、

を、 自分の屋敷に呼んで、

手討ちにした❗ 、 とある。


つまり、 小次郎氏を殺害した、

という、 記述は、

どこにも、 出てこないのだ❗ 。


他にも、 小原縫殿助氏は、 実は、

生きていて、 小次郎氏を埋葬した、

という、 言い伝えもある。


小次郎氏と小原縫殿助氏への墓は、

宮城県は、 登米市の、 津山町、の、

横山にある。


この墓を管理している、 曹洞宗の、

長谷寺の記録と、

『 津山町史 』、 によると、 はじめ、

小原氏は、 小次郎氏の遺骸を、

福島の、 ある寺に埋葬した。


そして、 旧葛西・大崎領が、

伊達政宗氏へ与えられると、

小原氏は、 小次郎氏の遺骸を、

この地に改葬し、 その後に、

追い腹を切って、 死んだ、 とある。


墓のある横山は、 政宗氏らへの母な、

義姫が、 政宗から与えられた化粧領で、

改葬は、

義姫の内命によるものだ、 という。


2人とも、 政宗氏によって、

手討ちにされた、 という、

『 治家記録 』、 と、 矛盾する。

☆ 母子で仕組んだ狂言だった❗? ;


結論から言えば、

毒殺未遂事件と、 小次郎氏への殺害は、

政宗氏と、 義姫との間で共謀された、

狂言ではなかったか。


小次郎氏は、 殺されておらず、

大悲願寺の秀雄師となったのではないか。


というのも、 小田原への参陣の時に、

政宗氏に、 実子は、 いなかった。


すると、 政宗氏に万一のことがあれば、

伊達家の血統を継ぐ者は、

小次郎氏だけだ。


それを、殺すとは、考えにくい。


だが、 小次郎氏を、

当主に推す勢力もあったのだろう。


小田原への参陣の前に、 政宗氏は、

伊達家の一本化を図るために、

弟を排除するべき、 必要性もあった。


そこで、 義姫と話し合い、

小次郎氏と小原氏とを殺したことにして、

小次郎氏の身を、 小原氏に託し、

寺に逃したのではないか。

2人の墓が、 横山にあるのも、

不居証 フイショ ; アリバイ ;

、 作りの一環だろう。


政宗氏と義姫との関係は、 おそらく、

幼い頃から、 ぎくしゃくしていたが、

かなりの部分は、

政宗氏の思い込みだったのではないか。


政宗氏は、 後年に、疱瘡にかかった際に、

義姫が見舞いに来なかった、

と、 語っている。


そうした体験から、 義姫は、

弟だけをかわいがり、自分を疎んじている、

自分は、 いずれ、

亡き者にされて、 弟が跡を継ぐ、

義姫の背後には、

敵対する最上義光氏がいる……、

そんな不安が、 徐々に、

育まれたのではないか。


政宗氏が、 小田原の、

豊臣秀吉氏に会いに行くときに、

一番に、 心配だったのは、

自分の留守中に、

小次郎氏を擁立した内乱が起きかねない、

ことだった。


政宗氏は、 それまで、

胸の内に抑えていた、 不信感を、

率直に、 義姫に伝え、 それを聞いた、

義姫も、 政宗氏の想いを汲み取り、

そこで、 考えられたのが、

この狂言ではなかったか。


2人で申し合わせていたのなら、

義姫が、 最上に逃げ帰ることは、

なかったのでは、 という、見方もあるが、

4年後 、 ということに、 意味がある。


政宗氏が、 家臣の鬼庭綱元氏に、

事件の直後に与えた、 と思われる、

手紙がある。


そこには、 義姫が、

政宗氏を毒殺しようとしたが、 背後には、

義姫の兄な、義光氏がいる❗ 、 という、

噂があり、 その通りだ、 と思う。


このままでは、

小次郎氏を守り立てる側との間で、

内乱になりかねない。


毒を盛ったのは、 母だが、

殺すわけにはいかないので、

かわいそうだけれど、

弟を殺すことにした、とある。


そして、 最後に、 信頼している、

お前にだけは、この事実を話しておくので、

お前が斟酌して、いい、 と思うことは、

世間へ口説き、広めてほしい、

と、 書いてある❗ 。


この指示から、 政宗氏は、

義姫に毒殺されそうになったので、

弟を殺したのではないか、 という、 噂が、

徐々に浸透していった可能性がある。


やがて、 義姫は、 周囲の、

自分に対する目が厳しくなってきた、

ことに、 耐えられなくなって、

実家に帰った。


あるいは、 実家に帰ることで、

自分が、政宗氏を毒殺しようとした事が、

真実だった、 と思わせようとした、

のかもしれない。


☆ 親子な、3人に去来する想いは… ;


政宗氏が、 大悲願寺に立ち寄ったのは、

秀雄師に会うためであった、 と、

地元では、 昔から、言われていた。


秀雄師は、 当時は、 住職な、

海誉上人への弟子になっていたからだ。


寺には、 政宗氏から贈られた、

茶壺もある、 という。

つまり、 記録には残っていないが、

大悲願寺には、 何度かを行っている、

可能性がある。


すると、 なおさら、 秀雄師、 つまり、

小次郎氏と会うことが、

目的だった、 と、 思えてくる。


事件の当時は、 政宗氏は、 24歳、

小次郎氏は、

10 〜 12歳 、 と、 推定される。


しかし、 事件の翌年、に、

政宗氏の初めての実子な、

秀宗氏が生まれる。


後継者ができた時点で、

小次郎氏が復活する必要は、なくなった。


逆に、 生きていることが、

知られては、 まずい。


政宗氏は、 小次郎氏が、

一番に、 気の毒だと、

負い目を感じていたのではないか。


だから、 会いに行った。

本当に、 気の毒なことをしたと、

謝る以外の気持ちは、なかっただろう。


政宗氏が、 大悲願寺で、

白萩を眺めた、2カ月後の元和8年10月、

最上家への改易により、

義姫は、 山形から、

仙台の政宗氏のもとに戻って、

その約9カ月後に、 亡くなった。


大悲願寺で、

小次郎氏と会っていたとすれば、

政宗氏は、 その様子を、

義姫に伝えていたかもしれない。


あるいは、 最上家への改易の噂は、

以前からあり、 大悲願寺で、

政宗氏と小次郎氏が、

義姫への処遇について、

話し合ったかもしれない。


その時、 親子な、 3人に去来した想いとは、

いかなるものだったのか。


いずれにしても、 秀雄師が、

小次郎氏とは、 断定できないが、

私は、 その可能性は、 高い❗

、と、 考えている。


そして、 小田原への参陣とは、

伊達家にとって、 かようにら

大きな犠牲を払うほどの、

重大な局面だったのだ。


紙幅の関係で、

説明を省略した部分も多いが、

この論に興味を持たれた方は、

拙著な、 『 素顔の伊達政宗 』 ;

( 洋泉社 )、 拙論、な、

「 伊達政宗と母義姫─

毒殺未遂事件と弟殺害について─ 」 ;

( 『 市史せんだい 』 Vol.27 

仙台市博物館 2017年9月発行 ) ;

、 を参照していただきたい。

※本記事は、 歴史街道 2018年 11月号 、

に掲載したものです。



☆ 岩手県は、 大船渡市の辺りにも、

鎌倉時代には、

鎌倉幕府の支配性が、及び得ており、

長崎、 という、 地名ら、などは、

鎌倉幕府の御家人らや、

その身内員ら、が、 当地へ、

出張って来ていた、事から、

その家名らや、 鎌倉の地名ら、

などに因めて、 名付けた物らの、

名残、 なのだ、 という。



☆ 1333 一味、散々 、 の、

1333年 ;


鎌倉幕府の滅亡~ ;

新田義貞氏の鎌倉攻めと、

北条高時氏の一族の最期 ;

5月22日 This Day in History ;

今日は何の日 ;

正慶2年 / 元弘3年 5月22日 ;


鎌倉幕府の最後の頭な、 北条高時氏が、

東勝寺で自刃。 鎌倉幕府が滅亡❗ ;


正慶2年 / 元弘3年 ( 1333年 )

5月22日、

新田義貞氏の鎌倉攻めにより、

北条高時氏らが自刃。

鎌倉幕府が滅亡しました。


5月8日に、 上野国は、 新田庄の、

生品神社で挙兵した、 新田義貞氏は、

小手指ヶ原の戦い、久米川の戦い、

分倍河原の戦いで、

鎌倉幕府軍を打ち破り、 5月18日、

ついに、 鎌倉への攻撃に着手します。


しかし、

鎌倉は、 源頼朝氏以来、 三方を、

山に囲まれ、 一方が、 海 、 という、

攻めるに難く、 守るに易い、

天然の要害の地として知られていました。


鎌倉に入るには、7つの口があります。


すなわち、 名越、朝比奈、巨福呂坂、

亀ヶ谷、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂で、

いずれも、 山を掘削して、

人馬の通行を可能にした、

「 切通し 」、 と呼ばれる、難所でした ;

( 七口は、 語呂合わせで、当時は、

七つでは、なかった、とも ) 。


これらの狭い口らさえ守れば、

鎌倉は、決して、

外敵の侵入を許すことは、ないのです。


5月18日に、 義貞氏は、 軍を三つに分け、

三方向から、 鎌倉に攻めかかりました。


右翼は、 大舘宗氏氏を主将に、

江田行義氏、里見義胤氏らが、

極楽寺坂へ、 左翼は、

堀口貞満氏を主将に、大島守之氏、

千葉貞胤氏らが、 巨福呂坂へ、

義貞氏、な、自らが率いる本軍は、

弟の脇谷義助氏らを従えて、

化粧坂へ、 向かいます。


これに対し、 鎌倉幕府軍は、

極楽寺坂には、 大仏 オサラギ 貞直氏、

長崎高重氏、 巨福呂坂には、

赤橋守時氏、 普恩寺入道信忍氏 ;

( 北条基時氏 ) 、 化粧坂には、

金沢貞将氏らが、 備えを固めました。


このうちの、 赤橋守時氏は、 その妹が、

足利高氏氏への、正室であったために、

北条高時氏に、 内通を疑われるのを、

よしとせず、 果敢に撃って出ます。


数で勝る堀口勢に、 突撃すること、

1日で、 65度にも及び、 ついに、

敵を、 洲崎 ( 現、深沢 、 付近 ) 、

まで、 押し返しますが、

赤橋らは、 そこで力尽き、 自刃しました。


堀口勢は、 この機に、

鎌倉に攻め込もうとしますが、

巨福呂坂を突破することは、できません。


切通しを突破できないのは、

極楽寺坂も、化粧坂も、 同じで、

攻防は、 5日間を続きますが、

極楽寺坂では、 主将の大舘氏が、

敵な、 鎌倉勢に、 本陣へ攻め込まれ、

討死するほどの激戦でした。


一説に、 大舘氏は、稲村ヶ崎の防衛線、

への、 突破に成功したものの、

後続がなく、討ち取られた、

とも、いいます。


現地には、 「 十一人塚 」、が、

建ちます。


新田義貞氏の攻める、 化粧坂の敵な、

金沢貞将氏も、 全く、付け入る隙を見せず、

やむなく、 義貞氏は、 この方面を、

脇谷義助氏に任せ、 自らは、 21日、に、

主将の大舘氏を失った、

極楽寺坂の方面に移りました。


『 太平記 』、 によると、 義貞氏は、

21日の深夜に、 稲村ヶ崎において、

龍神、八部衆に祈りを捧げ、

黄金造りの太刀を海中に投じると、

潮が引いて、 陸地が現われた、

と、 いいます。


引き潮でした。

義貞軍は、 そこから、 海岸線を突破、

極楽寺坂を守備する幕府軍の背後に回って、

これを突き崩し、鎌倉市街に突入します。


義貞軍が突入した知らせに、

各口を守備する幕府軍も、動揺し、

巨福呂坂も、化粧坂も、 破られ、

新田の全軍が、 鎌倉を制圧しました。


金沢貞将氏らは、 最後の猛攻を仕掛けて、

壮絶な討死を遂げ、

北条高時氏は、 一門とともに、

東勝寺に入り、一族員らは、 悉 コトゴト

く、 自刃 ジジン 、 します。


一説に、 北条一族の、 287人と、

その家臣の、 870人が、 最期を遂げ、

ここに、 鎌倉幕府は、 滅亡しました❗ 。


時に、 正慶2年 / 元弘3年 、 5月22日。

東勝寺跡の北方にあるのが、 通称では、

「 腹切りやぐら 」、 ですが、 実際に、

ここで、 腹を切った訳では、ありません。



☆ 新田義宗氏~

父・義貞氏の無念を晴らし、

鎌倉を奪還するも…… ;

 正平23年 / 応安元年 7月21日 ;

明治元年から、 丁度、 5百年前な、

1368年 、の、 9月3日 ;

新田義宗氏が、戦死しました。

新田義貞氏、の、 3男で、

兄な、 義興氏とともに、 関東、越後で、

足利方と戦ったことで、 知られます。


義宗氏の生年は、 諸説がありますが、

ここでは、 元徳3年 / 元弘元年 ;

1331年 ; 、 としておきます。


義宗氏には、 二人の兄たちが、いますが、

長兄の義顕氏は、 父親よりも先に戦死し、

次兄な、義興氏は、

母親の身分が低かったために、

義宗氏は、 3男ながら、

嫡子として扱われました。


6歳で、 昇殿を許されますが、

8歳の時に、 父な、義貞氏が討死

ウチジニ 。


以後は、 越後の新田一族のもとで、

成長した、 と、 いわれます。


正平5年 / 観応元年 ;

1350年 ; 、に、

『 観応の擾乱 ジョウラン 』 、

と呼ばれる、 混乱が始まります。


征夷大将軍、の、 足利尊氏氏と、

その弟な、 直義氏、 との争いでした。


足利政権の中で、 南朝方を追い詰めた、

足利家への、 執事 ; 家令 ; 、 の、

高師直 コウのモロノー 、の、

発言力が高まる一方で、

直義 タダヨシ 氏側は、 劣勢となり、

両者の争いの末に、 直義氏は、

尊氏氏の庶子な、 直冬氏を立てて挙兵、

しかも、 南朝と結びました。


ここに、 尊氏氏・師直と、

直義・直冬氏に、南朝、 との衝突となり、

合戦の末に、 尊氏氏は敗れ、

師直は、 討たれます。


結果にて、 直義氏は、

足利政権に復帰しますが、

事態は、 それだけでは、 おさまらず、

尊氏氏は、 直義氏への排除を企て、

それを察知した直義氏が、

勢力を保持しつつ、 関東に脱出すると、

今度は、 尊氏氏が、 南朝に降伏❗ 。


その上で、 関東を目指して出陣し、

直義氏を破って、 降伏させ、 直後に、

直義は、 急死しました。


そして、 尊氏氏の南朝への降伏により、

北朝は、 廃され、 年号も、

南朝の、 正平 6年 、 に統一されます。


これが、 「 正平の一統 」、 です。


ところが、 その後に、

北朝方と南朝方が、 折り合わず、

翌る、 正平 7年 ; 1352年 ;

、 南朝方の北畠親房氏の企てにより、

南朝方による、 京、と、鎌倉、への、

同時での、 奪還作戦が実行されます。


その時に、 上野で挙兵したのが、

22歳の新田義宗氏でした。


兄な、 義興氏や、 従弟の、

脇屋義治氏を従え、 宗良親王を奉じ、

かつて、 足利直義氏に味方した、

武士たちを、 味方に取り込みます。

武蔵国は、 金井原 ;

( 東京都は、 小金井市、の、 前原町 ) ;

、では、 尊氏軍を破り、

鎌倉まで攻め込んで、 尊氏氏の子な、

基氏どんを追い、

鎌倉への奪還に成功するのです。


それは、 あたかも、 父な、

義貞氏の鎌倉への攻略を再現したかの様な、

勝利でした。


しかし、 尊氏氏のしぶとさは、

尋常ではなく、 鎌倉から逃れた、

基氏どんと、 石浜城 ;

( 東京都は、 台東区 ) ; 、で、

合流すると、

鎌倉を、 兄な、 新田義興氏に任せて、

武蔵の北部に布陣する、 義宗氏と、

小手指ヶ原、入間河原、高麗原、

の付近で、 戦い、

義宗氏は、敗れて、

信越の方面に後退します。


この事態に、 義興氏や、脇屋義治氏は、

鎌倉を出て、 相模の河村城 ;

( 足柄上郡、の、 山北町 ) ; 、で、

敵に備えて、 対峙。

この一連の合戦は、

『 武蔵野合戦 』、 と、呼ばれます。


その後の、 1358年でもある、

南朝、の、 正平 13年 、 にして、

北朝、 の、 延文 3年 、 に、

足利尊氏氏が没すると、

義宗氏は、 好機と見て、

東国の味方を鼓舞しますが、

鎌倉への侵攻を図った、 兄な、

義興氏が、 足利基氏氏によって、

武蔵国は、 矢口の渡しで、 謀殺され、

勢いを削がれました。


それから、 ➕年後の、 正平23年 /

応安元年 ; 1368年 ; 、に、

尊氏氏の子な、 義詮氏、と、

基氏の死去に伴い、

義宗氏は、 再び、 東国の味方に呼応して、

脇屋義治氏とともに、 越後で、

挙兵しますが、 上野国は、 沼田荘で、

敵の矢を右目に受け、うつぶせになって、

落馬、 壮絶な戦死を遂げた、

と、 いわれます。

享年は、 37 。

その地には、 「 うつぶしの森 」、

という、 地名が残ります。


一方で、 武蔵国は、 所沢の薬王寺に逃れ、

再起かなわぬ、と知って、出家、

討死した一族郎党を弔って、

一生を終えた、とする、

異説も、 存在します。

いずれにせよ、 じつに、

混乱した時代でした。



☆ 室町幕府は、 弱かった? ;

 『 観応の擾乱 』、の、

亀田俊和先生に聞いてみた

2018年 12月26日 公開 ;


☆ 足利義満氏 ;

1338年、 な、 建武5年 ; 、に、

足利尊氏氏が、 征夷大将軍に任じられる。

以後、二百数十年にわたって、

足利氏を将軍とする体制が続いた。

──室町幕府。

今日の日本文化の原型が生まれる、などし、

日本史における重要な時代であった、

にもかかわらず、に、

「 よく、わからない 」、 という、

人も、 少なくないだろう。


「 室町幕府 」、 を、

ベスト・セラーな、 『 観応の擾乱 』、

への著者な、亀田俊和氏が、

わかりやすく解説する。

亀田俊和 Kameda Toshitaka 氏 ;

国立 台湾大学 日本語 文学系 助理教授 ;


@ 「 徹底した実力主義 」、が、

招いたものとは ;


室町幕府と言えば、 鎌倉幕府、

江戸幕府と比べて、 どうしても、

戦乱が多くて、 弱い、 という、

意目侍 イメジ 、が、

つきまとうのではないでしょうか。


たとえば、 発足して、 わずかに、

12年で、 観応の擾乱 、 という、

内紛が勃発します。


これは、 初代将軍の、足利尊氏氏と、

弟の直義氏が対立し、

全国を股にかけて争った、内乱です。


3代将軍の、 足利義満氏の時代は、

室町幕府の全盛期で、

最も、安定していましたが、 それでも、

土岐氏、山名氏、大内氏といった、

有力守護を、たびたび、粛清する、

必要にせまられていました。


1441年、 な、 嘉吉元年 、には、

6代将軍の、足利義教氏、

播磨への守護の、赤松満祐の屋敷での、

宴会の席で、 暗殺され ;

( 嘉吉の乱 ) 、

1467年、 な、 応仁元年 、には、

有名な、 『 応仁の乱 』、

が、 始まり、 七年も続きます。


その後は、 戦国時代に突入し、

将軍家も、 たびたびに、 分裂し、

一世紀にわたって、 混乱が続きました。


しかし、 内紛や戦乱は、

鎌倉幕府も、 負けず劣らずに、 多いです。


周知のように、鎌倉幕府では、

将軍は、 飾り物で、

実権を握っていたのは、 元は、

伊豆国の在庁官人にすぎなかった、

執権な、 北条氏でした。


江戸幕府の安定度は、

世界史的に見ても、 驚異的で、

これと比較するのは、 酷だ、と、

個人的には、 思っています。


むしろ、 黒船が来航してから、

わずかに、 14年で滅亡した、

江戸幕府と比較して、何度も、

京都を追われながらも、 生き残った、

室町幕府のしぶとさを、

評価すべきかもしれません。


鎌倉幕府・江戸幕府とは異なる、

室町幕府の特色として、 私は、

「 徹底した実力主義 」、 を挙げる、

ことができる、 と、 考えています。


もちろんな事に、

鎌倉幕府・江戸幕府にも、

実力主義は、 存在していましたが、

室町幕府の実力主義は、 はるかに、

徹底しています。

少なくとも、 義教将軍の頃までは、

そうした風潮が残っていた、

と、 思われます。


合戦で手柄を立てた武士には、

将軍が、 恩賞として、

所領や官職を与えました。


指揮官クラスは、 守護職を拝領し、

地方への統治を担当しました。


寺社もまた、 幕府軍の勝利を祈禱し、

僧兵を派遣して、

軍事的に貢献することさえ、 しばしばで、

将軍は、 所領を寄進することで、

寺社の忠誠に報いました。


訴訟に際しても、 幕府、への、

忠誠や、貢献が、 評価され、

証拠文書に問題がなければ、

迅速に判決が下され、執行されました。


「 努力すれば、する分だけ、 報われ、

利益を与えられる 」 、 という、

信頼があったからこそ、

義満氏は、

1392 いざ、国 、合わそう、 な、

1392年に、

南北朝の合一❗ 、 を成し遂げ、

全盛期を築いたのではないでしょうか。


もちろん、 常に、

能力や貢献を試されて、

競争を強いられ続ける環境であった、

ことが、

室町幕府の政治が、 不安定だった、

要因の一つです。


過当な競争は、 いずれ、破綻します。


何より、 将軍自身もまた、

臣下に、 常に、 実力を試される存在で、

最後は、 武士の貢献に、

応えることができなくなり、

衰退・滅亡しました。


しかし、

「 努力しても、 報われない 」 、

閉塞感が漂う、 現代の日本において、

室町幕府の実力主義は、

ある程度は、 再評価する、

価値があるのではないでしょうか。

@ 室町幕府における、

将軍と大名の関係 ;


この問題についても、

さまざまな議論がありますが、 やはり、

諸国の守護が、 基軸の制度だった、

と、 私は、 考えています。


御判御教書による、 将軍の命令を、

守護が執行する。

これが、 応仁の乱に至るまでの、

室町幕府体制の基本でした。


もっとも、 初期の室町幕府においては、

守護は、 必ずしも、

好まれていたわけでは、ありません。


地方で、 南朝軍との、

苦しい戦いを強いられ、 敗北すれば、

全責任を負わされ、 失脚する、

守護の立場を、本音では、

忌避していた武将も、多かったようです。


武将たちは、便利で、

娯楽の多い京都の生活を好んでいました。


全盛期の幕府でも、守護たちは、

基本的に、 在京志向が強かった、

ことが、 指摘されていますが、

初期から、 そうでした。


武勇で名高い、執事の、

高師直の一族でさえ、 守護職には、

さほど、 興味はなく、

地方の南朝軍を鎮圧すると、

守護職を、 他の武将に譲り、 帰京して、

在京での奉公に戻るのが、 普通でした。


しかし、 その師直の一族が、

観応の擾乱で敗北して、

壊滅的な状態になると、

守護分国を集積することの、

有効性を認識する、

武将が、 増え始めたようです。


仁木頼章、細川清氏、斯波義将氏、

といった、 師直の後任の執事たちは、

皆、

守護分国の集積や経営に力を入れています。


斯波氏らは、 足利氏への、

家来ではなく、 単に、

幕府の体制に参加するに当たって、

足利将軍家を、 自らへの、 上司として、

それに参加した、

足利氏への、親戚であり、

同じく、 親戚でありながらも、

足利氏、への、家来としての、

累代性を成していた、

細川氏、とも、異なる、 立場で、

室町幕府に参加し得ていた。

細川清氏氏と、仁木義長氏が対立した、

原因の一つが、

伊賀への守護職をめぐる争いであるなど、

守護職の争奪を契機とする、

紛争も増加します。


そして、 守護分国の獲得と、

世襲に成功した武家が、

三管四職として、

将軍を支える体制が確立しました。


一方で、 将軍と守護を、

潜在的に対立する存在である、とする、

見方も、根強くあります。


3代将軍の、足利義満氏は、

土岐氏、山名氏、大内氏といった、

有力守護を次々と打倒し、

六代将軍の、 足利義教氏も、

若狭と丹後への守護の、

一色義貫氏を殺害したり、

加賀への守護の、富樫教家氏を、

追放したりしています。


8代将軍の、足利義政氏も、

斯波氏、畠山氏の後継者争いに介入し続け、

応仁の乱を起こしてしまいました。

守護から、相対的に自立した国人たちを、

将軍が、 奉公衆、つまり、

直轄軍として編成した、

史実も、知られています。


ただし、 将軍が、守護を粛清しても、

必ず、 別人を、 新たな守護に任命した、

事実は、 看過できません。

将軍が嫌ったのは、

力を持ちすぎた守護であり、

守護という制度、な、 そのものは、

まったく、 否定していなかったのです。


地方への統治に、 守護は、

必要不可欠な存在でした。


奉公衆も、守護家の庶流が取り立てられる、

事例が多く、 将軍と守護が協調する、

側面も、ありました。



【 室町幕府の、 足利将軍家は、

一部を除いて、 一般に、

守護大名ら、 に対する、

『 主君 』、 ではなく、 単なる、

『 上司 』、 でしかなかった。


これは、 江戸幕府の、

徳川将軍家が、 大名らに対する、

主君であり、

直参旗本と同じく、

徳川将軍家への直臣であり、

大名らの各々への家来らは、

徳川将軍家への、 直臣ではなく、

陪臣であり、

主従関係の宛て付けられてある、

立場を占めていた、

が、


室町幕府に参加して、

管領 カンレイ 、 を務めた、

斯波氏員らや、 畠山氏員ら、

などは、 足利将軍家に対する、

家来ではなくて、

それへの親戚で、 幕府において、

部下、な、役職を務めもする、

というだけの立場にあり、

その一方で、

細川氏員らのように、

足利将軍家への親戚でありながら、

累代の家来としての契約性を成して、

足利将軍家に仕えるべくある、

人々もあった。


室町幕府の第6代の征夷大将軍である、

足利義教氏は、

守護大名の、 畠山氏らと共に、

連歌をたくみに詠む、 という、

農家の娘さんと同席し、

共に、連歌を作り合い、

その娘さんの才能を愛でている、

が、

この娘さんは、

『 主持ちでは、ない 』、

『 主 アルジ 』、 格の人であり、

足利将軍と同じく、

『 主 』、格の人、として、

足利将軍ら、と、同席し得もした、

のであり、

幕府の要職にあろうが、

どんなに羽振りの良い、

武家員であろうが、

『 主持ち 』、 な、

『 家来 』、格な人々は、

『 主 』、格な人々とは、

公式には、 同席などは、 できない、

立場にあり、

大名であっても、

足利将軍家、などを、

主君とする、 契約性を成した人々は、

この、 農家の娘さんのように、

将軍家と同席する事、 などは、

公には、 より、 できない、

立場を占めており、

そうした、 主格の人々と、

家来格の人々とへの、

交信系などでの、 独特な区別性、や、

主格な人々同士の、 交信系などでの、

対等性、 といった物らは、

足利時代の、 日本人たちの精神性なり、

その精神性らを規定する、

価値序列の観念性なり、として、

特徴性のある物らであり、


義教将軍が、

守護大名らの身内員らを、

自らの、そば近くに仕えさせ、

その大名らの身内員らを、

大名らへの跡継ぎにする事で、

守護大名らを、 段々に、

足利将軍家への累代型の家来に、

入れ替えてゆく、 度合いを、

増さしめてもあった道次で、

暗殺された、事への、

あり得る、要因性らの中にも、

この、時代の特徴的な精神性らの存在、

と、 足利将軍家へ対して、

守護大名ら、などが、 一般に、

累代型の家来ではなく、

主従関係を成して居らず、

単に、共通の幕府体制の中で、

それへ参加した場合に、

上司と部下との、役職上の、

関係性を公に成す、 だけの、

間柄しか成して居らず、

例えば、

守護代の、 家系員である、

織田信長氏は、

その先祖らの契約性により、

織田氏を、 守護代に取り立てた、

斯波氏である、 足利氏員らは、

自らへの主家員なり、

主君なり、として、盛り立てる、

宛てとすべき、筋合いには、

あり得ては、居たが、

将軍家の方の足利氏員らは、

織田氏員ら、などにとって、 単に、

同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず、

自らが、家来として、盛り立ててやるべき、

筋合いには、無い、 宛ての、

人々であり、

江戸幕府における、

大名らへの、家老らや、

その家系員ら、とは、

幕府の長 オサ 、な、 家系員らへ対する、

関係性とは、 著しく、 異なる、

関係性を成していた。


戦国時代は、 下剋上の時代、

としても、 語られるが、

それは、 より、武力の行使性、

などを欠いた立場にあった、

主格な人々が、

必ずしも、 主格な存在ではなかった、

武家員ら、などから、

ありもしなかった、 身分制めいた、

秩序性を、 無理にも宛て付けられ、

より、 元から、 武力の行使性による、

身分性なり、 序列性なり、が、 より、

一定の人々に限定される、

事を、 無しに、 より、

一般の、 主格な人々へまでも、

宛て付けられるべき、 正統な物としても、

あり得て来たかのように、

匂わされる、 度合いら、を、

各地で、余計に、成し増していきもした、

時代でもあり、


神々のどれ彼の格を、

その子孫員としてある、

日本人の誰彼らの子孫員として、

生まれ付きに、 受け継いである、

日本人たちの、 自らへの主である、

格性は、

『 主持ち 』、になる、

契約性を成して、 何らかの意味で、

公の事らにおいては、

『 主 』、格な人々のとは、

区別される、 作為型や、

不作為型の、 振る舞いようを、

成すべき、 立場へ、

特定の先祖員らへの子孫員として、

その何彼らを引き継ぐと共に、

自らを据えたり、

自らを、 初代として、

そうした契約性を成したり、した、

特殊な、人々においては、

より、 公には、表立てられない、

筋合いなものとしての度合い、

を、 成し、 増し得もするべく、

あった、 宛てなものであった、

としても、

より、一般な、 主格の人々においてまで、

『 主持ち 』、としての、

観念性らが、 その精神性を、

規定すべき、 いわれ、などは、

本来は、 より、 無かった 】 。


☆ 足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、 傭兵ら ❗ 03 ;


1429年、の、 正長2年3月12日に、

将軍宣下をうけたのは、

足利義満氏の3男の、

6代将軍の足利義教氏だった。 :

足利義持氏は、

籤引きが行われた、 1428年、の、

応永35年の正月の、 翌 アク る、

18日に没した。

義教氏が家督を継いだ為に、

征夷大将軍への就任の夢が破れた、

関東公方の足利持氏殿は、再び、

不穏な動きを始めた。


籤引きにより、征夷大将軍に選ばれた、

天台座主の義円師は、 還俗して、

義宣 、と称し

≒ 後に、義教 ヨシノリ 、

と、 改名し 、

征夷大将軍に就任した。


この経緯から、義教氏は、

世に、 「籤引き将軍」、と、呼ばれる。 :

:

足利義教将軍は、 当初は、

有力な守護大名らによる、

衆議により、 政治を行っていたが、

長老格の、 三宝院満済氏や、

山名時熙氏が死んでからは、 次第に、

指導性を成す様になり、 物忌みや、

好き勝手に暮らす、 が為に、

公益や、 公務を省みない、

武家員らや、公家員らによる、

横暴な行為や、 手抜き事ら、 等から、

世間の一般の人々が、

泣きを見させられる度合の、

より少ない、 天下を成すべく、

公方の下に、 秩序を成す事らが、

厳格に成し行われる事を目指し、

斯波氏に、畠山氏や、山名氏と、

京極氏や、富樫氏の、

家督の相続へも強引に介入し、

その各々の氏の家臣らからも、

より、支持を得られる、

徳性の、より高い、

意中の者を家督に据えさせ、

1439年、の、 永享11年の、

『 永享の乱 』、 では、

長年を対立していた、

鎌倉公方の足利持氏殿を滅ぼし、

比叡山延暦寺とも対立し、

これを屈服させたが、 僧侶らが、

根本中堂を焼き払い、自殺する、

騒ぎを成した。


足利将軍らの中では、 その父の、

第3代の征夷大将軍の、

足利義満氏に並び得る、主導性を成した。


@ 6代目の義教将軍は、

些細な不正も、決して許さない、

厳罰主義者だったし、

専制的と捉えられる程に、

幕政に積極的だったが、 それは、

管領や大名らを排除し、

将軍の意が、 絶対の、世界に、

酔いしれたいが為だったのでは、無い。


幕府の私物化や、私曲を交えた政治とは、

正反対の理想を持っていた事が、

近年の、詳細で、中立的な研究らにより、

明らかにされている。



義教将軍の時代は、

「 鎌倉府との確執 」、や、

「 延暦寺の騒動 」 、 に、

九州や、伊勢と、大和での紛争など、

色々と大変な事が立て続いたが、

その都度に、 大名らに諮問し、

幕府の役職にある、皆で支える、

幕府体制、の、 基本の姿勢は、

保たれていた。


大名家が、家督を決める際は、

それが、 器量の仁 ≒ 人 、

である事や、

家臣らの一定数以上からの、

支持を得ている事を、

何より、重視した❗ 。 :


※ 器量の仁

≒ その地位や役目にふさわしい、

才能や、人徳を備えた主 。 :

:

この様な、 義教将軍の言動の、

背景に、 貫かれている物は、何か? 、

それは― 、 "正しさ" すなわち "正義" だ。

裁許の基準は、

自らの好悪の感情ではなく、

客観的な、理非の正しさ、で、

大名らの意見が一致しない時には、

熱心に、 その調整に努めようとする、

姿勢には、 最も正しい、

一つの "答え" を目指しつつも、

各々の意向へ、最大限に、

配慮しようとする、誠意が感じられる。

:

義教将軍の意見だけで、

全てが決定された事は、なく、

進んで、大名らの意見を徴し、

大名らも又、 反対意見も含め、

自らの考えようを主張する、

自由性を持っていた。


義教将軍は、 諸大名に対する、

直接的な "諮問" 、という、

形式を取る事で、

将軍と大名らの主従関係を強化する、

と共に、 この時期に、

各地で多発する紛争らへ、 迅速に、

かつ、 慎重に対処し得ていた。 :


遊興や酒色に耽ったり、 重税をかけて、

蓄財に走ったりした形跡が、 無い、

事からも、 その、

社会の一般の人々の福利らへ、

目配りのできる、

人格性が観て取られ得る。 :


その、俗世離れした、

厳密なまでの道理主義は、 いつ、

どこで形成されたか? 、

それは、彼が、成人まで僧籍にあった 、

"還俗公方" ゲンゾク・クボウ 、

だったからです。

上杉謙信氏の神がかり性にも通ずる。


@ 俗世と乖離した世界で、

修行を続けていた義教さんは、

人の大半が、 " 結構と、適当で、

なあなあな存在だ " 、という、

現実を受け入れる事が出来なかった。 :

一例を挙げると、

「 御沙汰を正直に… ≒

訴訟の公正さを標榜した 、

義教将軍の言葉 。

「 尊卑・親疎によらず、

次第に任せて、 伺い申すべし

≒ 訴訟は、 身分や縁故によらず、

公正な手続き事によるべき、 という、

義教将軍の意向。


「 政道、 好悪無く裁許せらるは、

最も、天心に叶うべし、 珍重珍重

≒ 私曲の無い政道こそ、

天皇の御心に添う物だ、 喜ばしい

≒ 義教将軍の志す、 正しい政道への、

万里小路時房氏の感想 。


「 誓言をもって、 此の如し、

面々申す条、 真実、懇志の至り、

御悦喜、殊に、御本意極まり無し 」

上述の、大名らからの、

義教将軍の政道への、 心からの賛辞に、

めちゃめちゃ喜ぶ、義教将軍。

これらが、 政務において、直に、

義教将軍と接していた、

幕臣らの記録です。


満済准后 ジュゴウ 、は、

『 看聞日記 』で、

「 天下の義者 」、と、賞賛される程、

人々から信頼を集めた、高徳の僧であり、

万里小路 マデノコウジ 時房氏は、

朝廷と幕府の双方で活躍していた、

公家で、 政務を律儀に記した、

『 建内記 』 、 からは、 謙虚で、

誠実な人柄が読み取れます。


@ 私曲 しきょく

≒ 自らの利益だけをはかり、

不正で、 邪 ヨコシマ な 、事 :


@ 後花園天皇と、義教将軍は、

非常に厚い信頼関係にあった、

歴史的にも、 希有な君臣で、

この事からも、 義教将軍は、

"天子の意に沿う"、

正しい政道を志していた事が、判る。


当時の日記というのは、

"公的な記録" としての意味合いが、

強い物で、 今の様に、 私的な物ではなく、

後世に、 朝儀

≒ 朝廷での儀式な事ら 、や、

政務の実態を伝える為に、

代々に、家業として成された物であり、

人に読まれる事を前提に書かれている。 :


朝廷では、 とにかく、

「 先例 」 、 が重んじられたが、

この日記により、 遥か昔の、

「 先例 」 、 を知り得た。


将軍義教氏は、 どの様に映ったのか。

諸大名との衆議も尊重しながら、

正しき政道に邁進する、

義教将軍だったが、 一方で、

理想の天下を夢見る、彼の完璧主義は、

やがて、 ほんの少しの不正も許さない、

厳罰主義、という、一面をも見せ始める。


僧侶であった、公方として、

正しき天下を成す事への使命感が、

半端では、無い、

義教さんは、 当然に、監視の目も厳しい。


コネや、 口入 クニュウ

≒ 口利きのこと 、

緩怠 ≒ サボる事 、

密通 ≒ 姦通 、

一族による利権の独占、 等々、

"不義な事" が、 とにかく大嫌い。

見つかろうものなら、 即、お叱りです。


※一例; …丹波守護代と、伊賀守護は、

緩怠がばれて、 改替。


√ 出仕停止や、

所領の没収などの、処分を受けた公家も、

数知れず。 :

それまでの、 室町幕府ならぬ、

ゆる町幕府の、

ぬるい処遇で来てしまった、

彼らの心へ、 大変な衝撃を与えたろう。


上流階級にある公家らにとっては、

それまで、叱られる経験が、

殆ど、 無かったろうし、

貴族らにも、 『 道理 』 、が、

適用されるなんて、驚愕の事態だった、

と、 思われる。


ゆるい事に対しては、 他の時代も、

割と厳しかったし、 特に、

義満将軍や、義持将軍の代でも、

厳しかったが、 規律を守る為に、

厳しさが必要な事は、

義教将軍期に限った事ではない、

当然の常識です。 :


「 訴訟は )、 尊卑・親疎によらず… 」、

というのは、 利権を持った、

身分の高い者らにとっては、超絶に、

不都合だが、 縁故の無い、

身分の低い人々にとっては、

非常に有難い方針だ、と、思われる。


中世において、 地位や、

権力を差し置いて、

「 公平公正に優る物なし❗ 」、 とし、

道理を第一とする、

訴訟制度を成し行われる様にした。


鎌倉時代から、

武家政権の標榜した事らを、

理想で終わらせず、

制度への改革を推し進め、

積極的に、実現しようとした所が、

義教将軍期の特徴で、 それに加えて、

義教将軍は、 公正な手続きを重視する、

観点から、 正規の手続きを踏まない

≒ 縁故による 、

"直訴"を禁ずる一方で、

縁故がない為に、

訴訟を受理して貰えずにいる、

人々への救済措置として、 一部では、

直訴 ジキソ 、を認めた❗ 。


『 満済 准后 日記 』、 だけを、

見ていたら、

「 厄介な事件ばかりが続くのに、

真摯に政務に当たり、

大名らの意見も尊重した、

真面目な将軍 」、 …といった、

印象を抱き得るw 。


義教将軍の厳しさについていける、

大名ら、 等の、幕府の役職にある、

人々には、頼もしい主君だったろう。


義教将軍は、 いつ、休んでいるのか? 、

と、思える位に、 すこぶる、

よく働く公方だった。


@ 『 看聞日記 』、 にしたって、

伏見宮家への、義教将軍からの進物

≒ 贈答の品 、 が、

頻繁にあったりして、

人々が憔悴しきった、

地獄絵図の様な、京都を想像していたら、

その 『 逆負 ギャプ 』

≒ 『 ギャップ 』 、 に、驚きます。


満済師は、 僧だが、

公方と大名らの双方からの信頼が厚く、

彼らの意見らを上手く媒介し、

幕政を、根幹から支えていた。


室町幕府では、 満済准后のごとく、

直に、政務に関わる僧の他に、

政道への指南者として、

初代の尊氏氏や直義氏にとっての、

夢窓疎石師、や、

3代目の義満将軍や、

鎌倉公方の初代の、足利基氏殿や、

2代目の、足利氏満氏にとっての、

義堂周信師、の様に、

教養の高い、高僧の助言や助力により、

広く、万民に資する、

公正な政治を実現せんとしていた。


義堂周信師が、義満将軍に説いた、

為政者の心構えは、

「 国家を治むる者、 先づ、

明徳・正心・誠意・修身、

是れ、最も緊要なり 」

≒ 政治家には、 まず第一に、

「 非常に高い人間性

≒ 共感構築型の知的な創造性 」 、

を要求した。


@ 夢窓国師に絡む物に、

『 夢中問答集 』 、 という、

世俗に向けて、 解り易く、

仏教の本質や、禅の在り方を解いた、

書があり、 その中に、

政治についても言及した部分らがある。


これは、 夢窓国師 、と、

足利直義氏 、 との、

"問答形式"になっており、

夢窓国師 の"答え"の方が、

圧倒的に長いが、

"答え" を理解出来ないと、

"問い" も出来ない、と言う、

意味を踏まえると、

高僧と互角に問答し得ている、

足利直義氏の凄さにも圧倒される。


この書の原型は、 夢窓国師の、

"答え"らを、 直義氏が、暗記し、

書き貯めたものw :


【 夢窓国師 ( 川瀬一馬氏訳 )

『 夢中問答集 』( 講談社学術文庫 )

2000 】 :

"室町" が追い求めた理想が、

ここに、集約されています ) :


『 看聞日記 』、 で、 貞成親王は、

満済師を、 「 天下の義者 」 、

と賞賛し、 畠山満家氏については、

「 天下の事、諫言 カンゲン

≒ いさめの言葉 、をもって、

沙汰を申される 」 、と、 述べているが、

そうした人物を重用していた事からも、

義教将軍が、 自身に都合の好い、

お気に入りだけを囲って、

自分勝手な政治をしていた訳では、

ない、 事が、判り得る。


信頼していた重臣らの死に、

立て続く、騒乱。

乱れ行く秩序を正すには、

厳罰をもって当たる他ない。

…義教将軍は、 独り、

修羅の道を歩み始める。

彼の心を蝕 ムシバ んでいったのは、

正義への、深すぎる愛と、

その裏返しである、

不正・不義への、厳密すぎる、怒り。

正しい世の中を追い求め、 ひたすら、

政務に励んでいたのに、 いつしか、

高すぎた理想は、 それを、

僅かでも傷つける、全てを、

排除するまでに膨張し、 最後は、

自ら振り上げた、

正義の剣 ツルギ 、に、

その身を貫かれて終わる。


570年以上前に、 正義

≒ 普遍的な "正しさ" 、"道義" 、

を愛し、正義に倒れた公方。

義教将軍への、ネガティブ・イメージ

≒ 否定的印象 、 は、

不当なまでに、深い。 が、

これらを読めば、全てが吹き飛ぶ❗。

分析力に長けた最強文献は、こちら❗。

【 川岡勉氏:

『室町幕府と守護権力』 】…の、

p.66ーp.127

【 設楽薫氏:

『 将軍足利義教の「御前沙汰」

体制と管領 』。 久留島典子女史編

『 展望日本歴史11 室町の社会 』



☆ 三橋貴明氏❗ ;


訪英を前にブレグジットと民主制を考える


2019-11-08 08:37:09

テーマ:欧州経済

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12月21日(土)シンポジウム「令和の政策ピボットは実現可能なのか?」が開催されます。

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三橋TV第160回【安藤裕議員に特別会計、建設業、自民党内のMMT理解、政権交代について聞いてみた】



三橋TV第160回【安藤裕議員に特別会計、建設業、自民党内のMMT理解、政権交代について聞いてみた】

 時局2019年12月号に連載「三橋貴明の経世論 第38回 経済のスタビライザー」が掲載されました。

 本日はチャンネル桜「Front Japan 桜」に出演します。

 さて、明日からイギリスに発ちます。時差は9時間。こちらの方が進んでいる。ということは、日本時間で午前中にブログをアップするには、イギリスでは夜までに書き上げる必要があるということになります。


 それはともかく、まさかわたくしの訪英時においてもブレグジットが完了していないとは思ってもいませんでした。


 イギリスは、2016年6月23日の国民投票で、ブレグジットを「決めた」わけですが、実はあの国民投票は議会から国民への「諮問」であり、法的拘束力があるわけではありません。


 諮問とは、つまりは、

「議会が国民にお伺いを立てる」

 という意味になります。


 というわけで、国民へのお伺いで「離脱」が選択されたとしても、議会が議論を重ねた上で「残留」を決定することも可能ということになります。


 もっとも、ジョンソン首相は元々が離脱派であり、「国民の選択」を尊重する姿勢を打ち出しています。(ちなみに、イギリスは国民主権国家を標榜しているわけではありません。女王に主権があるという「建前」になっています)


 国民投票に法的拘束力がない。だからと言って、国民の選択を無視することもできない。


 加えて、ブレグジットの場合は「相手(他国)」がある。元々、EUでは、リスボン条約第50条により、

「離脱を欧州理事会に通告し、離脱交渉を開始し、二年以内に離脱する」

 と定められていますが、具体的な離脱のスキームは未定です。というよりも、国ごとに状況が違うので、定めようがないのでしょう。


 イギリスの場合、特に問題になるのが「北アイルランド国境」です。連合王国は1960年代から北アイルランド紛争で苦しめられ、何千人もの人々が命を落とし、1998年のベルファスト合意でようやく終結。


 その後は、連合王国とアイルランド共和国間でモノ、ヒト、カネの国境を超えた移動が自由化され、北アイルランド問題も時間の流れに溶け込もうとしているタイミングで、ブレグジット。


 さらに、ジョンソン首相率いる保守党は、北アイルランドを本拠とするDUP(民主統一党)の閣外協力を得て、ようやく政権を維持している状況です。


 DUPは、北アイルランドがEUに残る形のブレグジットには、絶対に反対します。無論、ジョンソン首相ら離脱派にしても、

「国境がアイルランド海に移動する」

 形のブレグジットなど受け入れられるはずがありません。


 ブレグジットは(法的拘束力はないものの)国民投票で決めた。とはいで「どういう形で離脱するのか」は決まっていない。しかも、EU側は「楽に抜けさせねえ」と嫌がらせをしてくる。


 一度、EUのような国際協定に加盟してしまうと、抜けるのは至難の業です。


「バスに乗り遅れる。一度乗ってみて、ダメなら降りればいい」

 などと言ってのける連中が、いかに「世界」を知らないのかが分かります。まあ、彼らは日本の主権を売り渡すことには基本的に賛成する確信犯なのでしょうけど。

【歴史音声コンテンツ 経世史論】


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※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。

『EU離脱「再々延期」で混迷イギリスは総選挙へ

<またも延期のEU離脱、12月12日に行われることになった総選挙の争点と各党の動向は?>

 3月29日、4月12日、そして10月31日――ブレグジット(イギリスのEU離脱)が実現しないまま、またも期限が過ぎ去った。EUは10月28日、離脱の3カ月延長を求めるイギリスの要請に同意。これで次の期限は1月31日ということになる。

 フランスのマクロン大統領はもっと短い延長を主張したが、イギリスには現在の膠着状態を打開する総選挙を実施するための時間が必要だという点でEU各国の意見は一致した。

 これまでと同様、今回の延期も「フレクステンション(柔軟な延期)」であり、議会が新しい離脱合意を承認すれば、イギリスは1月31日より前に離脱できる。だが、それは希望的観測のようだ。

 そもそも1月31日に間違いなく離脱できるのか。イギリスのジョンソン首相はEUに対し、「1月31日以降のさらなる延期は不可能」だという点を明確にするよう希望した。だがEUのトゥスク大統領は、今回の延期が「最後のものになるかもしれない」と言っただけだった。

 ジョンソンは9月初旬から総選挙を呼び掛けてきた。そのためには下院の3分の2の賛成が必要だったが、野党・労働党は10月31日の「合意なき離脱」の可能性が消滅するまで、選挙の実施を拒否し続けた。

EUが期限延長を認めると、労働党のジェレミー・コービン党首もようやく総選挙の実施に応じる姿勢を示した。その後に小さなゴタゴタはあったが、最終的に投票日はクリスマス直前の12月12日に決まった。(後略)』

 そもそも、EUは「民主制」あるいは「民主主義」に反するシステムです。


 もちろん、欧州議会選挙はありますが、実権は「選ばれた政治家」である欧州委員が握っています。欧州議会は、欧州委員長を「任命」するだけで、「指名」はできません。(指名は欧州理事会)

 EUの実態は、寡頭制あるいは貴族制なのです。

 何しろ、EU国民など存在しません。結果、民主主義・民主制など成立しない。


 現在、執筆している本(「自民党の消滅(仮)」のテーマですが、民主制とは「国民国家」でなければ健全な形で成り立ちません。民主制で重要なのは、

「負けた側が納得し、連帯を維持できるか」

 なのです。


 つまりは、グローバリズムはもちろん、ブレグジットのような二者択一の国民投票も、人びとを完全に分断し、民主制の基盤であるナショナリズム(国民意識)を壊し、国家を混迷に突っ込ませることになるわけです。


 そのままの現象がイギリスで見られるわけですが、少なくとも彼の国が「グローバリズムの見直し」に置いてポールポジションについているのは間違いありません。


 周回遅れでグローバル化を進めている愚かなる国の国民としては、「グローバル化がもたらした災厄」をこの目で確認し、祖国が少しでもまともな方向に進むよう努めたいと思うのです。


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