経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 徳政令❗。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 徳政令は、

あり得る、 貸し手らを、 より、

減らす向きへ、 圧力をかけ、

貸すからには、 より、

必ず、 力ずくでも、 取り立て得る、

暴力組織らへ、 借り手らを、

より、 引き寄せ、 より、

低い利息で、 貸し合う、

あり得る、 競争性の度合いが、

あり得る、 貸し手ら、が、

より、 減らされる、と共に、

低下して、

より、 高い利息を、 力ずくでも、

取り立て得る、 闇金の、

高利貸しどもへ、 より、

あり得る、借り手らを誘導する、

余計な、度合いを成し増す、

もの、でもあり、

そうした、 あり得る、

闇金員ら、を、 より、 絶やし去るべき、

有効な、 方策な事らを成し、

より、 甚だしく、安い利息での、

貸し手としての役割を、

公の機関が、こなす事で、

あり得る、 貸し手らの側の、

より、 安い、利息での、

貸し付けでの、 競争性を、

より、よく、成し付け得るようにし、

不運や、自らの側の、 怠り、

などによって、 債務の不履行 ;

デフォルト ; 、 を成す、

人々へは、 より、 過酷ではない、

仕事らを、 公の機関が、 提供して、

より、 安楽に、 債務への履行に相当する、

労働ら、を、 気長にも、

成し付け得るようにしてやり、

貸し手らへは、 公の機関が、

長期に渡って、 少しずつでも、

その債務ら、への、履行に相当する、

物事らを、 借り手らに代わって、

成し行い得るようにする、

などの事ら、 と、

あわせて、 執り行う事で、

より、 宛てと成り得る、

人々の、 あり得る、 福利らや、

道徳的な健全性、 を、

より、能く、成し付け得るようにすべき、

手段な事で、 あり得る、

もの、でもある、

が、

鎌倉幕府や、 足利幕府、 などが、

自らを、 より、 低い利息で、

人々へ、資本性らを貸し出す、

投資銀行として、機能させなかった、

事は、

その、 徳政令らによって、

より、たちの悪い、 あり得る、

カネ貸しら、 へ、

余計な、勢力性を付け足してやり、

その社会の、 人々の、

倫理的な健全性らを、 より、

損ない、 悪化させもして、

自らの社会体制を、 より、

崩壊せしめる、向きへ、

余計な、圧力をかける事に成った、

事、 などと、共に、

極めて、残念な事であった❗ 。



根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : 自回答の引越保管➕ :

naoki_s9977さん :

今の時代に、 もし・・、

「徳政令」が発動したら、

日本の財政は、 どうなるでしょうか?

閲覧数 ( 1,059 ) 2006/ 10/15 20:32 :


mutuhayaさん :


インフレを進めて、実質的な徳政令・・。

日本の主権者であり、

自らを統治する権限を持つ、世界で、

唯一の存在でもある、 主の、

日本国民らからの、

利息付きの預金らを得て、

その執事の役にある、日本政府は、

その借り、の、94 % 、 前後以上を、

構成し得ており、

諸外国の外国人らからの借り分を、

数 % 、 以内に封じ得ている、

という事においても、

日本の財務省の反日役人らが、

主張する事とは、異なり、

日本政府の財政は、極めて、

健全な状況にあるのですが、

そうした実態を度外視して、

財務省の反日役人らの主張する通りに、

日本政府が、 なぜか、必ず、

反日性の一定度合以上にある、

外国人らから、より、余計に、

借りる事が、善い事であり、

実際に、 反日役人らの主張している、

事らの通りに、

欧米との取り決め事らにより、

外国人らが、 日本の売国奴らにより、

日本政府への貸し手らの中で、

最大手の存在か、

唯一の存在に成ってしまった状況の下、

などでは、 外国人ら、ではなく、

自らの主の、日本国民ら、の、

福利らを増す為にだけ、

存在するべき立場にある、日本政府へ、

進んで、お金を貸してくれる、

外国人らが減って、

日本国民らから、 税、

などで取り立てないと、

是まで通りの公共サービスの

水準を維持し得ない、状況になり、

犯罪に備える、 日本国民らの間にも、

収入や資産による格差の増大が生じ、

犯罪に備える所か、

犯罪行為に手を染めざるを得なくなる、

人が増え・・。


いずれにせよ、

欧米人らを最大手のカネの出し主として頂く、

売国奴ら、 等が、 貸しても、

生半可な事では、お金が返って来ない、

という、社会状況になると、

これまでも、 そうでしたが、

更に、取立てに暴威を発する、

シナ朝鮮人モドキらへ、

貸し手の役が集中してゆく、

事にもなりますね。


自力で取り返せるだけの仕組みがないと、

金主らが、迂闊に、

資金を貸す訳にはいかなくなるので。

2006/ 10/15 19:49 。


☆ 徳政令 貸し手を減らし 借りにくさ

増せば、 利息と 闇金が増え・・❗。


☆ 六角は 勝って、京都で 徳政令

久米田合戦 撃たれし、三好・・❗。


1441年でもある、 嘉吉 元年 、 の、

6月の、 『 嘉吉の変 』、 で、

室町幕府の第6代の征夷大将軍の、

足利義教氏が暗殺されると、

政治的な混乱の中で、

「 代初めの徳政 」、 を求めて ;

≒ 天下の一同への徳政令を求めて ;

、 京都や、近江の坂本の馬借 バシャク 、

たちを中心に、

農者 ノーザ 、 らが蜂起し、

地侍らが指導して、 数万人の、

一揆に膨れ上がった。


各地への波及は、 なく、

京都を包囲する形をとった。


8月 : 近江の馬借が蜂起し、

そこの守護の、 六角満綱氏が、

徳政令を発布した。


9月 : 東寺や、北野社への占拠をし、

丹波口や、西八条への封鎖を成した。


延暦寺が、 六角氏の徳政令に反対した、

事から、 その支配下の近江の馬借が、

一揆から離反し、 敵対するも、

一揆は、更に、清水寺を占拠する。


一揆軍は、 京都と外部との連絡を断った、

上で、 金貸しをしていた、酒屋に、

土倉と、寺院を襲撃し、

地侍らの指導の下に、

組織的な行動をとり、

勝手な略奪を取り締まった❗ 。


足利幕府が、 当初は、

農者らに限定した徳政令を発布して、

事態への収拾に乗り出したのに対し、

一揆勢は、 公家や武家も含む、

一国での平均の徳政令を求め、

支配者層の支持をも得ようとしている。


管領の細川持之が、 土倉から、

賄賂の、 一千貫を貰って、

それへの保護の為に、

出兵の命令を出した事実を知った、

守護大名らは、 出兵を拒んだ❗ 。


畠山持国氏に至っては、 一揆に、

自分の被官が混じっていた事から、

鎮圧に反対し、

事態は、さらに混乱した。


室町幕府の第7代の征夷大将軍の、

足利義勝氏は、 幼かったので、

彼を後見した、管領の細川持之は、

要求を受け入れ、 差し押さえられてから、

20年未満の質物の返還を含む、

山城の一国平均での、徳政令を発布した ;

≒ 『 嘉吉の徳政令 』 。


戦国時代においては、

相模国の戦国大名である、北条氏康氏が、

大飢饉の発生に際して、

氏政氏への家督の相続を行い、

「 代初めの徳政 」、 を行った、

例、 などがあり、

代初めの徳政が定着していた、

事を窺 ウカガ い知り得る。


甲斐の国の、 武田信虎氏は、

1528年な、 享禄 元年 ; 、に、

甲斐の一国を宛とした、

徳政令を発しており ;

≒ 『 勝山記 』 ; 、 これは、

東国の戦国大名が、

領国内に発令した、 徳政令である、

他に、 土一揆の勃発の前に、

発令されている点からも、

注目されている。


戦勝による、 徳政もあり、

1562年でもある、 永禄 5年 ; 、

の、 3月5日に、

畠山高政氏が、

久米田の戦いで、

根来衆の鉄砲らからの攻撃が利いた、

お蔭もあって、 三好氏に勝った後に、

翌る、 6日に、 京に入った、

六角義賢氏が、 8日に、

徳政令を出して、 京を掌握している。


@ 久米田の戦い :

1562年、 な、 永禄 5年 、 の、

3月5日に、 和泉国は、 八木郷の、

久米田寺の周辺 ;

≒ 今の、大阪府は、岸和田市 ;

、に布陣する、 三好実休氏に対し、

畠山高政氏の軍勢が攻め入った合戦だ。


両軍を併せて、 1万7千から、

5万の兵力が激突し、

三好実休氏は、この合戦にて、

討ち死にし、 三好氏の没落、への、

遠因となった合戦 、と、 される。


同じ時期に、 六角義賢氏が、

畠山高政氏と同調して、京都でも、

三好氏と戦 イクサ 、 と、 なったので、

「 南北 接 激戦 」、

とも、 言われている。


第13代の征夷大将軍の、

足利義輝氏を擁した、 三好長慶氏が、

1561年 、 な、 永禄 4年 、 の、

5月6日に、 前 サキ 、 の管領の、

細川晴元氏と和睦する様に、

義輝将軍より、 勧められ、

長慶氏は、 使者として、

三好長逸氏と、 松永久秀氏を、

逢坂 オウサカ 山に出迎え、

細川晴元氏は、 8年ぶりに、入京した。


晴元氏と義輝将軍との対面が終わると、

長慶氏は、晴元氏を、普門寺城に幽閉し、

その後に、 晴元氏の長男の、

細川昭元氏も、普門寺城に入れられ、

長慶氏の監視の下に置かれた。


妻が、晴元氏の妹な、六角義賢氏は、

晴元氏と信良氏な父子への処遇を非難し、

兵を挙げ、

同じ年の、3月18日に、

三好方の岸和田城の主で、

長慶氏の弟の、 十河 ソゴウ 一存氏が、

死んでおり、

三好長慶氏に破れ、 紀伊国に、

落ち延びていた、 畠山高政氏は、

打倒長慶を旗印に呼号していた。


三好軍の防備力が、落ちている、

と、 見たのか、

六角義賢氏と畠山高政氏らは、手を組み、

京都を含めた、 畿内において、兵を挙げ、

同じ年の、7月13日に、

畠山高政氏を、 総大将に、

安見宗房氏や、遊佐信教氏と、

根来衆の1万の兵で、

岸和田城を取り囲んだ。


同じ月の28日に、 六角義賢氏は、

永原重隆氏を大将に、2万の兵を率いて、

将軍地蔵山城に布陣した。


この時に、 三好長慶氏は、

飯盛山城におり、 息子の、

芥川山城主の三好義興氏らの、

摂津衆の、7千兵を、

梅津城や郡城へ、入らせ、

家臣の信貴山城主の、

松永久秀氏らの大和衆の、7千の兵を、

京西院小泉城へ入らせて、

将軍地蔵山城への備えとした。


岸和田城への援軍として、 総大将に、

弟で、高屋城主の、三好実休氏ら、の、

河内衆と、 三好長逸氏に、

三好康長氏や、三好政康氏と、

篠原長房氏らの、淡路や阿波衆の、

7千の兵を呼び寄せ、

岸和田城に向かわせたが、

畠山軍が取り囲んでい為に、 そこから、

数町を離れた、 久米田寺の周辺にある、

貝吹山城に、 彼らは、陣を張った。


11月24日に、 六角軍が攻勢に出た。


六角義賢氏は、自ら、陣頭に立ち、

将軍地蔵山城を出て、 白川口にある、

神楽岡を占領したが、

松永軍が、直ちに、迎え撃ち、

永原重隆氏を始め、

多くの武将らを討ち取られ、

将軍地蔵山城へと退却し、

松永軍からの追撃を受けたが、 撃退した。


一方で、 貝吹山城は、 旗色が悪く、

三好実休軍の武将らの数名が討たれた。


12月25日に、 飯盛山城、への、

支城となっていた、 三箇城の主の、

三好政成氏が、 畠山軍の武将の、

宮崎隠岐守の奇襲にあい、討ち死にした。


政成氏は、三好政康氏の兄で、

堺幕府の時から、朝廷との折衝役で、

三好氏の重鎮であった。


その様な緊張状態の中で、 1562年な、

永禄 5年 、 の、正月に、

三好義興氏と、松永久秀氏らは、

足利義輝将軍への、

謹賀の挨拶に訪れている。


こうして、 馴染んで置く事が、

可能的な標的らをして、

自分の側へ宛てて、 油断させる、

事に成る訳だが、

こうした折々の挨拶、 などを欠かさない、

自らの馴染みに成る度合を積む、

相手らにこそ、心して、備えをし、

備えらを重ねて、 それらを、 予防の為に、

相手らに知らせもし、

予防し切れない場合の為に、

伏せても置くべきな訳だ。

:

この間にも、小さな合戦は、

何度かがあり、 対陣してから、

7か月を経た頃に、

『 細川 両家記 』、 によれば、

同じ年の、3月5日の、 午ノ刻 ;

≒ 午後0時辺り ; 、より、

三好実休氏が布陣していた、 貝吹山城へ、

畠山高政氏や、安見宗房氏らの軍勢が、

魚鱗の陣形で、 攻め入った。


☆ 魚の鱗 ウロコ 、 らが、

連なり合った様な形を成したままで、

畠山方の将兵らが、 三好勢へ攻め寄せた。


☆ 魚鱗 ギョリン :


中心が、前方に張り出し、

両翼らが、 後退した陣形だ。


「 △ 」、 の形に、将兵らを配する。


底辺の中心に、 大将を配置し、

そちらを後ろ側として、敵に対する。


戦端が狭く、 遊軍 ≒ 遊兵

≒ 戦い合いに参加できない、

位置らにある将兵ら ; 、

が、 多くなり、

後ろの方からの奇襲を想定しない、

態勢な為に、

駆動性らの多い、

大陸の平野での、 会戦には、適さない、

が、

山岳や、森林に、 河川、 などの、

地形な要素が多い、 日本では、

戦国時代に、よく、使われた。


全兵力をして、 完全に、

一枚のウロコの様な、

密集陣に編集するのではなく、

数百人が、 単位の横隊 ;

進む向きに対して、

横へ長い、 密集陣 ;

、を単位として、 編集する事で、

個別の駆動性を維持したままで、

全体としての堅牢性を確保する事から、

魚燐 ウロコ 、 と呼ばれる。


多くの将兵らが、 散らずに、

局部での、 戦闘に参加し、

一陣が、 壊滅しても、 次の陣が、

すぐに、 繰り出せるので、

消耗戦に強い❗ 。

一方で、 横隊を要素とした集合な為に、

両側面らや、後方から、

攻撃を受けると、

混乱が生じやすく、弱い❗ 。


包囲され易く、 複数の方向から、

敵勢らに囲まれた状態では、

用いない。


特に、 敵より少数な兵力の場合には、

正面突破に有効だ ;

魚鱗の陣形で、三好勢へ攻め寄せた、

畠山方は、 前方の三好勢より、

少数だったのかも知れない 。


対陣の際に、 前方からの防衛に、強い、

だけでなく、

部隊らの間での、情報らの伝達が、

比ぶるに、たやすいので、

駆動にも適する。


実戦では、 武田信玄軍が、

三方ヶ原の戦いに於いて、 この陣形で、

徳川家康軍と戦い、

これを討ち破っている❗ 。


家康氏は、 その後の、 千6百年の、

関ヶ原の戦いで、 西軍の鶴翼に、

魚鱗をもって攻めかかっている ;

西軍の一定部位らを突破して、

その背後からの攻め戻りも成して、

前後からの、 挟み撃ちを成す、

事も、狙ったのかも知れない 。


・・畠山軍が、 春木川を渡河した所へ、

三好実休軍の弓隊が、

一斉に、矢を放った。


両軍は激突し、せめぎ合う。


特に、畠山軍は、春木川を背に、

背水の陣で、逃げ場を断って、戦った、

が、


一時 イットキ 余り ;

3時間弱 ; 、を経て、 ようやく、

第一陣の畠山方の安見隊が崩れ始めると、

前衛をつとめた、 三好方の、

篠原長房隊が、 畠山方の、第二陣の、

遊佐信教隊に襲いかかった。


第二陣をも、順調に、

切り崩している様に思えたが、

篠原隊と、三好実休軍との間が、 開いた。


その時を狙っていたのか、

畠山方の、第3陣の、紀伊衆を主力とした、

湯川直光隊は、 春木川の上流より、

篠原隊の背後へと、回り込もうとした。


これに、 危機感を覚えた、三好実休氏は、

篠原隊への救出へ、 三好康長隊に、

三好政康隊と、三好盛政隊を、

前線に投入し、 湯川隊への、

切り崩しにかかった。


その結果にて、 実休氏の本陣は、

精鋭の馬廻り衆の百騎前後だけの、

手薄な状態になった。


この時に、 本陣の後方にある、

久留田池の方向から、突然に、

銃声らがした❗ 。


根来 ネゴロ 衆の鉄砲隊が、

三好方の本陣へ撃ちかけたものだ。


馬廻り衆が倒れ、 三好実休氏は、

わずかな手勢を引き連れ、

根来衆へ、 馬を駆けさせたが、

その途中で、討ち取られた模様だ。


三好実休氏の辞世の句は、


“ 草カラス 霜又 今日ノ 日ニ消テ

因果ハ爰ニ メクリ来ニケリ ” 、

とある。


この句にある、「 因果 」、 とは、

阿波の国主の、細川持隆氏を殺した、

事を指している、 と、思われている。


これに対して、 三好実休氏の弟の、

安宅冬康氏は、


“ 因果トハ、 遙 ハルカ 、 車ノ 輪ノ外ニ

メグルモ、遠キ 三芳ノ原 ” 、

と、読み直した、 とある。


書籍の、『 天下を制す

三好長慶vs織田信長 』、 によると、

この句は、 合戦への前夜に詠んだ。

実休氏を討ち取った、根来衆とは、

往来右京氏、なる、 根来寺の衆徒だった、

と、 思われ、 最後に残った、

馬廻り衆の、 30余りも、

敵陣に斬り入って、 全滅した。


合戦は、 申 サル ノ刻 ;

≒ 午後4時頃 ; 、で、

実休氏の享年は、 37 。


総大将が、 討ち取られると、

三好軍は、総崩れとなり、

篠原長房隊に、 三好の、康長隊と、

政康隊や盛政隊は、 厳しい、

追撃をかわしながら、堺に落延びると、

そのまま、阿波に帰った。


岸和田城の主だった安宅冬康氏も、

脱出し、淡路へ帰った。

高屋城の守備兵らは、

畠山高政氏へ、城を明け渡し、

飯盛山城へ逃れた。


高政氏は、 和泉と、南河内を取り戻した。


もう一方の主な戦場だった、 京都では、

三好義興氏が、 撤退を主張し、

京西院小泉城に、梅津城と、郡城にいた、

京都防衛隊を、勝竜寺城まで、

引き揚げさせ、 足利義輝将軍には、

岩成友通氏を警護につけ、

石 イワ 清水八幡宮へ移した。


翌る、3月6日に、 六角義賢氏は、

洛中に進軍し、 同じ月の8日に、

徳政令を敷き、京を掌握した。


2年ぶりに、 高屋城に入った、

畠山高政氏は、 数日を、

兵馬に休息を与えると、

同じ年の3月の中頃に、

三好長慶氏がいる、飯盛山城を攻囲した。


ここは、 三好氏の総本山となっている、

城で、 武力も強大で、 簡単には、

攻め込まず、

『 戦国三好一族 』、 によると、

「 敵兵が疲労するを待ってから、討つ、

持久戦をとっていた 」、

と、 解説している。


その後の、 5月19日から、 20日の、

教興寺の戦いへと続いていく。


将軍山城は、 今の京都市は、左京区の、

北白川清沢口町 ;

≒ 当時は、 山城国の愛宕郡 ;

、にある、 瓜生山 ;

≒ 標高が、 3百1m ; 、

に築かれた、 戦国時代の山城で、

別名には、

北白川 キタシラカワ 城、や、

瓜生山城 ウリュウサンジョウ 、がある。


瓜生山の頂 オベ 、 を、本丸とし、

近江より上洛する際の、

前線基地としての役割をもっていた。


『 ニ水記 』、 の、 1520年な、

永正 17年 、の、 5月30日の、

条 クダリ 、 によると、

細川高国氏が、初めて、

この城に陣を構え、 その際に、

戦勝を記念して、将軍地蔵を勧請したのが、 城の名への由来となった。


1546年な、天文 15年 、の、

冬になると、 第12代の足利義晴将軍と、

細川晴元氏が、 対立するようになり、

義晴将軍は、自ら、この城を、

大幅に改修した。

城へ、米や普請人夫を徴発したり、

太さが、五、六寸の、 竹を与えるように、

命じた事が、

色々な史料らから、 確認できる。

『 日本城郭大系 』、 によると、

「 当城は、 その修築の際に要した、

労働力や資材の調達を、文献で裏づけ得る、 稀有 ケウ の、 中世城郭で、 幕府は、

当城への修築の為に、 洛中と洛外の、

寺社や権門を通じて、

京都の近辺の人夫を、ほとんど、

総動員した、 と、 思われる 」 、とし、

戦国時代の修築の方法を、

古文献で知り得る、 珍しい城だ、

と、 解説している。


修築をした将軍山城であったが、

翌る、天文16年、 の、 3月30日、な、

1547年、 の、 4月20日 、 に、

室町幕府の第12代の征夷大将軍、の、

足利義晴氏は、 征夷大将軍職を、

息子の足利義輝氏に譲り、 自らは、

大御所、となり、 細川晴元氏を討つ為に、

洛中の細川氏綱氏や、

近衛稙家氏らと結んで、 父子で、共に、

ここに籠城するものの、

細川晴元氏の家臣の、三好長慶軍が、

同じ年の7月12日に、 相国寺に、

2万の軍勢で、陣を張り、

周辺の地域を焼き討ちした。


同じ月の19日に、 足利軍は、

将軍山城を自ら焼いて、

義晴氏と義輝氏な父子は、

近江の坂本へ脱出した。


その後に、 足利幕府は、 軍勢の拠点を、

中尾城や、霊山城へ移した為に、

将軍山城は、 部分的にしか、

使用されなかった。


和泉の守護代の松浦氏が、幼かった為に、

後見として、 岸和田城に入っていた、

「 鬼十河 オニソゴウ 」、

と、恐れられていた、 十河一存氏が、

1561年な、 永禄 4年 、の、

3月18日に、 死に、 それに乗じて、

畠山高政軍は、 岸和田城を取り囲み、

これに呼応して、 六角義賢氏も、

家臣の永原重澄氏に命じ、

同じ年の、 7月28日に、

将軍山城に立て篭もり、

六角義賢氏、な、 自身は、

神楽岡の付近に、陣をはり、上洛を伺った。


この時の六角軍は、 総軍で、

2万の兵であった。


これに対して、

三好長慶軍は、 子で、芥川山城主の、

三好義興氏らの7千の兵を、

梅津城と郡城へ、入れさせ、

信貴山城の主の松永久秀氏の7千の兵を、

京西院小泉城へ入れさせ、

勝軍山城と対陣した。


同じ年の、 7月から11月までは、

遠矢を射合う程な、 交戦振りであったが、

11月24日に、 三好軍は、

白川口に襲い来り、 松永軍は、

将軍山城に襲い来って、 挟み撃ちをした。


三好軍は、 白川口を突破し、

細川軍が陣取っている、馬淵に押し寄せ、

激戦となった。


この時に、 三好軍の将だった、

三郷修理亮 シュリのスケ 氏が、

馬ごと刺されて、転倒し、 そこに、

堀伊豆守なる人が、 襲いかかり、

首を討ち取った。


細川軍の損害も、甚大で、薬師寺氏や、

柳本氏、 などが、討ち死にした。


松永軍は、 永原重澄氏を討ち取り、

将軍山城を突破し、

六角義賢氏が陣取る、神楽岡へ、

1万の兵をもって、 突撃した。


六角軍は、 三雲三郎氏に命じて、

選りすぐりの弓隊の、 3百の兵をして、

高い所から、一斉に、射撃を加えた。


松永軍は、 強勢の射撃を受け、

多くの死傷者を出して、敗れ走った。


六角義賢氏は、直ちに、

追撃戦を展開しようとしたが、

蒲生賢秀氏が、大軍をして、

追撃する事の不可を説き、

追撃戦を中止させた。


翌る、1562年な、永禄5年の正月に、

六角軍は、三好軍へ襲いかかり、

何名かの兵らを討ちとった。


同い年の3月5日に、 久米田の戦いで、

三好実休氏が、 討ち取られた、 という、

報せが伝わると、 三好・松永軍は、

勝竜寺城まで、 引き揚げ、

第13代の征夷大将軍の足利義輝氏には、

岩成友通氏を警護につけ、

石清水八幡宮へ移した。


六角軍は、上洛し、

三好長慶軍の者を、かくまう者や、

それへ宿を提供した者には、

罪科 ツミトガ 、を問うとして、

京の人々を威圧し、 一方では、

徳政令を出して、

一守護による徳政令が、

合法な物なのかは、ともかく、

人々の借金を棒引きにして、

人々を撫 ナ で付けもした。


1570年な、 元亀元年、の、

9月から、 11月まで、 志賀の陣があり、

明智光秀氏が、この城に入って、

数カ月を、延暦寺を牽制するが、

織田信長氏の京都への支配が確立すると、

その軍事的意義を失って、 廃城になった、

と、見られている。



☆ 秀吉氏の提案を伝える古文書 ;

将棋の、「王将」を、「大将」に❗ ;

徳島城博物館 ; きょうから特別展 ;


 将棋の、「 王将 」、は、

「 大将 」、 になるかもしれなかった❓ ;

将棋に関する、 県の内外の資料を紹介する、

特別展 ; 「 王手 将棋の日本史 」、

が、 19日から、 11月24日まで、

徳島市の徳島城博物館で開かれる。


インドから、 東南アジアを経て、

平安時代に、 日本に伝わり、

天下人から、 庶民まで、 幅広く、

愛された将棋。


現在の形になったのは、

15 ~ 16世紀 、と、 みられる。


豊臣秀吉氏が、 駒の名称の変更を、

朝廷に提案した古文書などをはじめ、

肖像画、将棋盤、駒など、

歴史、美術史的な資料な、 百点が、

展示される。

国内の将棋関連の資料が、

一堂に集まるのは、初めて。


 最も興味深いのは、

豊臣秀吉氏にまつわる古文書 ;

「 お湯殿の上の日記 第五七 」 ;

( 東京大 史料 編纂所蔵 ) 。


15 ~ 19世紀に、 朝廷に仕えた、

女官が書いた職務日誌で、

秀吉氏が、 1595年、に、

菊亭晴季氏らな、 公家の、3人を通じて、

「 王将 」、を、 「 大将 」、と、

改めるよう、 朝廷に提案し、

陛下が許可したとする、

内容が、書かれている。


しかし、 記述は、それで終わっており、

提案の理由や、 後に、

名称の変更が行われなかった、

経緯 ケイイ ; イキサツ ; 、

などは、 分かっていない。


 江戸時代には、大橋本家が、

徳川家康氏から、将棋界、への、

取りまとめ役に当たる、将棋所を任された。


その大橋本家が考案した、「 大局将棋 」、

の、 復元品 ;

( 大阪 商業大 アミューズメント

産業研究 所蔵 ) 、も、

注目を集めそうだ。

縦が、 1・3 メートル、

横が、 1・1メートル 、 の盤に、

各陣営に、 4百2枚ずつの駒を並べる、

破格の須罫 スケー ; スケール ;

、 の将棋だ。


 「 熊兵 」、 「 森鬼 」、 などの、

居自 オリジ ; オリジナル ; 、

の、 駒、

縷留 ルル ; ルール ; 、 があり、

大橋本家が、 将棋の家元の権威を示すべく、

考案した 、と、 される。

実際に指すと、勝敗を決するまでに、

3、4日を要する、 という。


 県内関係の出品では、 美馬市は、

脇町の出身で、 明治時代に活躍した、

12世名人、な、 小野五平氏 ;

( 1831~1921年 ) 、 が、 三段から、

七段まで、 昇段ごとに受け取った免状な、

5枚が並べられる。


 徳島市の中島田遺跡の、 13世紀の、

地層から出土した、 「 歩兵 」、 な、

駒は、 全国的に見ても、 古い。


駒の裏に、 「 と(金) 」、 の墨書がなく、

実際に使われたかどうかは、不明だ。


この他に、 徳島市は、 上八万町の、

鎌倉から、 室町時代の、

川西遺跡から出土した、 駒には、

「 本横 」、と、 書かれている。


中世に、はやった、 「 中将棋 」、

と、 呼ばれる、 将棋で、 使われた、

と、観られる。


 森脇崇文学芸員は、

「 日本の将棋の長い歴史と伝統を、

知ってもらい、 各時代の人々が、

親しんできた史実を、 資料を通して、

想像してほしい 」、

と、 話している。


 ◇  10月27日、の、 午後1時半から、

記念講演会 ; 「 将棋の歴史と文化 」

、 がある。

講師は、 大阪商業大アミューズメント

産業研究所主任研究員の古作登さん。