経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

上司、な、将軍ら❗。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗。 報道されない ❗ 事からも、後押しを得て来てある、 日本人たちの数千人以上を、すでに、監禁中な、 シナ ❗。

【 室町幕府の、 足利将軍家は、

一部を除いて、 一般に、

守護大名ら、 に対する、

『 主君 』、 ではなく、 単なる、

『 上司 』、 でしかなかった。


これは、 江戸幕府の、

徳川将軍家が、 大名らに対する、

主君であり、

直参旗本と同じく、

徳川将軍家への直臣であり、

大名らの各々への家来らは、

徳川将軍家への、 直臣ではなく、

陪臣であり、

主従関係の宛て付けられてある、

立場を占めていた、

が、


室町幕府に参加して、

管領 カンレイ 、 を務めた、

斯波氏員らや、 畠山氏員ら、

などは、 足利将軍家に対する、

家来ではなくて、

それへの親戚で、 幕府において、

部下、な、役職を務めもする、

というだけの立場にあり、

その一方で、

細川氏員らのように、

足利将軍家への親戚でありながら、

累代の家来としての契約性を成して、

足利将軍家に仕えるべくある、

人々もあった。


室町幕府の第6代の征夷大将軍である、

足利義教氏は、

守護大名の、 畠山氏らと共に、

連歌をたくみに詠む、 という、

農家の娘さんと同席し、

共に、連歌を作り合い、

その娘さんの才能を愛でている、

が、

この娘さんは、

『 主持ちでは、ない 』、

『 主 アルジ 』、 格の人であり、

足利将軍と同じく、

『 主 』、格の人、として、

足利将軍ら、と、同席し得もした、

のであり、

幕府の要職にあろうが、

どんなに羽振りの良い、

武家員であろうが、

『 主持ち 』、 な、

『 家来 』、格な人々は、

『 主 』、格な人々とは、

公式には、 同席などは、 できない、

立場にあり、

大名であっても、

足利将軍家、などを、

主君とする、 契約性を成した人々は、

この、 農家の娘さんのように、

将軍家と同席する事、 などは、

公には、 より、 できない、

立場を占めており、

そうした、 主格の人々と、

家来格の人々とへの、

交信系などでの、 独特な区別性、や、

主格な人々同士の、 交信系などでの、

対等性、 といった物らは、

足利時代の、 日本人たちの精神性なり、

その精神性らを規定する、

価値序列の観念性なり、として、

特徴性のある物らであり、


義教将軍が、

守護大名らの身内員らを、

自らの、そば近くに仕えさせ、

その大名らの身内員らを、

大名らへの跡継ぎにする事で、

守護大名らを、 段々に、

足利将軍家への累代型の家来に、

入れ替えてゆく、 度合いを、

増さしめてもあった道次で、

暗殺された、事への、

あり得る、要因性らの中にも、

この、時代の特徴的の精神性らの存在、

と、 足利将軍家へ対して、

守護大名ら、などが、 一般に、

累代型の家来ではなく、

主従関係を成して居らず、

単に、共通の幕府体制の中で、

それへ参加した場合に、

上司と部下との、役職上の、

関係性を公に成す、 だけの、

間柄しか成して居らず、

例えば、

守護代の、 家系員である、

織田信長氏は、

その先祖らの契約性により、

織田氏を、 守護代に取り立てた、

斯波氏である、 足利氏員らは、

自らへの主家員なり、

主君なり、として、盛り立てる、

宛てとすべき、筋合いには、

あり得ては、居たが、

将軍家の方の足利氏員らは、

織田氏員ら、などにとって、 単に、

同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず、

自らが、家来として、盛り立ててやるべき、

筋合いには、無い、 宛ての、

人々であり、

江戸幕府における、

大名らへの、家老らや、

その家系員ら、とは、

幕府の長 オサ 、な、 家系員らへ対する、

関係性とは、 著しく、 異なる、

関係性を成していた。


戦国時代は、 下剋上の時代、

としても、 語られるが、

それは、 より、武力の行使性、

などを欠いた立場にあった、

主格な人々が、

必ずしも、 主格な存在ではなかった、

武家員ら、などから、

ありもしなかった、 身分制めいた、

秩序性を、 無理にも宛て付けられ、

より、 元から、 武力の行使性による、

身分性なり、 序列性なり、が、 より、

一定の人々に限定される、

事を、 無しに、 より、

一般の、 主格な人々へまでも、

宛て付けられるべき、 正統な物としても、

あり得て来たかのように、

匂わされる、 度合いら、を、

各地で、余計に、成し増していきもした、

時代でもあり、


神々のどれ彼の格を、

その子孫員としてある、

日本人の誰彼らの子孫員として、

生まれ付きに、 受け継いである、

日本人たちの、 自らへの主である、

格性は、

『 主持ち 』、になる、

契約性を成して、 何らかの意味で、

公の事らにおいては、

『 主 』、格な人々のとは、

区別される、 作為型や、

不作為型の、 振る舞いようを、

成すべき、 立場へ、

特定の先祖員らへの子孫員として、

その何彼らを引き継ぐと共に、

自らを据えたり、

自らを、 初代として、

そうした契約性を成したり、した、

特殊な、人々においては、

より、 公には、表立てられない、

筋合いなものとしての度合い、

を、 成し、 増し得もするべく、

あった、 宛てなものであった、

としても、

より、一般な、 主格の人々においてまで、

『 主持ち 』、としての、

観念性らが、 その精神性を、

規定すべき、 いわれ、などは、

本来は、 より、 無かった 】 。


☆ 足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、 傭兵ら ❗ 03 ;


1429年、の、 正長2年3月12日に、 将軍宣下をうけたのは、

足利義満氏の3男の、

6代将軍の足利義教氏だった。 :

足利義持氏は、

籤引きが行われた、 1428年、の、

応永35年の正月の、 翌 アク る、

18日に没した。

義教氏が家督を継いだ為に、

征夷大将軍への就任の夢が破れた、

関東公方の足利持氏殿は、再び、

不穏な動きを始めた。


籤引きにより、征夷大将軍に選ばれた、

天台座主の義円師は、 還俗して、

義宣 、と称し

≒ 後に、義教 ヨシノリ 、

と、 改名し 、

征夷大将軍に就任した。


この経緯から、義教氏は、

世に、 「籤引き将軍」、と、呼ばれる。 :

:

足利義教将軍は、 当初は、

有力な守護大名らによる、

衆議により、 政治を行っていたが、

長老格の、 三宝院満済氏や、

山名時熙氏が死んでからは、 次第に、

指導性を成す様になり、 物忌みや、

好き勝手に暮らす、 が為に、

公益や、 公務を省みない、

武家員らや、公家員らによる、

横暴な行為や、 手抜き事ら、 等から、

世間の一般の人々が、

泣きを見させられる度合の、

より少ない、 天下を成すべく、

公方の下に、 秩序を成す事らが、

厳格に成し行われる事を目指し、

斯波氏に、畠山氏や、山名氏と、

京極氏や、富樫氏の、

家督の相続へも強引に介入し、

その各々の氏の家臣らからも、

より、支持を得られる、

徳性の、より高い、

意中の者を家督に据えさせ、

1439年、の、 永享11年の、

『 永享の乱 』、 では、

長年を対立していた、

鎌倉公方の足利持氏殿を滅ぼし、

比叡山延暦寺とも対立し、

これを屈服させたが、 僧侶らが、

根本中堂を焼き払い、自殺する、

騒ぎを成した。


足利将軍らの中では、 その父の、

第3代の征夷大将軍の、

足利義満氏に並び得る、主導性を成した。


@ 6代目の義教将軍は、

些細な不正も、決して許さない、

厳罰主義者だったし、

専制的と捉えられる程に、

幕政に積極的だったが、 それは、

管領や大名らを排除し、

将軍の意が、 絶対の、世界に、

酔いしれたいが為だったのでは、無い。

幕府の私物化や、私曲を交えた政治とは、 正反対の理想を持っていた事が、

近年の、詳細で、中立的な研究らにより、 明らかにされている。


@ 「 室町殿 ≒ 足利義教将軍 、

の政道のお蔭で、

天下が無事に治まっている 」 、と、

諸大名から、書状で、

賞賛の意を伝えられた、 室町幕府の、

6代目の征夷大将軍の、足利義教氏は、

その懇意に痛く喜び、

大名らへの返答では、

「 各々、分国の政道に、

精を出すように 」、と、

期待の言葉をかけた。


義教将軍の時代は、

「 鎌倉府との確執 」、や、

「 延暦寺の騒動 」 、 に、

九州や、伊勢と、大和での紛争など、

色々と大変な事が立て続いたが、

その都度に、 大名らに諮問し、

幕府の役職にある、皆で支える、

幕府体制、の、 基本の姿勢は、

保たれていた。


大名家が、家督を決める際は、

それが、 器量の仁 ≒ 人 、

である事や、

家臣らの一定数以上からの、

支持を得ている事を、

何より、重視した❗ 。 :


※ 器量の仁

≒ その地位や役目にふさわしい、

才能や、人徳を備えた主 。 :

:

この様な、 義教将軍の言動の、

背景に、 貫かれている物は、何か? 、

それは― 、 "正しさ" すなわち "正義" だ。

裁許の基準は、

自らの好悪の感情ではなく、

客観的な、理非の正しさ、で、

大名らの意見が一致しない時には、

熱心に、 その調整に努めようとする、

姿勢には、 最も正しい、

一つの "答え" を目指しつつも、

各々の意向へ、最大限に、

配慮しようとする、誠意が感じられる。

:

義教将軍の意見だけで、

全てが決定された事は、なく、

進んで、大名らの意見を徴し、

大名らも又、 反対意見も含め、

自らの考えようを主張する、

自由性を持っていた。

義教将軍は、 諸大名に対する、

直接的な "諮問" 、という、

形式を取る事で、

将軍と大名らの主従関係を強化する、

と共に、 この時期に、

各地で多発する紛争らへ、 迅速に、

かつ、 慎重に対処し得ていた。 :


遊興や酒色に耽ったり、 重税をかけて、

蓄財に走ったりした形跡が無い、

事からも、 その、

社会一般の人々の福利らへ、

目配りのできる、

人格性が観て取られ得る。 :


その、俗世離れした、

厳密なまでの道理主義は、 いつ、

どこで形成されたか? 、

それは、彼が、成人まで僧籍にあった 、 "還俗公方" ゲンゾク・クボウ 、

だったからです。

上杉謙信氏の神がかりさにも通ずる。


@ 俗世と乖離した世界で、

修行を続けていた義教さんは、

人の大半が、 " 結構と、適当で、

なあなあな存在だ " 、という、

現実を受け入れる事が出来なかった。 :


「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、

言う莫れ 」、

「 薄氷を踏む時節、 恐怖、

極まりなし 」、 等、 これらは、

当時の日記の記述にある言葉らで、

全て、 伏見宮・貞成親王

≒ 後花園天皇の実父 、の、

『 看聞日記 』、 にある言葉らです。 :


公平公正を目指す 、正義の公方の様らは、 幕政に関わった、 満済師の、

『 満済 准后 日記 』、や、

公家の万里小路時房氏の、

『 建内記 』 、 の記録らにある。

:

一例を挙げると、

「 御沙汰を正直に… ≒

訴訟の公正さを標榜した 、

義教将軍の言葉 。

「 尊卑・親疎によらず、

次第に任せて、 伺い申すべし

≒ 訴訟は、 身分や縁故によらず、

公正な手続き事によるべき、 という、

義教将軍の意向。


「 政道、 好悪無く裁許せらるは、

最も、天心に叶うべし、 珍重珍重

≒ 私曲の無い政道こそ、

天皇の御心に添う物だ、 喜ばしい

≒ 義教将軍の志す、 正しい政道への、

万里小路時房氏の感想 。


「 誓言をもって、 此の如し、

面々申す条、 真実、懇志の至り、

御悦喜、殊に、御本意極まり無し 」

≒ 上述の、大名らからの、

義教将軍の政道への、心からの賛辞に、

めちゃめちゃ喜ぶ、義教将軍。

これらが、 政務において、直に、

義教将軍と接していた、

幕臣らの記録です。


満済准后 ジュゴウ 、は、

『 看聞日記 』で、

「 天下の義者 」、と、賞賛される程、

人々から信頼を集めた、高徳の僧であり、 万里小路 マデノコウジ 時房氏は、

朝廷と幕府の双方で活躍していた、

公家で、 政務を律儀に記した、

『 建内記 』 、 からは、 謙虚で、

誠実な人柄が読み取れます。


それに対して、 『 看聞日記 』、

の筆者の、貞成親王は、

皇族で、後花園天皇の実父でもある、

方だから、 当然に、 幕政には、

関わっていない。


その大部分は、

人から伝え聞いた話らで、

他の同時代の人々の日記らの記述により、 事実ではない事が確認される、

義教将軍にまつわる噂話らも、

記述されている。


@ 私曲 しきょく

≒ 自らの利益だけをはかり、

不正で、 邪 ヨコシマ な 、事 :


@ 後花園天皇と、義教将軍は、

非常に厚い信頼関係にあった、

歴史的にも、 希有な君臣で、

この事からも、 義教将軍は、

"天子の意に沿う"、

正しい政道を志していた事が、判る。


当時の日記というのは、

"公的な記録" としての意味合いが、

強い物で、 今の様に、 私的な物ではなく、

後世に、 朝儀

≒ 朝廷での儀式な事ら 、や、

政務の実態を伝える為に、

代々に、家業として成された物であり、

人に読まれる事を前提に書かれている。 :


朝廷では、 とにかく、

「 先例 」 、 が重んじられたが、

この日記により、 遥か昔の、

「 先例 」 、 を知り得た。


書き手により、 それぞれに特徴があり、 淡々とした事務的な物から、

当時の政治、世相、事件、文化、

噂 ウワサ ら、 等が満載の、

めくるめく物まで、色々だ。


書き手の性格も、 おおらかだったり、

正義感が強かったり、 愚痴が多かったり、 と、 色々とあるw。

『 看聞日記 』 、 は、

どういった類だったかというと、

かなり、めくるめく系です。

義務的な家業、というより、

もっと自由に、 とにかく、

見聞きした話らを、 熱心に、

書き記していった物で、

上級貴族の遊興の様から、

庶民の噂らまで、その内容は、多彩です。


そんな、政治の一線からは距離を置き、

社会を見つめていた、貞成親王には、

将軍義教氏は、 どの様に映ったのか。 :

諸大名との衆議も尊重しながら、

正しき政道に邁進する、

義教将軍だったが、 一方で、

理想の天下を夢見る、彼の完璧主義は、

やがて、 ほんの少しの不正も許さない、

厳罰主義、という、一面をも見せ始める。


僧侶であった、公方として、

正しき天下を成す事への使命感が、

半端では、無い、

義教さんは、 当然、監視の目も厳しい。


コネや、 口入 クニュウ

≒ 口利きのこと 、

緩怠 ≒ サボる事 、

密通 ≒ 姦通 、

一族による利権の独占、 等々、

"不義な事" が、 とにかく大嫌い。

見つかろうものなら、 即、お叱りです。


※一例; …丹波守護代と、伊賀守護は、

緩怠がばれて、 改替。


√ 出仕停止や、

所領の没収などの、処分を受けた公家も、

数知れず。 :

それまでの、 室町幕府ならぬ、

ゆる町幕府の、

ぬるい処遇で来てしまった、

彼らの心へ、 大変な衝撃を与えたろう。


『 看聞日記 』 、 には、

年貢の未進の事を、

義教将軍の耳に入れない様に、

懇願する声が見られたりする。


「 薄氷を踏む時節 」、なる記述は、

厳正な将軍の前に、 背筋を伸ばして、

シャキっとせざるを得ない人々への、

気の毒さを表現した言葉です。


上流階級にある公家らにとっては、

それまで、叱られる経験が、

殆ど、 無かったろうし、

貴族らにも、 『 道理 』 、が、

適用されるなんて、驚愕の事態だった、

と、 思われる。


ゆるい事に対しては、 他の時代も、

割と厳しかったし、 特に、

義満将軍や、義持将軍の代でも、

厳しかったが、 規律を守る為に、

厳しさが必要な事は、

義教将軍期に限った事ではない、

当然の常識です。 :


「 訴訟は )、 尊卑・親疎によらず… 」、

というのは、 利権を持った、

身分の高い者らにとっては、超絶に、

不都合だが、 縁故の無い、

身分の低い人々にとっては、

非常に有難い方針だ、と、思われる。


中世において、 地位や、

権力を差し置いて、

「 公平公正に優る物なし❗ 」、 とし、

道理を第一とする、

訴訟制度を成し行われる様にした。


鎌倉時代から、

武家政権の標榜した事らを、

理想で終わらせず、

制度への改革を推し進め、

積極的に、実現しようとした所が、

義教将軍期の特徴で、 それに加えて、

義教将軍は、 公正な手続きを重視する、

観点から、 正規の手続きを踏まない

≒ 縁故による 、

"直訴"を禁ずる一方で、

縁故がない為に、

訴訟を受理して貰えずにいる、

人々への救済措置として、 一部では、

直訴 ジキソ 、を認めた❗ 。


『 満済 准后 日記 』、 だけを、

見ていたら、

「 厄介な事件ばかりが続くのに、

真摯に政務に当たり、

大名らの意見も尊重した、

真面目な将軍 」、 …といった、

印象を抱き得るw 。


義教将軍の厳しさについていける、

大名ら、 等の、幕府の役職にある、

人々には、頼もしい主君だったろう。


義教将軍は、 いつ、休んでいるのか? 、 と、思える位に、 すこぶる、

よく働く公方だった。


@ 『 看聞日記 』、 にしたって、

伏見宮家への、義教将軍からの進物

≒ 贈答の品 、 が、

頻繁にあったりして、

人々が憔悴しきった、

地獄絵図の様な、京都を想像していたら、 その 『 逆負 ギャプ 』

≒ 『 ギャップ 』 、 に、驚きます。


※例えば… ; 義教将軍から、

貞成親王の御子息

≒ 後の貞常親王 、への、

進物が届いた時の、貞成親王の感想は、

「 連々、御芳志、祝着無極 」

≒ 度々のご親切 、 喜ばしい事 、

この上ない 。 :

『 看聞日記 』 、 の、

嘉吉元年の5月20日

:

貞成親王、と、 義教将軍、 との、

進物のやり取りも、挙げたら、

切りがない。 義教将軍の、

"正しさや理想に対する追求ぶり" は、

終始、一貫しており、 "厳密さ"は、

後半に近付く程に、 増していく、

様にも観られ得る。 :


不正の発覚が相次ぎ、

信頼していた重鎮が、 相次いで、

世を去った時期があった事も、

大きく響いたのかも知れない。

:

1432年、の、 永享4年

≒ 畠山満慶氏が死去。 :

永享5年

≒ 畠山満家氏と、斯波義淳氏が、死去。

1435年、の、

永享7年

≒ 満済師と、山名時煕氏が死去。 :

義教将軍の治世

≒ 1428 ~ 1441年 、の、

半ばに差し掛かった頃の事だった。


大名らの中では、

特に、 畠山満家氏と、

山名時煕 トキヒロ 氏を、

頼りにしていた様だ。

満済師は、 僧だが、

公方と大名らの双方からの信頼が厚く、

彼らの意見らを上手く媒介し、

幕政を、根幹から支えていた。


室町幕府では、 満済准后のごとく、

直に、政務に関わる僧の他に、

政道への指南者として、

初代の尊氏氏や直義氏にとっての、

夢窓疎石師、や、

3代目の義満将軍や、

鎌倉公方の初代の、足利基氏殿や、

2代目の、足利氏満氏にとっての、

義堂周信師、の様に、

教養の高い、高僧の助言や助力により、

広く、万民に資する、

公正な政治を実現せんとしていた。


義堂周信師が、義満将軍に説いた、

為政者の心構えは、

「 国家を治むる者、 先づ、

明徳・正心・誠意・修身、

是れ、最も緊要なり 」

≒ 政治家には、 まず第一に、

「 非常に高い人間性

≒ 共感構築型の知的な創造性 」 、

を要求した。


@ 夢窓国師に絡む物に、

『 夢中問答集 』 、 という、

世俗に向けて、 解り易く、

仏教の本質や、禅の在り方を解いた、

書があり、 その中に、

政治についても言及した部分らがある。


これは、 夢窓国師 、と、

足利直義氏 、 との、

"問答形式"になっており、

夢窓国師 の"答え"の方が、

圧倒的に長いが、

"答え" を理解出来ないと、

"問い" も出来ない、と言う、

意味を踏まえると、

高僧と互角に問答し得ている、

足利直義氏の凄さにも圧倒される。


この書の原型は、 夢窓国師の、

"答え"らを、 直義氏が、暗記し、

書き貯めたものw :


【 夢窓国師 ( 川瀬一馬氏訳 )

『 夢中問答集 』( 講談社学術文庫 ) 2000 】 :

"室町" が追い求めた理想が、

ここに、集約されています ) :


『 看聞日記 』、 で、 貞成親王は、

満済師を、 「 天下の義者 」 、

と賞賛し、 畠山満家氏については、

「 天下の事、諫言 カンゲン

≒ いさめの言葉 、をもって、

沙汰を申される 」 、と、 述べているが、 そうした人物を重用していた事からも、

義教将軍が、 自身に都合の好い、

お気に入りだけを囲って、

自分勝手な政治をしていた訳では、

ない、 事が、判り得る。


信頼していた重臣らの死に、

立て続く、騒乱。

乱れ行く秩序を正すには、

厳罰をもって当たる他ない。

…義教将軍は、 独り、

修羅の道を歩み始める。

彼の心を蝕 ムシバ んでいったのは、

正義への、深すぎる愛と、

その裏返しである、

不正・不義への、厳密すぎる、怒り。

正しい世の中を追い求め、 ひたすら、

政務に励んでいたのに、 いつしか、

高すぎた理想は、 それを、

僅かでも傷つける、全てを、

排除するまでに膨張し、 最後は、

自ら振り上げた、

正義の剣 ツルギ 、に、

その身を貫かれて終わる。


570年以上前に、 正義

≒ 普遍的な "正しさ" 、"道義" 、

を愛し、正義に倒れた公方。

義教将軍への、ネガティブ・イメージ

≒ 否定的印象 、 は、

不当なまでに、深い。 が、

これらを読めば、全てが吹き飛ぶ❗。

分析力に長けた最強文献は、こちら❗。

【 川岡勉氏:

『室町幕府と守護権力』 】…の、

p.66ーp.127

【 設楽薫氏:

『 将軍足利義教の「御前沙汰」体制と

管領』。 久留島典子女史編

『 展望日本歴史11 室町の社会 』


@ 関東の事は、

鎌倉府を置いて、 『 鎌倉公方 』 、と、

それを補佐する、 『 関東管領 』

≒ 上杉氏 、に任せていたが、

この鎌倉勢は、 時折、

厄介な事をしでかす、

荒くれ魂の持ち主らだった。


「 鎌倉公方が、悪役… 」、 という、

単純な話ではなく、

京都の将軍に、 問題があって…、

という様な例もあった。


『 鎌倉公方 』、 は、

尊氏どんの子の、 足利基氏どん

≒ 2代目の足利義詮将軍の弟 、

に始まり、 :

足利基氏 → 足利氏満 → 足利満兼 → 足利持氏 → 足利成氏 …、

と、続いていく。

:

6代目の、義教将軍の時代には、

『 鎌倉公方 』、 が、

足利持氏 もちうじ 、氏で、

『 関東管領 』 、 が、

上杉憲実 のりざね 、氏だった。


この足利持氏殿は、 義教氏が、

6代目の将軍にされる前に、

嫡男のいない、4代目の、

義持将軍の後継ぎとして、 自分が、

京の将軍の座に就きたい、

と、考えていたが、 僧籍にあった、

義持将軍の弟の、 義教氏に、

将軍職が行く事が決定したので、

納得がいかず、 鎌倉にありながら、

京都の義教将軍へ、色々と対抗した。


室町幕府における、 遠国の、

関東に、奥州や、九州への統治政策は、

緩やかな地方分権、と言った、

感じの物だが、

それは、 中央の京と、 地方の各々が、

「 天下 」、 という、

マクロな視点で 、 "協力し合って"、

初めて、上手く機能する物であり、

自己 ≒ ミクロ 、の利をもって、

天下一般の人々の福利らを増し、

その害を減らす、 公の政治の事らへ、

反発し、対抗する、という、

行動に出る者があれば、

誰にとっても、 不利益を成す乱世へ、

転落し兼ねない物だった。


鎌倉公方の足利持氏殿を主君とし、

そんな主君を、その都度に、

必死に諫めたのは、 上杉憲実氏だった。

鎌倉府は、 "室町幕府の配下"、なので、

関東管領の、上杉憲実氏は、

鎌倉公方の部下ではあるが、

京の室町殿の部下でもあるから、

京と鎌倉の関係を良好に保つ事を、

責務とし、 京との繋がりも強い。


そういう事情から、 京に対抗する、

鎌倉の足利持氏殿の矛先は、

主君を諫止する、上杉憲実氏へ向かい、

合戦の段へ及ぶ。