経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

送り狼 作戦 ❗。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨 市議ら 実質 拉致事件ら ❗。 報道されない ❗ 事からも後押しを得て来てある、 日本人の数千人以上をすでに監禁中な、 シナ ❗

http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : @ 日本の場合は、

アメリカ 、 は、 日本の本土への侵攻と、

国家としての無条件での降伏の要求とを、

撤回して、 ポツダム条件を提示し、

日本は、 有条件で、 降伏をしました。


占領の直後に、 米国は、

『 日本は、無条件降伏をした 』 、

と宣伝し、 降伏条件に違反して、

A級戦犯を設定する、裁判を行いましたが

≒ C級は、 不起訴 、


中国、と、 ソ連による悪行らを知るに従い、

日本への、侵略国家との認定を、

事実上、撤回し、 従来の、

戦争を終結する方式の通りに、

対日講和会議を行い、

日本との講和条約を結ぶ手続きを経て、

日本は、 国際復帰をしたのです。

日本が、 枢軸国らの中で、 唯一、

『 国家無条件降伏を免れた 』 、 のは、

玉砕、や、 特攻らに加えて、 :

アジアの各地を含め、 特に、

沖縄戦で、 バアちゃんが、

手榴弾を持って、突入してきたり、

カアちゃんが、包丁を握って、

日本兵と共に、 突入してきたり、

女子供が、 日本兵を助け、

共に戦い、 自決した、 から、 です。


特定日本人らは、

軍の無条件降伏では無く、

国家の無条件降伏、と、

日本国民らへ思い込ませる、

悪宣伝を成し続け、

『 無謀な戦争で、 無駄死にした人々 』 、

にして置きたいのでしょうが、

これらな、 多くの犠牲者の方々の、

貴い行為らが、

アメリカによる、日本への、

国家、としての、無条件での、

降伏の要求を、 撤回させ得た、 のです❗。

:

■ ウェアマイスター海軍中尉:

「 神風は、 アメリカ艦隊らへの撃滅には、

成功しなかったが、 多大な損害を与えた。

在来の戦法では、とても、

こんな成果を上げ得なかったろう。

日本の飛行機に関する、 数字が正しいなら、

日本が失った飛行機の、12 % 、 で、

アメリカ側の損傷艦艇の、 約 77 % 、に、 アメリカ海軍の死傷者中の、

約 8割 、 をやっつけた事になる。

すばらしい戦果、 と、 いえよう。

神風の特攻があった為に、

多くの米高速空母らが張り付けになった、

事も、 大きな成果らの一つだ。

もし、神風攻撃らがなかったら、

これらな、空母らは、 自由に、

日本の本土の、 基地や、 工場らを、

破壊し得た筈だ 」 。

:

■ マックガン大尉: 護衛空母の、

「 サン・ガモン 」 、 の乗組パイロット:

炎上中の特攻機を海中に投棄する、

作業を手伝った、 マックガン氏は、

ずっと後になって、

日本軍のパイロットを讃え、

「 わが艦の飛行甲板を突き抜けた、

あの男は、 私より立派だ。

私には、 あんな事はできなかったろう 」、 と語った。 :


■ アルバート・カフ氏 : UP通信社 :

「 神風特攻隊は、確かに、

大きな損害を米軍に与えた。

神風のパイロット達が、 勇敢な人達だった、

事には、疑いがない。

アメリカ兵らが、 “神風”を恐れ、

怖がった事は、否定できない。

実際に、 恐慌が起こりかけていた 」。


https://www.facebook.com/JapanToday/posts/1171746319519360

「 フランス・パリで起きた、

テロの惨劇って、「 神風 」 、

と、呼ぶべきものなのかな? 」 :

テロ事件を受け、自爆テロを、

Kamikaze 、と、表現する、

欧米のメディアが、複数、あった。


☆ 海外論弁群 :


☆ 呼ぶべきじゃないな。 神風は、

両陣営が、共に、死傷者は、軍人だったから。 元々、これは、

モンゴル軍による侵攻をを撃退した嵐、

という意味と、

アメリカ海軍に特攻した行為らを指す言葉だ。 パリでのテロ事件の死傷者は、

罪のない一般市民だった。


☆ 日本軍は、 主に、 軍隊や政府を、

標的にしてたが、 ISIS 、 は、

民間人らばかりを狙って、

軍や政府を狙わない物な。


☆ 違うな。

宗教の為に、 やった訳じゃないから。

日本人達は、故郷、友、家族を守る、

為に、 やったんだ。

奇抜な作戦ではあるが、

宗教による物では、ない。


☆ カミカゼは、

軍人らを相手になされた行為らだ。

戦争への抑止力であり、 戦争の手段だった。


フランスの連中は、

民間人を相手にした行為だから、

リトルボーイ 、か、 ファットマン

≒ 広島や長崎で、 国際法に違反して、

非戦闘員の民間人らを殺した、

原子爆弾らの名 、 で、いいよ。

痴愚にふさわしい。


☆ 呼ぶとしたら、

( 原爆を運んだ飛行機の名の ) 、

エノラ・ゲイ 、 とか、 そんな言葉だ。

大勢の民間人らを殺した。


☆ 自爆テロ、 と、 カミカゼ 、 には、

違いがある。

神風パイロットらや、

多くの日本軍兵士らには、

厳格な、 名誉の規範があった。

http://news.livedoor.com/article/detail/10834376/ ☆ フランスのメディアは、 常に、 『 自爆テロ 』 、 を、 『 カミカゼ 』 、 と表現するので、本当に、悩ましい :


☆ なぜ、 合法な戦争行為と、 無法な、

テロ行為を比べる :


☆ 日本の良いパイロットらが、

戦争の時に、 いなくなっていった。

並な、 技術のパイロットらもいた。 が、

その多くも、任務から、ほとんどが、

帰って来れなくなっていった。

パイロットらの死亡率が多すぎる為に、

現場のパイロットらが、 まず、

言い始めた事を受けて


≒ 海軍の将校らの中には、

若者に、 そんな、凄惨な死を求める位なら、 降伏すべきだ、という意味の事を言明して、

反対した人も居たが 、 より効果的である、

自爆攻撃を行う作戦を成す様になった。 :


☆ イギリス : アメリカ側の戦略は、

出来る限り、日本の民間人らを殺していた。 日本の戦略は、 アメリカ戦艦らと戦う、

事が多く、 出来る限り、 兵らと戦っていた。 神風は、 アメリカの作戦より、

遥かに男らしい、 立派な行為だった。


@ 仲間らが、戦果を上げ得ない状態で、

戦死だけしてしまう状況にあって、

現場の航空士らから、

自らの死を無駄にしない為に、と、

確実に、戦果を得る方法としての、

自爆攻撃を成す為の、装備や、

段取りをして貰える様に求める声が上がり、 大西瀧治郎中将は、

航空士らが、戦果を得ずに、

戦死してゆくがままにするか、

彼らの言う通りに、確実に、

戦果を得られる、 段取りをするか、 の、

決断を迫られた。


終戦の翌日の、 1945年、な、

昭和20年、の、 8月16日、の、

午前2時45分に、 中将は、自刃し、

腹を、十文字にかき切り、 返す刀で、

首と胸を刺しながら、 なお、

数時間は、生きていた。

従者が、 軍医を呼んだが、

「 生きる様には、してくれるな 」 、

と、頼んだ。

駆けつけた部下には、

「 介錯不要 」 、 と言った。

「 できるだけ、永く、苦しんで死ぬのだ 」。 その遺書には、 そう書いてあった。


・・ 特攻を断った人々の中に、

芙蓉部隊を率いた、美濃部正氏がいるが、 :

1945年2月17日の出撃で、

美濃部氏は、 部下に、 特攻を指示し、

別れの盃を交わしてもいる。


本土に来襲する、

アメリカの機動部隊に対して用意された、

「 未明に索敵機が、 空母を発見したら、

位置を通報した後に、

飛行甲板に体当たりして、発艦を不能とし、

その攻撃力を奪う。

その後の夜明け時に、

索敵機の知らせた地点へ到着した、

第2波以降が、 通常攻撃を反復する 」、

戦法だった。 :


鞭杲則少尉の記憶では、

「 空母を見つけたら、

飛行甲板に滑り込め 」、 との命令で、

搭載機への破壊や、 突入による火災で、

位置を知らせる、戦法だった。


どちらにしろ、 必死の特攻を前提とした、

戦法だったが、 この時には、

敵が見つからなかった為に、特攻は無かった。 特攻部隊で、 消耗があり、 同じ、

彗星装備の芙蓉部隊が、

第2御盾特別攻撃隊の名で、特攻配置になる、 との、噂が流れたが、 美濃部氏は、

「 うちの隊から、特攻は出さない。

夜間作戦が出来る人が、少ないので、

後が、なくなる 」、と、否定しても居り、

司令部の参謀が、

「 必死尽忠の士の進撃を、 何者が、

是をさえぎるか、 第一線の少壮士官が、

何を言う 」 、と、叱責した時には、

美濃部氏は、 指揮官や幕僚が、 自ら、

突入しようとしない事と、

彼らが、ろくに、空中戦を経験していない、

事を非難し、

「 現場の兵士は、誰も死を恐れていません。 ただ、指揮官には、 死に場所に相応しい、

戦果を与える義務があります。

練習機で、 特攻しても、

十重二十重に待ち受ける、

グラマンに撃墜され、

戦果をあげる事が出来ない事は、明白です。

白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、

ここにいらっしゃる方々が、

それに乗って攻撃してみるといいでしょう。

私が、 零戦一機で、全部、

撃ち落として見せます 」 、と言った。


この反対論を述べた行為は、

軍法会議に掛けられて、 美濃部氏が、

死刑に処せられる事も在り得る行為だった。

:

美濃部氏は、 フィリピンで、

特攻が開始された際には、 夜襲を説いて、

特攻に参加しない事を、

大西瀧治郎中将から、容認された。

この話し合いの際に、

「 生還率ゼロの命令をだす権利は、

指揮官と言えども、 持っていない 」、

「 この世で、 罪人以外は、

自らの命を、他人に命じられて失う事は、

おかしい 」 、と、 大西中将に語り、

やがて、彼は、

「 こんな、 むごい戦争があるか 」 、と、

声を荒らげて、 応じた、 という。


第5航空艦隊司令長官の、 宇垣中将は、

『 戦藻録 』 1945年7月29日の項に、

美濃部氏について、

「 活躍は、目覚しきもの 」 、

と、 記述している。


戦争の末期に、 美濃部氏は、

人種差別性を露わにしていた、 アメリカ、の、 白紅員 ビャクイン 、 ら、 等により、

日本人達への、強姦と虐殺の限り、が、

尽くされる事が、 それまでの、

国際法に、全く違反して、 成されていた、

日本、の、 民間人ら、や、 民間船ら、への、

アメリカ軍の将兵らによる攻撃らと、

占領地域らでの、非戦闘員への、

強姦、と、 騙し討ち、 などの、

累積からも、 合理的に、 予想し得た、

事を、 要因ともする、

決号作戦 ≒ 本土決戦 、に備えて、

特攻による、 最終出撃に加わる、

24機分の編成表を作り上げ、

空中指揮は、 美濃部氏自らがとる事にした。


この特攻は、

「 敵は、 上陸前に、 必ず、

機動部隊の猛攻を加えてくる。

まず、 爆装の索敵攻撃隊を出して、

敵艦隊を捕捉する。 その通報を受けて、

やはり、爆装の攻撃隊が発進し、

爆弾を、海面で、 スキップさせて、

敵艦の舷側にぶつける、

肉薄の反跳爆撃を敢行した後に、

全弾を撃ち尽くして、艦艇へ突入する。

空母がいて、 甲板上に、

飛行機らが並んでいれば、

滑りこんで、誘爆で破壊する 」 。 :


「 基地に残った地上員らからも、

決死隊を選択し、穴を掘って、

爆弾と共に、 入る。

敵の陸上部隊が迫ってきたら、

残った施設らに火を放ち、

敵を安心させて、呼び込めた所で、

穴の中の決死隊が、 各自、

爆弾の信管を叩いて、 大爆発を起こし、

戦車や、歩兵らをまきぞえにする。

その他の大多数の若い隊員らは、

基地を離れて、一般市民にまぎれこみ、

自分で、 運命を切り開いていく 」 、

作戦だった。 :


1945年、の、8月15日に、

戦が終わった。 美濃部氏をはじめ、

芙蓉部隊は、 終戦に、 納得しなかったが、

艦隊司令部で、 美濃部氏は、

井上成美大将になだめられ、

部下を説得する様に言われた。

彼は、 基地に帰ると、 隊員らへ、

部隊は、陛下の物だ、と説得し、

「 詔勅が出た以上、 私に、

部隊の指揮を取る資格は、ない。

納得できなければ、 私を斬ってから、

出撃せよ 」 、と、言って、おさめた。 :


その後で、 美濃部氏は、

「 日本もまた、 いつか、

復興する事もあるかもしれない。

その時はまた、 ここで会おう 」、

と、訓示し、 隊員たちへ、

部隊の飛行機を用いて、

復員する事を許可した。


この、飛行機による復員行為の件で、

美濃部氏は、後に、

国際法への違反の嫌疑を掛けられたが、

「 全ての武装を撤去した上での、

復員であった 」 、 と、釈明し、

不問となっている。


@ 戦闘力を民間に残し、

アメリカ人らが、無茶をやり出したら、

少しでも、反撃し得る物と、

技術知識的な手掛かりらを、

日本人側に保持させたかった、

無意識的な思い、

などもあったのではないかな。

:

・・戦後は、しばらく、

農業に従事していたが、 1953年に、

航空自衛隊に入り、

1969年の4月1日に、

航空自衛隊の、幹部候補生学校長になり、

幹候校への襲撃を企てた、

新左翼の過激派学生団と対峙したが、

幹候校にいる、警務隊員や、

基地警備隊が、飼っていた警備犬と、

放水銃の展示による威嚇のみで、退散させ、 事件の発生を未然に抑止している。

1997年に、 病没 :

@ 美濃部氏は、 特攻について、

「 戦後、よく、

特攻戦法を批判する人がいるが、 それは、

戦いの勝ち負けを度外視した、

戦後の、 迎合的統率理念にすぎない。

当時の軍籍に身を置いた者にとって、

負けてよい戦法は、論外だ。

不可能を可能とすべき、 代案なき限り、

特攻も又、やむをえない、

と、 今でも思う。

戦いの厳しさは、

ヒューマニズムで、 批判できる程、

生易しい物ではない 」 、

と、語っている。

:

☆ ベトナム 、は、 地下に、 連絡網ら、

なり、 避難網ら、なり、を、張り巡らせもし、

日本軍の将兵らから、 訓練や、

戦での、 能範 ノウハン ≒ ノウハウ 、 なり、 体系知ら、なり、 を得、

武器らを得た事もあって、

フランスから、 独立を勝ち取りもし、

アメリカ軍を撃退し得もした。


日本は、 大陸へ投与した、資本性らを、

日本列島の地下に、

避難網らを作り拡げ続けてゆく事へ宛てて、

日本列島での、 あり得る、

戦いようらを、 より、 有利に成し得る、

可能的な、 度合いら、を、 成し、

増してゆき、

できる限り、 自らの側を防衛する為の、

戦力の主 ヌシ 、な、 日本人な将兵らを、

外地らで、 損耗せずに、

自らの地下の要塞らへ、

その家族員らと共に、 いつでも、

こもって、 侵略員らへの撃退に、

より、 はげみ得るようにし、

原爆、 などの、 核爆発な、 攻撃らへ対しても、

原爆 、 などによる、 核爆発、 も、

地面を、 直撃しても、

その、 数 メートル 、な範囲を、

数 メートル 、 の深さで、 えぐる、

程の物でしかないので、

自らの地下の避難網らの、 耐震性、

などを、 成し、増してゆくようにし、

細菌らによる感染性の攻撃らや、

放射線らによる攻撃らへ対しては、

より、 遮蔽性、 などを、

何重にも、 成し、 増してゆくように、

すべきであったし、

これからも、

日本人たちの独立自尊性を成し、増し、

津波に、 洪水や、 火山による物ら、などの、

自然にもよる、 色々な、攻撃らに対しては、

日本人たちは、 日本列島の地下に、

避難網らを作り拡げてゆくべくある。


地上をおおう、 災害らへ対して、

地上に避難網らを成す事は、

自ら、 日本人たちをして、

災難へあわせる度合いらを余計に成す事だ。

・・252空に属した、

若年の搭乗員の回想には、

岩本氏は、 「 優しい人柄で、

決して、乱暴はせず、 むしろ、 それ程、

エライ方といった印象は、受けなかった 」 、と記述している。 :

十月に、 台湾沖航空戦をし、

フィリピン沖海戦に参加した。

1944年、な、 昭和19年の、9月に、

千葉県の茂原基地で、

252 空戦闘 第 302 飛行隊 、 の、

角田少尉が謹慎していた時に、

252空 から、 岩本氏と斎藤三郎氏が、

203 空 から、 西沢広義氏に、

長田延義氏や、尾関行治氏が訪れた。

角田氏によれば、 西沢氏は、岩本氏に並ぶ、 海軍のエースで、 彼らの話は、 やがて、

『 ラバウル 』 、 での航空戦になり、

皆は、 彼らの話に聞き入った 」、 として、 次の話を紹介している。


岩本氏は、 「 敵が来る時は、

退いて、 敵の引き際に落とす。

つまり、 上空で待機していて、

離脱して帰ろうとする奴を、 一撃必墜する。 すでに、 里心のついた敵は、

反撃の意思がないから、 楽に落とせる。

1回の空戦で、5機まで落とした事がある 」 。

西沢氏は、 「 岩本さん、そりゃずるいよ。 私らが、一生懸命、ぐるぐる回りながら、

やっているのを見物してるなんて ≒

岩本氏は、 1943年の、 11月に、

ラバウル 、 に着任し、 西沢氏は、

43年の十月に、内地へ帰還しているので、 実際に、 ラバウルで、 そういう場面があった訳ではない ) 。

途中で帰る奴なんか、被弾したか、

臆病風に吹かれた奴でしょう。

それでは、( 他機との )、

協同撃墜じゃないですか 」 、 と言った。


「 でも、俺が落とさなくちゃ、

奴ら、 基地まで帰るだろ?。

しかし、 いつも、 こうしてばかりも、

いられない。 敵が多すぎて、

勝ち目の無い時は、 目を瞑 ツム って、

真正面から、機銃を撃ちっぱなしにして、

操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで、

離脱する時もあるよ 」 、 と言った、

という。 :

この夜から、一ヶ月も経たない内に、

西沢氏は、 輸送機に便乗して移動している、

最中に、 ミンドロ島のそばで、 殺され、

尾関氏は、 ルソン島の上空で、 戦死し、

斎藤氏は、負傷し、 長田氏は、翌年に、

沖縄の沖で、 戦死した。


岩本氏は、「 我々には、 伊達に、

特務の2字がついているんじゃない。

日露戦争の、 杉野兵曹長の昔から、

兵学校出の士官にも、できない、

下士官にも、できない事をするのが、

我々、特准だ。 がんばろうぜ❗ 」 。


この時に、謹慎中の角田を励ました。

岩本氏に指導を受けた後輩の印象では、

「 西沢広義飛曹長は、 長身で、

目つきが鋭くて、眉も太い、

精悍な顔つきから、 成る程、 あれが、

撃墜数、 百50機の、撃墜王だと感じた。

小柄で、優しい風貌の岩本少尉には、

どこに、その様な力があるのか、と感じた 」、と、述懐している。


岩本氏は、 1943年12月4日に、

ラバウルで、 邀撃後に、

多くの日本軍戦闘機らを撃墜した、

アメリカ軍機らの、

基地への帰還の時を狙って、

待ち伏せ攻撃で、 彼らを撃墜する、

「 送り狼 」 、と、呼ばれる、

戦法を成し行った。


この様に、攻撃を終えて帰還する、

最中の敵を攻撃する、

「 敵からの攻撃の直接的な阻止 」 、 を、

目的な事としない、

「 送り狼 」 戦法について、

「 我々の今やっている戦法は、

長い間の実戦の経験から体得された物で、

今来たばかりの部隊には、到底、

理解できない所がある 」、

と、 彼は、 述べている。

1943年の、 12月15日には、

感状を受与されている。