記号勝ちな記述訴呈像の、パース氏。 数千人以上の日本国民たちを監禁している、シナ
【 観念に、無いものとして、 観念の宛 アテ ・
対象にされる形で、 観念らに、 在るものらからも、 観念らは、 成り立ってあり、
触れ触り感らや、 圧し応え感ら等の、 記憶化されてあるものらが、 より、 生々しい感らとして、
喚起されて、 それらを観る主に、現前させられ得る度合いの、 より、 高いものらは、
実際には、 観念に、 在り続けてあるものらである
にも関わらず、
観念らの成り立ってある場には、 無い、
実在のものらである、 と、 より、 観念され易い、
在り得る度合いをも、 持ち合わせている。
観念らの成り立ってある場に、 無く、
実在のものらとして、 在る、 と、 観念されてある宛のものらは、
能 ヨ く、 思い分けて観てゆくと、
それを観念している主らの各々の、 色々な感らと、 それらの記憶化されたものらからも成っていたり、 それらの宛として、 規定され、 格付けて観られ、 それらを喚起し得る、 要因として働き得る存在として、 観られもしている、 度合を、 それだけ、
より、 余計に、 持ち合わせられていて、
時系列の観念や、 因果律の観念らなどの、 様々な観念らの絡み合いのもとで、 それらを構成する、
ものや、事らの、 宛として在るものとして機能する様に、 観念らの成り合ってある、 我々の各々の精神系において、 設定されてあるが、
特に、 因果律の観念の成り立つ働きによって、
何事かでもある、 何ものか、 が、 成り立って、
観えてあったり、 感じられてもあったりする場達において、 因の働きを成してあるものとして、
より、 我々の各々の直感性の宛として在る度合いを成してあるものらが、
より、 実在性の度合いを成してある、 ものそのものらとして、 観念され易い、 在り得る度合いを、
様々に観念してある主らによって、 与えられ、
帯びさせられてある。
それらは、 大カントの説く、 ものそのもの、
とは、 全く、 異なる、 我々の各々の精神系を構成する、 可能態や、 現前態の、 物事らでしかないが、
我々の各々の精神系を構成し、 そこで、 起こり廃りをする、 可能態や、 現前態の、 物事らは、
因果律の観念の成り立ちようら等において、
我々の各々の精神系の、 範囲には、 無い、 立場において、
それらを喚起する度合を成す、 働きらを成したり、
成し得たりする、 それらの宛のものらとして、
観られるものらと、
そうではない、 我々の各々の精神系にあるものらとに、 思い分けて観られる事を通して、
因果の関係性らなどを構成する観念らにおいて、
原因として、 在り働くものらと、 結果として、
在り得てあるものら、などに、 分けて観られもする事において、
実際には、 観念らのいずれかを成してあるものらで在りながらも、
観念らのどれでも、 無い、 立場のものらとして、
観られもする度合いを、 成し、 増されもして、
その一定数以上のものらが、 ものそのものめいたものらとして、 より、 そうした、 からくり事らへの思い分かちようらを欠いた、 精神系において、
思い構えて観られる事になる。
自らの思い構えて観る宛の物事らの中には、 自らの、 関与できない、 左右し得ないものらがある事などは、
そうしたものらの中に、 ものそのものが、
そのままに、 在る事を、意味しない、だけでなく、
観念らをも、 自らの宛として、 成り立つ観念らの、 際限を無しに、 関わり合ってある、 からくり事らが、 我々の各々の枠組みを越えて、 在り、
働き合ってあり、
それらを離れて、 独我性とか、 実在性とかが、
設定される事が、 無い、 といった事らが、 ある事を意味し得るものであり、
ものそのもの等の属性らが、 思い構えて観られる事そのものにおいても、 その宛の、 ものそのもの、めいたものが、 単に、 観念の設定上の存在としての度合いを与えられるだけであり、
そこで、 新たに、 観念の設定上の、 ものそのものめいたものらと、 観念らのどれでも、 無い、 と、
される、 より、 ものそのものめいたものら、
とが、 能 ヨ く、 区別され得る、 機会が、
それを成す主らへ、 与えられ、
より、 ものそのもの、めいたものらもまた、
観念されてあるものとして、 そこで、 在るものらにされるしかないものらである事が、 それを成す主らに、 改めて、 確認され得る機会が、与えられる、
といった事らなどを、 思い構えて観るに至らしめ得たりする、 手掛かりになる事らだ。
下に述べられてある、 パース氏の、 ものそのもの、 めいたものを、 宛とした、 観念のものは、
単に、 パース氏に観念されたものであり、
パース氏が、 観念らのどれでも、 無い、 設定ら、なり、 からくり事ら、なりとする、 類のものらも、
能く、 思い分けて観てゆく事においては、 観念らを成す、からくり事らであったり、 観念らの成し合う、設定らであったりするが、
観念らを成す、 からくり事らそのものも、
観念らの何彼らに成る形で、 我々の各々に現前して観られる他に、 我々の各々に現前する方法の無いものらである、 といった事への、 思い分かりようの度合を、 一定以上に、 欠いてある、 在り得ようを映し出して観せる様な、 パース氏、についての記述のありようらが、 下にはある。
実際の、 パース氏は、 どの時期に、 どうであったかは、ともかくとして、 少なくとも、 下の記述事らにおいては、 そうだ。
何事かや、何物かを、 観念の場には、 無い、
とすると、 それらを、 我々の各々が、 観たり、
感じたりして、 知る事そのものが、 それ自らの成り立ちを得られない事にもなる、 という事を、
思い分かち得ていない度合が、 一定以上にあると、
何らか形で、 我々の各々が、 知り得る物事らのすべては、 我々の各々の自らの、 観念性と、
我々の各々の枠組みを越えてある、 観念性と共に、 我々の各々に知られるものらである、 という事への、 思い分かちようの度合いも、 一定以上に、 欠けてある事になるし、
より能く、 物事らの在り得ようらを思い分けて観てゆく作業を妨げるものらの中にも、 観念らがあり、
そうした、観念性らがある、 といった事への、
思い分かちようの度合いも、 一定以上に、 欠けてある事になる。
例えば、 ある、完全な球面の、 ある一つの位置が、 ある平面の、 ある一つの位置であり、
それらな、球面と平面とは、 一つの位置において、
重なっているが、 その位置の面積は、 無い、
といった、 記述がある場合に、
その位置の事を、 点、 を、 宛にした観念で、
思い捉えてしまい、
点、 であるからには、 一定の面積を成してある筈だ、 等とする、 その観念の規定性に妨げられて、
どうしても、 その一致し合っている、一つの位置には、 面積が、 欠けてある事へ対して、
納得しない思いを抱き続ける人々も、 一定数は、
存在する。
その人々の一定数においても、
位置と、 点とを、 区別する形で、 観念らを成す様に促してゆく事を通して、
自らの占める面積を欠いた存在としてある、 位置、と、 それに準 ナゾラ えて述べられもする、
数学における、 点、 とについて、 蟠 ワダカマ りを解いた体 テイ を成す事は、 あるが、
観念らの各々の規定性らは、 より能く、 物事らの在り得ようらを思い分けて観てゆく事の途上で、
それを妨げる働きも成す。
いずれにせよ、 日本国民らの一般の側に立てる方の、 日本国民たちは、
より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、 避難経路らと、住める避難所らとを、 作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事において、
英米の金融勢力員らの側につく、 実態らを積み重ねて観せて来てある、
日本の、 財務省の役人らと、 与野党の主な政治家らや、 報道機関らの情報媒汰らによって、
日本国民らへ、 押し付け続けられて来てある、
デフレ不況性 、を、解消し去ってゆくべきだ 】。
ネット記事+論弁群+;
☆ 三省堂 大辞林 ;
き ごう -がう [0] 【 記号 】 ;
① 一定の、 事象や内容を、 代理・代行して、 指し示す、 はたらきをもつ、
知覚の可能な対象。
狭くは、 種々の符号・しるし・標識などを指すが,
広くは、 言語や文字,さらには、雨を知らせる、黒雲や、 職業を示す制服なども含まれる。
事象との結びつきが、 雨と黒雲のように、
事実的・因果的なものを、 自然的記号,
職業と制服のように、 規約的なものを、
人為的記号 、 と、 呼ぶ。
また, 事象との結びつきが、 一義的・直接的なものを、 サイン、 または、 シグナル,
多義的・間接的であるものを、 シンボルとする、
分類もある。
交通信号や、道路標識は、 前者の,
言語や儀礼は、 後者の代表である。
② 特定の学問分野で、 対象・概念・操作などを表示するために用いられる、 符号。
「 論理- 」 、 「 化学- 」 。
③ 〘言〙 ; ソシュール言語学において,
能記 ( 記号表現 ) ,と、
所記 ( 記号の内容 ) との、 両面をもった、
言語研究の単位。
両者の結びつきは、 恣意的とされる。
☆ 記号( きごう、 英語: Sign ) 、とは、
情報事らの伝達や、 思考・感情・芸術などの、
精神行為の働きを助ける、 媒体のことである。
狭義には、 文字や、マーク、絵などの、
意味を付された、 図形を指すが、
広義には、 表現物、ファッションや様々な行為 ( および、 その結果の事象 、 など ) までをも、 含む。
☆ 記号それ自体は、 紙の上のインクや、
造形された物体、 空気の振動などでしかないが、
ヒトが、 これらを、 何らかの意味と結び付けることにより、 記号として、 成立する。
記号は、 他の記号と共に、 まとまった集合体となったり、 あるいは、 相互に、作用し合ったりして、 何かを指し示す。
19世紀の後半から、 20世紀にかけて、
人類員らは、
科学や、 技術、政治・経済、思想などの面で、
大きな飛躍を遂げたが、 その中で、 記号の使用は、 重要な役割を果たした。
とりわけ、 自然科学においては、 自然現象らを記号化し、 操作できるようにすることが、
新たな認識を深めることに、 つながった。
これにより、 あらゆる認識は、 記号によってのみ、 実現する、 とまで、言われた。
今日に通じる記号論らも、 同じ時期に、 研究らが始まった。
記号論らは、 言語学らの中から、 出てきたものであるが、
単に、 言語における、 記号の働きらを研究しただけでなく、
記号 ( なお、 記号論や記号学でいう、
「記号」は、 sign でも、 symbol でもなく、
semiosis 、 である ) が、
人類にもたらす諸作用をも、研究対象としていき、
哲学における、 大きな柱の一つとなった。
アニメや漫画などの評論では、 登場人物の象徴的なものを、 記号、 と、 呼ぶことがある。
また、作品が違っても、 キャラクターデザインが、 似たり寄ったりになる状況を、
「 記号化が進んだ 」 、 と、 言うことがある。
☆ 記号学( きごうがく、英: semiology )、
あるいは、
記号論 ( きごうろん、 英: semiotics )、は、 言語を始めとして、
何らかの事象を、 別の事象で、 代替して表現する手段について、 研究する学問である。
記号学でいう、 「 記号 」 、 は、
semiosis ( en: Semiosis ) 、 で、
専門用語などで、 「 記号 」、 と、 訳されることが多い、 いわゆる、 シンボル等より、 広い。
◇ ソシュール氏は、 記号学 ( semiology )、
と、 呼び、
パース氏は、 記号論 ( semiotics ) 、
と、 呼んだ。
それぞれの流れにあるものを区別したい場合などに、 使い分ける場合も、 多いが、
総論的な文脈では、 どちらかに片寄せする場合も、 多い。
ソシュール氏が、 言語学者でもあったために、
言語学とのつながりが強調されている場合が、
多く、 見受けられるが、
現在の言語学は、 チョムスキー氏以降の、
いわゆる、 現代的な言語学に依る所が大きく、
記号学、 ないし、 記号論の議論には、 違和感がある場合も、 多い。
◇ パース氏は、 記号は、 物理的指示作用と、 図像的表示能力をもつ、 とし、
さらに、 この二つの作用らの総合として、
象徴作用 、 という、 第三の意味作用が生じる、
と、 考える。
パース氏は、 記号の、 このような三つの意味らの差異を、
< インデックス > 、 < アイコン > 、
< シンボル > 、 と、 呼び分ける。
記号とは、 常に、 低次の意味作用から、
高次のものへと発展する、
記号は、 時間の中にある、 と、 考える。
☆ チャールズ・サンダース・パース
( 英: Charles Sanders Peirce 氏、
1839年9月10日 - 1914年4月19日 、は、
アメリカ合衆国の哲学者、論理学者、数学者、
科学者であり、 プラグマティズムの創始者として、 知られる。
マサチューセッツ州は、 ケンブリッジの生まれ。
パース氏は、 化学者としての教育を受け、
米国沿岸測量局に、 約三十年間を、 科学者として、 雇われていた。
パース氏は、 論理学を、 記号論
( semiotics )、 の一分野とみなした。
1886年に、 彼は、 論理演算が、 電気的に
( 電気回路によって ) 実行されうると考えたが、 これは、 こんにちの、コンピュータに代表される、 ディジタル回路と呼ばれる、 電子回路の応用そのものと言える、 発想であり、
半世紀後の、 日本の中嶋章氏や、
米国のクロード・シャノン氏による研究らを、 予めていたもの、と、 見ることができる。
清教徒の移民であった、 ジョン・パース氏の子孫であり、 当時は、 アメリカで最大の数学者、 と、見なされた、 ハーバード大学の数学教授の、
ベンジャミン・パース氏の次男として生まれる。
早くから、 父に、 才能を見いだされ、
特別の教育を受ける。
なぞなぞ、と、 トランプの手品に、 チェスや、
暗号を好み、 坂本龍馬氏らが、 連携して、
明治維新への流れらを強め合っていた頃の、
1862年に、 バチェラー・オブ・アーツ、
1863年には、 マスター・オブ・アーツの学位を、
ハーバード大学から、 それぞれを、 抜群の成績で授与され、 明治元年の翌年の、 1869年〜70年度には、 エマスン、キャボット、フィスク氏などの、
年長者らとならんで、 ハーバード大学の哲学講演に参加した。
1859年に、 アメリカ沿岸測量局に就職したのを皮切りに、 1891年まで、 断続的に、 測量の仕事を続けた。 1869年から1875年まで、ハーバード大学の天文台の助手として、 測光に従事した。
光の波長を、 測量の規準単位として用いるやり方は、 パース氏が始めたものである。
1875年に、 アメリカの最初の代表として、
国際測地学協会に出席し、 振り子による実験が、
精密ではないことを指摘し、 各国の学者らに注目されている。
明治元年の前年の、 1867年の、 アメリカ芸術科学アカデミーで、
パース氏は、 すでに、 1847年に、 ブール氏が発表していた、 『 論理の数学的分析 』 の重要性を指摘し、 その体系に改良を加えた。
1888年に、 グロバー・クリーブランド大統領は、 彼を、 分析委員会 ( Assay Commission ) のメンバーに任命した。
1890年以降は、 シカゴの、 Francis C. Russell判事が、 パース氏の友、 かつ、 崇拝者となり、
Russell 氏は、 パース氏を、 Paul Carus 氏と、
Edward Hegeler 氏に紹介した。
彼らは、 それぞれ、 アメリカの草分け的な哲学雑誌の、 「 モニスト 」 ( The Monist ) の編集長と、 オーナーであり、
この雑誌は、 最終的に、 パース氏が執筆した、
14本の論文を公表した。
1860年には、 無限数の基数演算を提案した。
これは、 ゲオルク・カントール氏の超限数の研究の前であり
( カントール氏が、 博士論文を完成させたのは、 明治元年の前年の、 1867年 )、
ベルナルト・ボルツァーノ氏の『無限の逆説』
( Paradoxien des Unendlichen; 1851 ) への握接 アクセツ ≒ アクセス 、 がない状態で、
書かれている。
1880-1881年には、 否定論理和の、 functional completeness ( en:Functional completeness ) を示した。
1881年の、 「数の論理について」で、 パース氏は、 自然数算術の公理化を提示した。
これは、 デデキント氏とペアノ氏による公理化の、 数年前である。
この同じ論文において、 彼は、 デデキント氏よりも前に、 今日で言う、 デデキント有限性に相当する、 有限集合の定義を初めて与えている。
これは、 「 その真部分集合との間に、 単射対応が在る集合 」 、 という、 無限集合の重要な形式的定義 ( デデキント無限 ) を含意している。
1885年の、 「論理代数について」で、
彼は、 一階の量化と二階の量化を区別した。
1890年代の後半までには、 述語論理の図表的記法である、 存在グラフを開発していた。
大カントの、 『 純粋理性批判 』 を、 毎日に、
二時間ずつを、 三年以上も読んだ結果において、
ほとんどを完全に暗記した。
パース氏の偶然主義 ( tychism ) については、
「 モニスト形而上学シリーズ 」の第二論文の、
「 必然性の教説再考 」 に、 詳しい。
そこで、 彼は、 「 必然主義 」
( necessitarianism ) の立場を、 次のように定義している :
[ 必然主義の命題は ] 、
ある時点において、 存在する、 物事の状態と、
一定の不変な法則とを合わせれば、
他の、 あらゆる時点における、 物事の状態が、
完全に決定される、 という、 命題である
( というのも、 未来の時点だけに限定するのは、 擁護が、 不可能だから )。
偶然主義は、 必然主義の否定である。
つまり、 自然法則の支配は、 絶対的ではなく、
規則性からの、 何らかの逸脱が常に存在する、
という、 立場である。
その論拠として、 パース氏は、 以下の五点を挙げている :
機械的必然性は、 自然において観察される、
物事の成長や複雑性の増大を説明できない。
法則からの無限小の逸脱を仮定する事によって、
宇宙の多様性を説明できる。
必然主義者は、 規則性が存在する、 という、
一般的な事実を説明できないが、
偶然主義者は、 規則性そのものを、 純粋偶然に起源を持ち、 徐々に進化してきたものとして、説明できる。
必然主義者は、 自然法則が存在する、 という事実を、 それ以上に説明できない、 絶対的な所与として扱うが、これは、探究の道を塞ぐ仮説である。
必然主義は、 意識を一種の幻想にしてしまう。
純粋偶然の仮説から演繹される帰結の事柄が、
観察されている事実と合致する
( この点に関する、 詳しい説明は、
「 必然性の教説再考 」 には、 ない )。
「 連続主義 」 ( synechism ) 、 は、
パース氏が、 ギリシア語の、 συνεχής
( シュネケース: 「 連続的 ) から案出した造語である。
彼自身の説明によれば、 連続主義は、 何らかの、
絶対的な形而上学的教説というよりは、
我々が、 いかなる仮説を編み出し、検討すべきかを規定する、論理学の規範原理である。
平たく言えば、 連続主義は、 あらゆる物事に連続性を見出していこう、 という、 考え方である。
ここで、 「 連続性 」、 という、 概念を、
どう理解するかが、 問題であるが、
パース氏自身が、 生涯を通して、 数学における連続性の概念について、 思索を深めていった経緯があり、 一つの固定的な捉え方があるわけではない。
「 真の連続体 」 ( true continuum ) 、 は、 いくら、 無限に、 要素があろうと、
単なる集合に還元することは、 できない、
という。
ゲオルク・カントール氏は、 1874年の論文で、
連続体を、 実数全体の集合、と、 同一視したが、パース氏は、 これを、 「 疑似連続体 」
( pseudo-continuum ) 、 と、 呼んで、 斥けている。 彼によれば、 真の連続体は、
集合の濃度によって、 決まるのではなく、
要素同士の繋がり方によって、 決まる。
連続的な線に、 点を書いたとする。
次に、 その点の箇所で、 線を切断し、
左側の領域の、 L 、 と、 右側の領域の、 R 、
を作る。
そうすると、 元の点は、 二つの点になる。
一つは、 Lの右端に、 もう一つは、 Rの左端にできる。 ここで、 再び、 二つの端をくっつけると、 二つの点は、 また、 一つに戻る。
この思考実験が示しているのは、
二つの要素な、 AとBは、 同一でありながら、
潜在的に、 異なることが可能だ、 という事で
もし、 外部から、 不連続性が課されると、
AとBとの違いが、 顕わになるような、
順序性が存在している、 と、 言える。
しかし、 不連続性が導入される以前は、
AとBとは、 異なる, とは言えない。
これが、 パース氏にとって、 真の連続体の、
最も重要な特徴である。 すなわち、 それは、
個体的要素の集まりではなく、
個体を書き込むことのできる存在者なのである。
≒ 何彼らとして、 個別に観念する事もできるし、 一様な、 ひとまとまりなものとしても、
多様なものとしても、 観念できる、 主らがある、 という事でしかないが、 そうした事などに対しても、
西の一神教徒らの文化圏らにある主らの、 多数派員でもある、 一定数の人々は、 全知全能な神による、 設定のありようらや、在り得ようらなどを、
解き明かすべき筋合いな事として、 特別な意味らを観出 ミイダ すべく、 競争し合っても来てある、
精神的な態勢を成して観せて来てある 。
・・連続体の要素らの各々の間で、 関係が成り立つのでは、 決してなく、
連続体そのものが、 関係の構造だ、 という訳だ。
個体性は、 あくまで、 外部的な確定の結果として、 生まれるのであって、
切断前において、 AとBとが、 同一であるか、
異なるか、 という、 問いは、 厳密には、
意味を成さない。
「 他性 ( otherness ) 、 や、 同一性
( identity ) への、 適切な定義は、
個体の世界を前提とする。
個体から構成されていないような世界、
すなわち、 あらゆる部分が、 同種の部分から成るような世界においては、
個体が認められる限りにおいてのみ、
他性や、 同一性は、 成り立つ。
ここで重要な事は、 パース氏が、 「一般概念」を、 真の連続体、と、 同一視して観せてある事だ。
「 関係項の論理学に照らせば、
一般者 ( general ≒ 将軍、 総合 ) は、
正確に、 連続体であることが、 分かる。
したがって、 連続性の実在性を主張する教説は、
スコラ哲学者たちが、
実念論 ( realism ) 、 と、 呼んだ教説と、
同じである。
真の連続体が、 可能な要素の空間であるのと同様に、 一般概念は、 可能な具体的事例の空間を指定する。
さて、 連続体の一つの性質に、
どの、 二つの要素らを取っても、
その間の要素らが、 必ず、 存在する、 という、
性質がある
( これを、 「 稠密性 」 、 と、 呼ぶ )。
一般概念の場合も、 同様に、
どの二つの、 具体的事例らを取っても、
その間の性質を持つような事例を、 考えることができる。
例えば、 「 猫 」 、 という概念の場合、
「 黒い猫 」と、「茶色の猫」の間の性質を持つ、
「 茶黒 サグロ い猫 」 を考えることができる。
重要な事は、 どれだけ多くの個体らを集めても、
決して、 一般概念を尽くすことは、 できない、
という事である。
真の連続体が、 点の集合に還元できないのと、
同様に、 一般概念も、 その個々の体現事例に、
還元することは、 できない ( 実念論 ) 。
もちろん、 二つの具体的事例らの中間の性質を持つような事例が、 現実に存在するとは限らない。
例えば、 「猫」と「犬」は、 一見した所では、 全く、 かけ離れている。
しかし、 それらが、 互いに, 完全に切り離された概念らの各々だ、と、 考えると、
我々の知識は、 そこで、 止まってしまう。
「猫」と「犬」との間には、 確かに、 不連続性があるが、 その不連続性は、 絶対的ではなく、
より高次の連続性に対して、 相対的である、 と、
考えるべきである。
かくして、 その二つの概念らを包括する、
より高次の類概念として、 「哺乳類」、 という、
概念が編み出され、
我々の、 切り離された知識らも、統合される。
これが、 連続主義の持つ、 規範性だ。
つまり、 連続主義は、 一見して、 全く、 性質の異なる、 二つのものらがあったとしても、
それらが、 互いに、 切断されている、 と、 考えるのではなく、 何らかの隠れた関係が存在する、
という事を、 前提な事として、 探究せよ、
と、 命じる、 発見法的仮説である。
パース氏が挙げる例に, 睡眠と覚醒というのがある。
我々は、 普通は、 起きている状態と寝ている状態は、 全く、 異なる状態だと考えがちであるが、
実際は、 我々が寝ているときも、
我々が思っているほど、 寝ているわけではなく、
また、 我々が起きているときも、
我々が思っているほど、起きているわけではない、 と、 彼は言う。
「我」と「汝」の違いについても、 同様である。
連続主義者は、 「 私は、 完全に私であり、
あなたではない 」 、 と、 言ってはいけない。
また、 生と死も、 連続的であり、 あくまで、
程度の差だ、と、 彼は、 述べている。
これらな例らからも、 分かるように、
連続主義は、 あらゆるものらの、 本質的同一性を説く、 考え方であるが、
これは、 先に述べた、 真の連続体の特徴とも、
関わっている。
不連続性が課される以前は、
個々の要素らの同一性について云々することが、
不可能であったのと同様に、
一般概念においても、 個々の具体的事例は、
現実化以前は、 全体の構造の中で、 いわば、
「 融け合って 」 いる。
また、 科学的探究とは、 個々の具体的な事物や出来事を理解する事を可能にしていく過程であるが、
何かを理解するとは、 それを、 一般概念の特殊なケースにすることであるから、
科学とは、 個々の具体的事例を、 一般概念に包摂していくプロセス、 と、 捉え得る。
そして、 一般概念 = 連続体 、 だとすれば、
科学的探究とは、
個々の具体的事例を連続体に包摂していくプロセスということになる。
これが、 パース氏にとっての、 「 最高善 」
( summum bonum ) である。
宇宙進化の究極の目標は、 あらゆるものらが、
一つの完全な連続体として結晶化することである。
我々なる人らは、 その宇宙進化の、 極小な一部を担っている、と、 彼は、 考えていた。
パース氏の、 「 客観的観念論 」
( objective idealism ) の立場だ。
客観的観念論によれば、
「 物質は、 退化した精神であり、
物理法則は、 凝り固まった習慣である 」。
観念の作用を司る法則が、 宇宙の最も根本的な法則であり、 物理法則は、 あくまで、 その特殊な現れに過ぎない。
◇ カテゴリー ≒ 範疇 ハンチュウ 、
というのは、 普遍概念 、 つまり 、
どのような思考においても、 働いている、 概念のことである。
( 一般概念も、 「 普遍概念 」 、 と、
呼ばれることがあるが、 ここでは、 区別する。
この定義に従えば、 例えば、 「 ヒト 」、 は、 一般概念であるが、 普遍概念ではない )。
彼の、 「 新しいカテゴリー表 」 の目的は、
このような、 普遍概念を見つけ、 それによって、
ヒトの思考の構造を、 最も根本的な列辺 レベ
≒ レベル 、で、 明らかにすることである。
パース氏が採る方法は、
実験心理学のデータらから、
カテゴリーの候補となる、 概念を探し出し、
それが、 実際に、 カテゴリーであるかかどうかを、 彼が、 prescision 、 と呼ぶ、 条件を満たすかどうかによって、 検証していく、
というものである。
その結果、次の五つのカテゴリーらが得られる。
存在。 質。 関係。 表象。 実体。
「 新しいカテゴリー表 」 の時点では、
中央の三つは、 「 偶有 」 ( accidents ) 、 と、 呼ばれているが、
後に、 この三つだけが、 「 カテゴリー 」 、
と、 呼ばれ、
上から順に、 「 第一性 」 ( Firstness ) 、
「 第二性 」 ( Secondness ) 、
「 第三性 」 ( Thirdness ) 、 となる。
論文の後半では、 カテゴリーの応用として、
記号には、 「 類似体 」 ( Likenesses ) 、
「 指標 」 ( Indices ) 、
「 シンボル 」 ( Symbols ) の、
三種類があることが、 示される。
パース氏は、 1868年に、 Journal of Speculative Philosophy に掲載された論文の、
「 人間に備わっているとされる、 いくつかの能力らに関する疑問 」 において、 当時に、 様々な形で、 広く普及していた、 デカルト哲学を批判している。
パース氏のデカルト主義への批判の要は、
後者が、 「 直観 」 ( intuition ) に訴える、
という点である。
直観というのは、 直前の認識によって決定されないような認識、 言い換えれば、
「 前提なき結論 」 である。
ここで、 パース氏の議論において、 重要な事は、
絶対的に、 不可知なものの概念は、
自己矛盾を成して在る、 という点である。
どのような、 特定の思考についても、
それから、 独立のものを考えることできる。
というのも、 そうでなければ、 認知的誤謬の可能性がないことになってしまうからである。
しかし、 思考一般から独立のものを考えることは、 できない。
なぜなら、 あるものを、「 思考一般から独立 」
なものとして、 思考することは、
やはり、 それを思考することであるからである。
ゆえに、 「 絶対的に、不可知なもの 」 の概念も、 思考可能であるが、
そうするとこれは、 「 A、 非A 」、 という形式の概念になってしまい、 矛盾概念である。
ここから、 パース氏は、
「 最も広い意味における ) 、 認識可能性
( cognizability ) 、 と、 存在 ( being )、
は、 形而上学的に同じであるばかりでなく、
同義的な用語である 」 、 という, 結論を引き出している。
したがって、 大カントの物自体のような概念は、
斥けられなければならない。
≒ 限り無く、 すべてを知る事ができる、
と、 仮定するにしても、 それは、 観念性と共に、
成されるしかない事であり、
それを抜きにしては、 成され得ない、 という事を含む、 意味合いにおいても、 大カントは、
ものそのものの事を述べ得ている、 のであって、
パース氏らの様に、
『 私は、 観念らであるものらと、 観念らでないものらとを、 それらの成り立ち合う、 形式らの違いによっても、 区別し得て、 知っており、
実在性なり、 存在性なりについては、 能く、
心得ている 』 、 といった、積もりを成して、
その積もりの事らを述べて観せる事においても、
その事らが、 観念らの、 どれでもないもの、
として、 規定されて、 その主に観られてあるだけの、 観念の設定存在の域を出ないものらであり、
より多くの人々などにおいて、 共通に、 観念らのどれでもないものとして、格付けて観られてある度合いが、 どれほどあろうとも、 観念の設定存在でしかない、 といった事への、 思い分かりようの度合を、 パース氏も、 一定以上に、 欠いていた、
時期を過ごし得ていたのであろう事を示す、 記述のありようではある 。
・・さて、 直観というのは、 直前の認識によって決定されないような認識であった。
しかし、 ある認識を説明できるのは、
それに先行する認識を提示する事によってである。
ゆえに、 直前の認識によって決定されないような認識は、 絶対的に、 説明が、 不可能、 ということになる。
しかし、 上で見たように、 絶対的に、不可知なものの概念は、 自己矛盾である。
ゆえに、 直観の能力の存在を仮定することは、
矛盾し合う規定性らから成る、概念を含意する。
したがって、 そのような能力は、存在しない、
と、 考えるべきである。
同じく、 1868年に、 Journal of Speculative Philosophy に掲載された、
「 四能力の否定の諸帰結 」 の冒頭において、
パース氏は、 自分が、
「 人間に備わっているとされる、 いくつかの能力に関する疑問 」 において行った、 デカルト主義への批判を、 次の四点に、まとめている:
我々には、 内観の能力はなく、 内的世界に関する我々の知識は、 すべて、 外的事実に関する、
我々の知識からの仮説的推論に由来する。
≒ というが、
外的事実らを構成して観てもある、
精神系において、 外的事実らなどとしてあるものらは、 正しく、 観念されて、 観られて、 在る、
ものら、 でもあり、
それらが、 外的事実などであって、 観念らでは、 ない、 もの、 と、 区別されても、 それは、 そうした区別を押し付けられて観られてもある、
というだけであって、
その精神系において、 観られてある、 外的事実らなるものら等は、 それらの成り立ちようらを喚起する、 その精神系にはない、 ものら、と、 喚起性の関係性を成して、 相対し得てある度合をも成して、 成り、 現れるに至る、 観念の設定する存在、
そのものであり、
その精神系には、 無い、 ものら、と、 喚起性の関係性を成す事において、 それらを宛として、
それ自らの成り立ちようらを得る、 観念な物事ら、ではある、 にしても、
その宛の、 その精神系には、 無い、 ものら、
そのもの、 とは、 全く、 別のものらであって、
喚起性の関係性を成して、 相対し得る、 その精神系には、 無い、 ものら、 と、 その精神系にあるもの、 そのものとしての、 連続性などを成して、 相対し得るものらでは、 ない。
パース氏ら等は、 観念な物事らを構成する物事らを喚起する、 働きかけを成してあるかの様に機能して来てある、 我々の各々の精神系そのものには、
無い、 ものら、の、 その、 喚起性の働きかけらの様なものらをまでも、 精神性の働きようら、を、 宛として、観るのと、同じ様に、 観念する度合を成してあると共に、
自らの精神系そのものの一定度合いらを成して、
それ自らを、成したり、 成し得たりするものらと、
そうしたものらではないものらでありながらも、
そうしたものらへ、 翻訳されるかの様な形で、
そうしたものらを喚起するものらとを、 より、
区別しない度合を成す事においても、 その、説く所の事らを思い扱って観せている 。
・・我々には、 直観の能力はなく、
すべての認識は、 先行する認識によって、 論理的に決定される。
≒ 観られる論理性を成しても、 成さなくても、 誰かに知られ得るものらは、 観念性と共に、
それ自らの成り立ちようらを得るものらだ 。
・・我々は、 記号を用いずに、 思考することは、 できない。
≒ そう規定する主らの観念において、 考えを成す事に必要な事を、 記号を用いる事である、 と、 規定して観てある事は、
それをする主の精神系に、 そうすべき必要性の度合いが、 それだけ、 ある、 という事を意味し得るが、 この主張な事は、 記号なるものを用いないで、 成される、 思考が、 無い、 とする、 その記号なるものへの定義による事でしかなく、 全く、 この主張の主が、 観念の規定性にとらわれてある様を映し出して観せてあるものでもある 。
・・我々は、 絶対的に、 不可知なものへの概念を持つことは、 できない。
≒ 知り得ないものへの概念を構築し得ない、 主らがあるとすると、
どの概念が、 そうした概念ではない、 と、 比べ合わせて、 その不一致の度合を思い量り観る、
基準となる、 概念を、 その主らが、 構築し得ない状態にある事になり、
その主らにおいては、 少なくとも、 どの概念が、
知り得ないものを宛としてある概念ではないかを、
判断し得ない事になる、のに対して、
それを判断し得る主らは、 知り得ないものを宛としてある概念を構築し得る主らである事になる。
この主張は、 一方で、 知り得ないものなるものを宛としてある概念を思い構え得てある主がある事を前提として、 他方で、 それを否定して観せる、
規定性を成して観せてもある。
元の記述らにおいては、 より、 つじつまの合う状態が成されてあるのかも知れないが、 これも、
むしろ、 パース氏が、 観念らのどれでもないものとしての規定性を帯びさせられて、 その観念らの成り立つ場に、 現れ出て来るものらを、 能く、
思い分けて観る事のできた、 その度合を投影し得てある、 混乱性を示す状況でも、 在り得る 。
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