経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 道義公方❗ ; 大名一騎討ち❗ ➕ 山門成敗❗ 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 大名一騎討ち❗ ➕ 山門成敗❗ ; 道義公方❗ ;


道義公方; 山門使節❗。

報道されない ❗ 事からも、後押しを得て来てある、

日本人の数千人以上を、すでに、監禁中な、シナ❗ ;

19/ 8/1 2:43 ;


@ 余りに、悪行が過ぎると、

天下の秩序の維持を使命とする、

幕府としては、 いつまでも、

ビビり上がった振りをしている、

訳には、 行かない。

身勝手に、

社会の一般の人々へ、 より能 ヨ く、

福利らをもたらす、 前提となる、

秩序性を乱す者に対しては

室町幕府の征夷大将軍として、

足利義教氏が、断固たる態度で、

臨もうとした事は

、真っ当な事で

1433年、の、永享5年は、

7月から、 永享7年の、2月まで、

延暦寺の僧兵らの蜂起が、

断続的に続いた状況に対して

大名らと評議を重ねながら、

対策が立てられていくが、 やはり、

みなは、 余り、刺激したくない…、

出来れば、 「 無為の御裁許 」、 を、

って論調になる。


※ 無為 ブイ … ;

自然に任せて ;

【 神仏の思い成す通りに任せて 】

作為を施さない事 。 か、

平穏無事な事 。


ここでは、 「 もう、妥協しおうぞ。

とりあえず、荒法師らの言う事らを、

神仏の望む事らとして、聞き入れようぞ。

神仏の成す、祟りは、怖い❗ 」 、って事。 :


そんな訳で、 初めは、 ある程度は、

寛容な対処をしていたのが…

そうすると、 荒法師らは、 ますます、

付け上がる。


公方への調伏 ;

≒ 呪詛 ジュソ ;

、などを始めたり、

土一揆 ツチイッキ 、 を煽ったり、

方々の通路らを塞いだりした。


「 わ主らは、 合力 ゴウリキ

しなかっただろ❗ 」ら、 と、

園城寺 オンジョウジ ;

【 滋賀県は、 三井寺 ミイデラ 】

を襲ったりもした。 :


※ 延暦寺の事を、

「 山門 」 、 とも呼ぶが、 これは、

園城寺を、

「 寺門 」 、と呼ぶ事に対応している。


「 山門 」、と、 「 寺門 」 、とは、

元は、一つ。


分裂してからは、 事ある毎に、

ハチャメチャに、やり合っていた。


流石に、やり過ぎって事で、

比叡山の麓 フモト ;

≒ 山頂ではない ;

、へ、 義教将軍は、

幕府軍を出動させた → 鎮圧 →

ひとまず、和談 → でも、また、蜂起❗

、 を繰り返し、

最後は、

山門使節 ;

≒ 山門僧徒らの代表で 、 今回の首謀者 ;

、の、 4人が、

義教将軍に謁見して、宥免され ;

≒ なだめられて、処罰をまぬかれ ;

2年以上も続いた、

山門僧徒らの暴動が、今度こそ、

本当に沈静化し、 万事解決❗…、と、

思いきや、

山門使節の一人に、

" 不審な自害 " 、 を遂げた者がいて、

義教さんの心に影を落とした。


「 なぜ、死ぬ必要がある?。

あ奴らは、 何かを、隠している…? 」――


山門使節の3人への処刑が行われたのは、

世の中が平穏を取り戻した、

1ヶ月半後で、 翌日の、

1435年、の、 永享7年 、の、

2月5日の正午に、

山門僧徒らの放った火により、

延暦寺の根本中堂は、灰燼に帰した。 :


それに加え、抗議の自害者が、

20人 〜 30人も出た。


「 自滅終 ジメツイ か、

義教将軍の大勝利じゃw 」 、と、

思うかも知れないが、 これは、

その逆で、 為政者にとっては、

これ以上の、 " 負け " 、 は、無い。


延暦寺は、 元は、

平安京の鬼門を守るべく創建された、

寺院で、 鎮護国家の象徴だ。


それが、 灰燼に帰す、 という事は、

国家の滅亡を意味する、にも等しい。


天下に、 あらゆる災いを、

もたらし兼ねない事態を招く事は、

公方としては、 成しても、 成させても、

成らない事だ。


『 満済准后日記 』 、 の、

永享7年 2月6日より、 満済師の言葉 ;

≒ 「 天下、凶事、重事、

何事過ぐるべからんか、驚歎周章の他、 事無し 」 ;

天下にとって、 これ以上の、

重大な凶事があるだろうか。 ひたすら、

歎き、うろたえるばかりだ 。

:

「 天魔所行天下凶事、 ただ

愁涙押さえるばかりなり 」 ;

( 数々の霊宝・経典の焼失に… ) 、

悪魔の所業、 天下の凶事、

ただ、 悲しみの涙を押さえるしかない 。


義教将軍の言葉 :

「 当時の儀御周章、さりながら、

又時刻到来か、 無力云々 」 ;

このような事態に周章している。

しかしながら、 これもまた、運命か。

自分の力では、どうしようもない 。

:

※ 時刻到来… ;

ここでは、悪い意味。

人の力の及ばぬ天命により、

「 その時が来てしまった 」

、 という意味。

:

※ 無力 ( 力無し )… ;

為す術がない、仕方がない、

という意味。 :

『 力のない、自分に対して、 落胆 』

、 するのではなく、

「 不可抗力 ;

≒ 天命や自然の前に、 人の力では、

どうする事も出来ない 」

、 といった、 意味合いだ。


焼け跡から、 御本尊を探し出し

中堂御本尊以下被召寄 :

『 満済准后日記 』 、 早々に、

根本中堂 ( 総本堂 )、への、

再建をすること ;

簡要中堂早々御建立珍重存云々 。


今や、出来る事は、それ位だ。

天下を預かる為政者として、

京都の鬼門を守る延暦寺を失う事は、

神罰が下された、にも等しい。


山門僧徒らも、それが判っていた、

からこそ、 強気に出ていたのであり

最後の抵抗として、 最も、

征夷大将軍としての、

足利義教氏が苦しむ方法を取った。


この延暦寺での御本尊らの焼失❗

、 という、結末は、 決して、勝利でも、

喜ばしい事もなくて、 突然に訪れた、

" 望まない形での、終わり "

、 でしかなかった。


この事件に関しては、 あれこれと、

口に出してはならない、 という、

命が出され、 それを破った一人が、

斬首される。


『 看聞日記 』 、の、 有名な一節の、

「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、

言う莫れ 」 、とは、この時の言葉だ。


軽々しく語る事が、決して、許されない、

天下の重大事へついての、

この、過剰なまでの警戒の成しようも、

延暦寺 、という、寺院の、

国家的な重みと、 人心の動揺❗

、 という物が、 天下に、

兵禍なり、戦乱なり、 を呼び起こす、

最大の、 " 火元 " 、 である事を知る者なら、

一概に、 非難すべきでない事も、

理解され得よう。


※ ただし、 " 延暦寺の焼失 " 、 と言っても、

この時に、火が放たれたのは、

総本堂である、 根本中堂、と、

子院らの一つだけで、 中世の寺院は、

本堂の他にも、 無数のお堂や子院に、 宿坊ら、 などを構えた、

極めて、 大規模な物で、

それらを含めた、広大な延暦寺の全域が、

焼失した訳では、無い。


嗷訴に対して、 大名らが、

神輿や御神木の祟りを、 非常に恐れていた❗

、 と、上に述べたが、

それは、 彼らが、 自分へ、不幸が降りかかる事へ、

怖じ気ていた訳ではなく

祟りの対象が、 彼らの、 " 個人 " 、ではなく、

" 天下国家 " 、であるが為に、

極端に、慎重になっていた。


※ 参照… ;

「 於有神輿入洛者、 天下重事大儀、

不可如之歟 」 ;

≒ 神輿が入洛したら、

天下の一大事だよ❗。


『 満済准后日記 』 、の、

永享5年は、閏7月5日。


「 私 」、 ではなく、

「 公 」、 の立場に立つ、

幕府の幹部らには

神輿の動座 ( 入洛 ) 、 も、

延暦寺の焼失も、

天下全般の問題事であり、


「 山門僧徒ら、 むかつく、ぶっ潰せ❗ 」 、等と、

私的な都合や、 感情で、

短絡的に、対処していた訳では、ない。


「 非拠 」 ;

≒ 『 非道 』 ;

、 を許せぬ義教将軍が、

「 無為の御成敗 」 、 を求める、

大名らを前に、

妥協案を模索し続けてもいたのは、

その為だ。


※ 参照… ;

『 満載准后日記 』 :

極力に、 衝突を回避したい大名らは、

山門使節らに帰順を促し、 応じる者は、

義教将軍に、謁見し、赦免を受けていた。


義教将軍から、

所領と身の安全を保証されながら、

山門使節らの一人が、

" 不審の自害 " 、 を遂げた件に対しても、

制裁な行為を、即座に決行した訳ではなく、

それまでに、1か月半の空白がある。


その間には、 新年の御礼で訪れた、

山門使節と、平和の裡 ウチ 、 に対面もしている。

:

「 山門使節、懸御目云々、今日、 無為、珍重珍重 」 ;

『 満載准后日記 』 、の、

永享7年、は、 正月20日 。


それから、半月の間に、

どんな心境の変化があったのかは…、

今となっては、 知るすべもない。

:

【 何重もの、 安全弁の様な、

管理の仕組みらにより、

責任者らの加担を得る形での、

人らの意図が、無い、 場合には、

御本尊らを燃やし得ない状況があり

その事を、幕府の幹部らが、

知り得ていたのであれば

この論者が、 述べている様に、

人々へ、 疫病などをもたらし等する、

祟りの効力が、

その当時の社会通念において実在し

その観念な上での、 実在性らに応じた、

社会的な影響性らを、

一定な度合い以上に、 持ち得ており、

それに乗じた、 反幕府性の動乱に類する事らを、

起こし得る、 可能性が、

大いに、 在り得ていたのであれば

無法な荒法師らが、 意図して、

天下へ祟りを成し得る、

御本尊らへの行為を成した事は

現代の世界の事に置き換えて観ると

疫病 、 などを多発させて、

大勢の人々を殺し得る、生物兵器らを、

テロリストらが作動させる、

事にも類し得る事だろうから

義教将軍が、 そうした、

実質のテロリストらを処刑した事は

天下万民を安んずるべき、

征夷大将軍として、 当然に、

成すべき事だし

何かの工作員の如く、

わざと、人々の不安性を煽る発言をした、

人を、 厳罰に処さなければ

野心家ら、 等が、その手の流言飛語を、

乱破 ラッパ 、 らに成さしめて、

人々を、 特定の事らへ誘導する機会らを、

反幕府な者ら、 等へ与えたであろう。


義教将軍は、 より早くに、

その芽を摘んだ❗ 。


大火災に成り得る、 小火 ボヤ 、への、

種火に成り得た、 流言飛語の、

最初期の段階で、 それを封じる事へ、

力を入れ、その成果を得た❗

、 という事なのであれば、

それは、

天下万民の安寧性を、減らさない為に、

必要な事だった、 という事にも成り得る。


人々の不安な思いらをかき立てる、

噂話らを、 バンバンと、

乱破らにやらせて、

幕府や将軍への、反対運動ら、などを、

人々へ起こさせたり、

人々の中から、 自発的に、

そうした運動らを成す事、 などに、

より、適した属性らのある、

者らを探し出す様な事らが、

より、多く、 成り立ち得る状況が、

起ち現れる前に、 義教将軍は、 能く、

その出現を防ぎ得た、のかも知れない 】


義教将軍は、 還俗する前は、

延暦寺の天台座主 てんだいザス ;

≒ 延暦寺で、一番に、

主導する権限のある人 ;

、 を務めていた事があり、

期待もされていたそうです


≒ 天台宗が始まって以来の逸材 。


『 大日本史料 』、 の、

応永24年の12月13日 :


山門僧徒たちも、 天台座主から出た、

公方だったから、 少々は、

強引な要求も通る、 と、 思った、

可能性もあるが、 義教将軍は、

縁故より、理非の正しさを選んだ。


※ 天台座主を始めとした、 高僧らと、

嗷訴を起こす、 僧兵らの行動とは、

" 別物 " 、 です。


天台座主を、裏長 うらおさ 、とか、

思わないように❗ 。


この山門僧徒らの、幕府への要求行為は、

義教将軍の時代に始まった事ではなく、

先代から引き続く、 一連の、

継承された課題事です。


4代目の義持将軍の時も、 特に、

前半は、大変だった様で、 時に、

厳しい対応も見られます。


その点で、 3代目の義満将軍は、

非常に、上手くやっていた❗ 。


対立が激化しつつあった、禅宗と、

顕密仏教、 との、 融和路線を築き、

見事に、 延暦寺を懐柔した。


嗷訴の激減です。


" 南朝と北朝 " 、も、 " 朝廷と武家 " 、 も、

" 禅宗と顕密 " 、 の融和も、みんな、

義満将軍の業績❗ 。


延暦寺の嗷訴への対策として、

『 山門使節 』 、の制度を創設したのも、

第3代の征夷大将軍の、義満将軍です。


√ 『 山門使節 』 、 は、 本来は、

幕府の意向に従うべき、

立場の者達だった。 ← ここ、重要❗ 。

:

『 山門使節 』

、 は、

僧徒らの代表者である、 と同時に、

幕府と、僧徒らとの間を、

" 取り持つこと " 、 が、仕事ですから、

これまでの嗷訴では、

ヒャッハーする僧徒らを " 宥 ナダ める、 側 " にいた

【 当初は、 透破 スパ : スパイ ;

、 としても、機能し得ていたのだろう 】


義満将軍に、義持将軍と来て、

義教将軍の時代も、 当初は、

幕府との関係は、良好でした。

が、

『 山門使節 』、 らが、

傲訴の先頭に立ったとなれば、

それへの制裁もまた、 当然の事ながら、

幕府の仕事です。


今回の騒動は、

「 幕府 VS 延暦寺の勢力争い 」

、 などという、 次元の話ではない、


延暦寺は、 決して、

「 幕府から、 完全に、

独立した反対勢力 」 、 等ではない❗、

と言う点に、注意しましょう。 :

:

※ 顕密 ケンミツ 、とは、

顕教 ケンギョウ 、 と、

密教 ミッキョウ 、の事。

:

日本では、 鎌倉時代に、

「 禅宗 」 、 を始めとする、

" 仏教の新しい潮流 "

≒ 鎌倉仏教 、とも言う ;

、が起るが、

それ以前の、 「 天台宗 」、 や、

「 真言宗 」、 に、 「 南都 六宗 」

、 の事を、 顕密仏教 、 と言う。


※ 南都北嶺 ;

≒ 興福寺 & 延暦寺 、は、

代表的な顕密寺院。


室町幕府と言えば、 イコール ;

「 禅宗 」 、 という、印象ですが、

初代の尊氏将軍と、直義氏の時代から、

特に、真言密教との関係は、深く、

幕府における、仏事では、

重要な役割を担っていた。


3代目の義満将軍以降では、

天台宗の総本山の、『 延暦寺 』 、

との関係も改善し

『 延暦寺 』 、 の門跡である、

『 青蓮院 』 、 で、 僧の時代を過ごしていた、義教将軍も、

相当の密教好きですw :


山門僧徒らが、理不尽に、

嗷訴を繰返していたのも、

室町幕府の前半戦 ;

≒ 応仁の乱 、位まで、です。


延暦寺が、寺社権門な事から、

こんな事も言われるが、

「 宗教者なのに、武器を持ってる何て、

おかしい❗ 」 、…事は、 ありません。


それは、 所領を守る為の自衛手段。


中世では、 寺院も、神社も、

在地の民も、土地は、

自分らで守る物でした。


" 守る力 " 、 を持つのが、

本来の日本人の姿なのです。


延暦寺は、 室町時代が始まる、

遥か昔から、 「 公 」、 的な役割を、

強く持つ、 " 歴史に裏付けられた、国家的な寺院 "

、 だったのであり

従って、 それが、破壊される事は、

単なる、一宗教勢力への制圧ではなく、

天下の全般への災厄をもたらす、

惨事に、 文化への破壊を意味した。


「 公 」、 としての存在である、幕府が、

延暦寺の破滅を自ら望む事などは、

ある筈はなく、 逆に、

「 公 」、 としての意識が薄く、

「 私 」 、 の利益を優先出来る、

戦国大名らの一部の者ら、 等なら、

延暦寺への破却行為を成す事は、

訳も無い事だ。


※ 義教将軍の目的は、 あくまで、

公への奉仕の精神に反する、

山門僧徒らの 、 " 行為への処罰 "

であり、

" 僧徒らへの根絶やし、や、

宗教権門への弾圧 "

、 などではない❗ 。


たまに、そう書いてある物もあるが、

これも、史実に基づいた、

理論的な考察では、ない。


【 この論者の記述な事らも踏まえて、

事を観直すと、

足利幕府側は、

山門僧徒らが、御神木を持ち出して、

傲訴した行為については、

処罰をして居らず

荒法師らの誰彼らが、

天下の万民への災厄の現実化の、

一定な度合を防いでくれている、

設定性の、 御本尊らを焼失させて、

天下万民へ災厄らが現前する、

可能性を高める❗ 、 という、

凶悪なテロ行為について、

犯人らを厳罰に処している❗ 。


傲訴については、 天下万民への、

災厄らの現実化を防ぐ、

神仏的な存在の意向の影の様なものを、

その傲訴における、 要求な事らの内に、

足利幕府側は、 認めてやる、

形を取って観せ得たが

御本尊らへの焼き払い、な、行為については、

誰の目にも、 神仏的な存在の、

祟る力や、天下万民への、

災厄らの現前化、 などを防ぐ、

力の存在への、 不信に基づく行為であり、

その手の不信性を広め兼ねない、

行為である事からも、

極刑に処さざるを得ない、

理由としての成分らがあった、

という事だろう 】


義教将軍は、 弾圧どころか、

半還俗公方か? 、 って位に、

仏教を保護しています。


※ 熱心な、寺院への参詣と加持祈祷に、

護持僧の増員 ;

≒ 6人→ 12人 …、 などなど。

:

@ で、あれば、

御本尊らを焼けない様にし続ける

、 という、 基本的な公務 ;

比叡山 、 などは、 国家的祈祷を担う、

中世の寺社として、 当時の人々の、

精神面・文化面を支える存在でもあり

天下万民へ災厄らが見舞う事を、

でき得る限り、防いで居てくれる、

存在なのだから、 その機能を妨げず、

十分に発揮し得る様に、管理し、

維持する、日々の務め事らを成す事は

その目的な事の内容からして、

公務であり

この場合の、 中世の山門僧らは、

天下万民からの、税の分配を、

得ていなかったにしても

公務員 、であるから、

その公務を成す義務に違反して、

天下万民へ災厄らを成す、

テロ行為を成した事について、

将軍が、 見逃さずに、極刑に処した行為は、

極めて、最もな行為だ。 :


√ 最初に、幕府が折れて、

彼らの要求な事を呑んだ時点で、

山門側が妥協していたら

2年も、 抗争が続く事も、

根本中堂が炎上する事も、

恐らく無かった訳で、 しかも、

幕府軍が出動したのは、 あくまで、

比叡山の 、 " 麓 " 、 であり ;

根本中堂があるのは、 " 山頂 " ;

さらに、事件が起きたのは、

「 幕府軍が撤退した、約2か月後 」

、 です。

← ここ、重要❗ 。


事件の後に、

新たな、山門使節らへの任命、

根本中堂への再建が、

" 幕府により " 、 進められた、

事からも、 自明なように、

室町幕府の、 宗教権門への基本方針は、

「 協調・保護 」 、 であり、

「 弾圧 」 、 ではない。


つまり、

「 義教将軍が、

宗教への弾圧を目的とし、

軍事力で迫り、焼き払った 」 、なんて、

解釈は、 史実をガン無視の、

荒唐無稽なファンタジーなのです。


軍隊なんて、すっかり撤退して、

どこにもいないのですよw。


とにかく、 この辺は、

一次史料を漁れば、 矛盾が、

ザクザクと、出てきます。

とんでもないにも、程があります。


➖回目の延暦寺の炎上は、 あくまで、

山門僧徒らな、 自身が、

根本中堂に、 火を放った❗ ;

しかも、 義教将軍にも、

厄災を降りかける目的で 。 



◇ 道義公方❗ ; 大名一騎打ち❗ 。

解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗ ;

19/ 8/1 19:7 ;


@ 比叡山の、 『 頂 オベ 』 ;

≒ 山上 ;

、 を、

大名軍が、 " 直撃 " して、

広域を焼き払った、二回目と、

三回目の、焼き討ちによる、

延暦寺の炎上とは、 根本的に、

性質が異なるのです。


この両焼き討ちは、 今から、

約 510年前 ;

2回目 ;

、と、

440年前 ;

3回目 ;

、の事件らであり

現在からすれば、 似た様な時期だが、

70年もの、 間隔があるので、

それなりに、復興するには、

十分な時間があった。


これ程の、 しかも、2度に渡る、

凄惨な攻撃に遭ってなお、

「 蘇った 」、という事実が、

意味する事は…、

この2度の殲滅行為が、

「 国家と、万民の思いを、

度外に置いた、 大名、の、

私的事情による物だった 」

、 という事です。


明応年間の焼き討ち ;

≒ 前者 、の時は、

仏像の再造が、 『 勅命 』 ;

≒ 『 天皇の命令 』 、により、

進められています。


延暦寺とは、 そういう存在 ;

≒ 国家鎮護の働きを成し続ける事を、

本来の公務として、成すべき存在 ;

、 なのです。

:

@ であれば、 私的事情で、

焼き討ちをした大名らは、

国家鎮護を公務とする、

山門僧らが堕落して、

公務を疎 オロソ かにし、 あまつさえ、

自分らにも、 将軍らにも、

天下万民にも、災厄らを与える事になる、

御本尊らへの焼き討ちな行為、 といった、

自滅型のテロな行為を成した、山門僧らは、

極刑に処されても、

倫理的に妥当で在り得るし

それに類する、

不作為型と作為型の、

悪事を成す、 行為を成し過ぎたせいで、

国家の全体な状況を、

戦国乱世に変えた罪は、甚だしく大きい

、 と、言わねば成らないし

公の福利を成すべく、足利幕府が、

懲罰を致せない状態に陥っていたのなら、

大名らが、懲罰を成すのも、

致し方が無いし、 その懲罰な行為が、

私的事情だけによる、とも、

言い切れない面がある。


√ 足利将軍家 、

というのは、 嫡子 ;

≒ 『 将軍の後継者 』 ;

、 以外の、子女を、原則として、

全てを、 入寺させる。


例外もあるが、 男子だけではなく、

女の子も、みんな、幼少時から、

出家です。


子孫を残さない。

それは、 一つには、 後日に、

親族間の争いを惹起する、

禍根を残さない為ではあるが、

それにしても、

「 嫡流以外を全て絶つ 」 、 って、

徹底しています。


普通に考えたら

√ ≒ 公の福利らを、

自らの成すべき物事らとして観る所が、

精神系において、 より、

構築され得てはいない方の人々の、

自然に、思い構えて観る様な場合の ;

「 将軍家 」、 っていうと、

家の繁栄を第一に考えて、

息子には、 領地を与えたり、

大名家への養子にさせたり、

娘らは、 他家に嫁がせて ;

つまり、 政略結婚を成す事により ;

自らの勢力の拡大を目指し、

親族員らで、

富と権力を独占して行きそうな物ですが。


人には、 私欲という物がありますから、

権力を手にしたら、それが、普通かも知れません。


しかし、 そうすると、

「 将軍の座には就いた❗ 、 でも、

天下への私的な独占には、

興味は、無し❗ 」 、 っていう、

足利家って、やっぱり、ちょっと特殊… :


※ 幕府を構成する、 大名家らには、

足利一門も多いが、 血縁的には、

だいぶ遠く、 既に、

独立した一族らであり、 あくまで、

将軍家と主従関係にある、

一大名家らです。


【 必ずしも、 主従関係は、

無く、

単に、同じ幕府の体制において、

上司と部下として、 公職を務め合う、

だけの、 間柄な、 大名らがあり

義教将軍が、 大名らの子弟らを、

自らへの側において、 自らな、 将軍家への、 家来とし

家来とした者らを、 その出身の、

大名家の当主へ据える事を通して

大名らを、 足利将軍家への、

累代型の、 家来にする、

段取りな事らを成している内に

多分、 それにも、反発したであろう、

赤松の主従に、 暗殺されてしまった❗ 】


・・さすが、 源氏の嫡流は、

品があるなぁ…と、感心してしまいますがw、

この欲の無さ、一体、

どっから来てるのか?、

と言う事を探る為に、

「 歴代の将軍は、 どんな覚悟で、

天下に挑んでいたか? 」 、について、

関連史料に当たりながら、

考えてみました。


中世の武家が理想としていた、

政治については、 「 2-4 

続々々・室町幕府の前半戦

「 武士の道 」 」 、

「 2-6 室町幕府の後半戦へと続く道

「 ちょっと余談、

室町ワールドのこと 」 、 などで、

既に概略を述べましたが、 やはり、

この時代は、 どうやら、

将軍からして、 「 公方 」、 即ち、

「 公 」 、 としての自覚が、

非常に強かったんではないか

、 と、思われます。 :

:

幕府の発足時に掲げた、

『 建武 式目 』 、 をはじめ、

『 夢中 問答集 』 、 の、 夢窓疎石師や、

幕府に仕えた、 高僧らの発言、

後のことですが、

一条兼良氏の、

『 文明 一統記 』、

『 樵談 治要 』、

当時の記録に散見する、

政道を説いた漢籍 ;

『 六韜 』、『 三略 』、

『 論語 』、 孟子、 『 大学 』、

『 中庸 』 、 等 、 さらには、

大名家の、 『 家訓 』 、 などから、

理想の政道に対する 、

" 社会の共通認識 " 、 を探って、

総合すると―― …

そんな結果になりました。


「 理想 」、と、 「 現実 」、 との間には、

立ちはだかる物事らも、あるでしょうが、

「 私利 」 、 を捨て、

「 公利 」、 に生きようとする、

潔い覚悟は、感じられます。


彼らにとって、 征夷大将軍の座に就く、

という事は、 民らを、

" 自分 " 、の支配の下に置く、

事ではなくて、 自分を、

" 君徳 " 、への支配の下に置く、

事だったようです。


※君徳… ;

君主として備えるべき徳 。 :


「 足利家は、 なぜ、

政略結婚をしないのか? 」 、と言う、

疑問は、 長らく、ささやかれて来た、

謎らの一つですが、

" 天下を治める " 、 という、大業を、

" 私欲への充足の手段 " 、 ではなく、 :

「 自らに与えられた 、

" 天命 " として受け取っていた 」

、 と、考えれば、 謎ではなくなる、

と言う訳です。


この国には、 足利家以外にも、

嫡流以外の全てについて、

出家を原則としていた、一系が在ります。 朝家です。


時代による変化は、当然、大きいですし、

特殊な事情による、例外もあるが、

室町時代に関しては、 ほぼ、

慣例化されていた、と言える。


" 自己の栄華 " の為に、天下に君臨せん、

と望む、王ならば、

" 今 " の " 自分 " の為に、生きている限り、

血族の拡散による、

勢力の拡大を目指し続けるでしょうが

" 天命 " として、天下万民に君たる、

天子、 は、 民の為に、

安寧の世を遥か未来まで繋げて行く、

事を、 責務としますから、

その血筋を、確実に長く、 同時に、

細く清らかに保って行かねばならない。


皇統を繋いで行く ;

つまりは、 国を悠久に繋いで行く

、 と言う事は、

利己の犠牲を厭 イト わず、 ひたすら、

天命に生きる、と言う事を、

意味するのであって、

その覚悟、 というのは、 ちょっと、

常人の想像の及ばない所がある。


という訳で、

「 天命を背負いし者…

ちょっと、かっこいい 」

、 という話でしたが、 それにしたって、

公私の全てを社会に捧げる、

「 嫡流以外、 断絶❗ 」 、って、

普通に考えると、

かなり、過酷ですね。


子弟を寺院に入れる事は、

朝廷や幕府にとっては、

仏教界との融合や、統制

、 という、 効果もあったが、 朝家は、

色んな意味で、 超越した存在だ、 としても、

室町は、将軍家までが、

こんなんだったとは…、品格高すぎw


足利家の徹底した嫡流主義、 家ごと、

「 公 」 、 に捧げる、その姿には、

何だか、哀愁すら覚える、

" 天性の将軍家の宿命 " を感じます。

:

@ 『 太平記 』 、 による、

足利氏方への理不尽な非難言 ゴト 、

らを難 ナン じた、

九州探題を能く務め得た、 今川了俊氏の、 『 難太平記 』、 の記述に在る :


足利高氏どの ;

後醍醐天皇から、 尊 、

、 の字を授かってからは、

足利・尊・氏 、 どの ;

、 の、

何代か前の先祖が、 自分の代で、

幕府を開けなかった事を無念に思い、

切腹する際に、

その子孫の何代目かまでに、

幕府を開ける様に祈願した、

とかいう、話から観ても、

足利氏らは、

鎌倉幕府の役職にもあった事から、

天下国家の事を倫理的に考える事が、 代々に、 当たり前に成っていて、

仏教的な世界観の枠組みでもある、

倫理観の系を自律系にし得ていた所も、

個人差はあれ、多大に、

甚だしい度合いで、

在り得ていた様ではある。


その倫理的な世界観に基づいて、

家ごとの当主ら、 等へ、代々に、

受け継がれ得る、秘密の約束な事らを、

足利尊氏氏らは、取り交わしてもいた、

様だが、

それらの、

臨機な実現らを保証し得た、前提の、

共通の世界観は、 どうしても、

武家らが受け入れて、

自ら、 創造し得ていた、 武家倫理型の、

神仏を、自らの内在性を通して観る、

世界観 、 といった物だったろう :


√ そんな訳で、 家督への継承者ではない、

義教将軍も、 「 断絶上等❗ 」、で、

35歳 ;

≒ 満33歳 ;

、まで、

天台宗の僧として生きて来たが、

ある日、突然に、

「 はい、今日から、 君、将軍❗ 」 、

とか言われても…、

「 え、あっ、お…お断りだああぁー❗ 」 、 って、なりますね。

種々 クサグサ 、 ニ、

御辞退云々 ウンヌン ;

ちょ、無理、マジ無理❗

、 と、お断りしまくる

※『 満済准后日記 』 、の、 応永35年 正月15日 :


「 お願い❗ 、 はい、この通りです、 お願い❗ 」

、 と、迫られて、

「 面々ニ、強申所存條 」 ;

大名たちが、こぞって、これでもか、 と、頼みまくる 。

そして、 とうとう、

「 御領掌 」… orz 、 となった訳です。


@ 根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html :


『 TPPで、 ジャップらを罠にはめて、

締め上げてやるんですね 』 :

英米の幹部らにより、 ネットからスパイした、

情報らをも共有し得てもいる、

ニュージーランド、の、倫理的に、

あり続けさせるべきではない、

政権与党の政治家な、 毛唐の発言❗ 。


@ 室町幕府の、 第6代の、

征夷大将軍の、足利義教将軍と、

愉快な大名らの、ほのぼの逸話 :


上御所造営のこと :

1431年、の、 永享3年、の、

12月11日に、 義教将軍は、

それまでに、 4年程を住んだ、

『 三条坊門殿 』 ;

≒ 下御所 ;

、から、 新造なった、

『 室町殿 』 ;

≒ 上御所 ;

、へ移徙する。


これは、 義教将軍が、

" 権力の誇示の為に、

可哀相な大名らを脅して、

" 造らせた訳ではない。


事の発端は、 前管領 カンレイ 、 の、

畠山満家氏の提案で、 彼は、

前年から、 満済准后 ジュゴウ へ、

「 公方様、 上御所に移住されたら良い

、 と思うが、どうかな? 」 、 と、

内々に打診していた。


この年の7月27日に、 大方殿の、

日野栄子女史 ;

≒ 第4代の征夷大将軍の、 義持氏の正室 ;

、 が亡くなったのを契機に、

話が進展していった。


感染などによる、死の連鎖を、

目にも、耳にもした、古代の日本人らが、

感染への可能性を最小限にする為に、

設定した、観念の系なのでしょう、

当時、 死を、 " 穢れ " 、として、

この様に、 住居の移転、への、

きっかけになる事もあった。


畠山満家氏の意向を、

満済師から伝えられた、 義教将軍は、

「 ほんと? 、 それは嬉しいな❗ 」

、 と、大喜び。

≒ 「 御悦喜、 極まり無し 」。 


※ 以下は、全てが、

『 満済准后 ジュゴウ 日記 』 :

永享3年の7月ー8月より :


話を聞いた山名時煕氏も、

「 いいね❗ 、 早速、始めよう❗ 。

俺らで進めよう❗ 」、と、ノリノリ。

「 上御所事、 早々被仰付 ;

≒ おおせつけられ 、 御移住、

可為珍重旨申、 随而、御造作事、

面々、可執沙汰云々 」 、

…これを、直に、義教将軍に申し入る 。


義教将軍へ、意見が受け入れられ、

畠山満家氏も、

「 めでてぇ、ありがてぇ 」

、 と、感涙です。

「 旁目出畏入 」 。


現管領の、斯波義淳氏も、 二人に、

「 謹んで、OK❗ 」 、と賛同して ;

「 両人、申入趣尤、可然畏存 」 、 


「 じゃ、俺んちで、会合な。

費用分担を決めようぞw 」

「 於管領、面々、会合談合、

用脚一萬貫計 ;

一万貫ばかり 、分先支配 、

云々 ウンヌン 。


@ 用脚 ;

≒ 経費 ;

、の、一万貫の、

計 、 22人の守護大名らによる、

配分が決まった。


上御所の旧跡に決定で、好いのか、

それとも、 今の下御所の周辺が、好いか、

大名らは、

満済准后 マンサイ・ジュゴウ 、

を通して、 義教将軍に判断を仰ぐ。


すると、返ってきた返事は、

「 どこでも好いよ❗。

みんなで決めてね❗ 」

「 雖為何在所、 面々、

可計申條、 可然云々 」 。


この日も、 管領の、

斯波義淳氏の家に集まっていた彼らは、

それを聞いて、

「 おおう、ありがてぇ 」 ;

「 此儀このぎ ;

この事については 、

可畏入 おそれいるべし 、云々 」

、 という訳で

陰陽師 オンミョウジ 、 の、

賀茂在方氏と、安倍有盛氏へ、

吉方を相談しつつ、

在所を選ぶ事と、あいなった。


「 次は、 俺んち集合ね❗ 」 、

by 畠山満家氏。


6日後…、 畠山邸。

挙がった候補は、6か所。

その内の、2か所に絞って、

義教将軍に報告すると、

「 うーん、何か違う。 やはり、

上御所がいっか 」 ;

「 所詮、 上御所、

可宜由、被治定了 」 、 って事で、

最初の案に落ち着いた。


この後に、 みんなで、

義教将軍の所へ赴いて、

太刀 タチ を進上して、 決定を賀し、

珍重 ( おめでたい事 ) 、の、

由を申している。 :


※ この様に、 当時は、

何かの慶事の度 タビ 、 に、

太刀 タチ ;

≒ 打ち刀より、長い刀 ;

、を献じて、 祝賀した。


これが、 恐怖政権の下における、

出来事だなんて、到底、思えませんね。


なぜ、 楽しそうかっていうと、

大名の、 " 誰かんち " 、 に集まって、

相談をしているからな訳だが

これは、 別に、 彼らが、

放課後の小学生気分だった…、

訳ではなくて、 当時は、 この様に、

将軍や大名の邸宅は、

自邸と職場を兼ねており

諸大名が、 御所に出仕 ;

≒ 出勤 、する日も、 限られていて ;

常に、 将軍の傍に、 仕 ツカ えているのは、

申次 モウシツギ 、 等の近臣 ;

基本的には、 御所と大名の館との間を、

奉行人や使いの者が、 行き来して、

政務が執り行われていた。


何となく、当時の京都の雰囲気、

伝わって来たでしょうか?。


『 御所 』 ;

≒ 将軍の邸宅 ;

、といえども、

天守閣や石垣がある様な、

" お城 " 、 ではなく、 あくまで、

" お屋敷 " 、 です。 


『 洛中洛外図 』 を見ると、判ります。


だから、 ど派手で、巨大な楼閣に、

大奥を作って、側室らを、

うん百人も侍らして…とかいう、

暴君の風情ではなく、

もっと、 品のある感じです。


それから、場所選びで、

陰陽師 おんみょうじ 、が登場したが、

当時は、 天変地異への用心に、

対処法として、吉凶の占いや、

寺社での加持祈祷は、

大変に重要な物で、 それを行う事は、

天下の安寧を保つべき為政者に課された、 責務でもあった。


特に、 義教将軍は、

" 還俗公方 ゲンゾク・クボウ " な事もあり

諸寺社への参詣や修法 ズホウ ;

≒ 密教での加持祈祷 ;

、に、

とても、熱心だった事が、

諸記録に散見される。


延暦寺の件で、 強硬姿勢に出たのも、

" 仏法をも怖れぬ横暴さ " 、 からではなく

逆に、 それを尊重するからこそ、

尊い仏法を穢 ケガ し、

利己的な要求を押し通す手段として、

利用する、山門僧徒らの振る舞いが、

許せなかったのでしょう。


山徒 ;

≒ 山門僧徒 、の堕落は、

仏法の衰退にも繋がりかねんから。


正室の三条尹子女史が病むたびに、

すぐさま、修法を行わせまくり、

尹子御台 タダコ・ミダイ 、が病む →

義教将軍 ;

「 御心元無し ≒ しょぼーん 」 →

僧侶らが、御祈り →

尹子御台が、ちょっと良くなる →

義教将軍 :

「 御悦喜 ≒ にこにこ 」 、

…みたいな感じ。


しかも、 回復が遅いと、

「 御祈り 」 、 を繰り返すw :


在所は、 上御所の旧跡に決定した、

訳ですが、 最後位は、

義教将軍の意見で締めくくられたか?

、 と、思って、 他の記録を見てみると…、


「 室町殿、 上之旧跡に御移住の事。

八幡で、御くじを下される 」 、

『 看聞日記 』 、 永享3年8月11日 。


迷ったら、それか❗。 俺ら、武士だ❗ 、

弓矢の神様な、

" 八幡大菩薩 " の思し召しなら、

間違いない❗ 、 と。


◇ 「 大名一騎打と、 一色義貫氏のこと 」 ;


1430年、の、 永享2年の7月25日に、

義教将軍の、 右大将拝賀の儀式

、 が、 執り行われた。


「 右大将 拝賀 」 、 とは、 朝廷から、

右近衛大将に任官された将軍が、

参内して、 主上 ;

≒ 天皇陛下 ;

、に返礼する、儀式で、

この官職が、 武家にとっての栄誉であり、

公武が、共に参加する、 儀式である事から、

非常に、重要な意味を持つ、儀式 、 でした。

:

人目を驚かす程の、

美しい行粧に身を包んだ武士らの行列で、

その最後をゆくのは、 …名物の、

『 大名一騎打 』❗ :


※ 一騎打 いっきうち … ;

騎馬の武士が、 一騎ずつ、一列で、

進むこと。 一対一の勝負の事じゃない。


この大名一騎打を務める事は、

大名らにとって、非常に名誉な事で、

5騎の内で、 先頭と最後尾が、

特に、 重要でした。


騎馬の順番は、

「 家格 」、や、「 先例 」、 によって決まるが、

室町幕府では、 この、 " 家格秩序 "

、 という物が、 しっかりしていて、

基本的には、 三管領の、 斯波 >

畠山 > 細川 > 、 その他の、

足利一門 > 、 その他の清和源氏 >

、 外様大名ら 、 といった感じです。


御一家 、と呼ばれた、 吉良・渋川、

・石橋が、 斯波に次ぐ度級で、

別格 、とされていた。


あくまで、基本です。 

例えば、

山名氏は、 足利一門ではなく、

清和源氏らの中で、 足利流でなくて、

新田流だが、 比ぶるに、

高い待遇を受けていた。


細川氏は、 足利一門の中では、

本来は、 その先祖らが、

足利氏への家来に成った為に、

そう成らなかった、

足利流の家らに比べ、 低い家格だが、

管領家となった事で、

待遇が上がった例です。


よく、「 今川は、 吉良に次ぐ高家格 」 、 と、誤解されているが、

事実では、ないw 。


今川氏も、細川氏も、 一般には、

戦国期での印象が強い人々には、

超名門的位置付けだが、 室町幕府内で、

超名門 、と言えるのは、

斯波、御一家、畠山位、まででしょう。 :


でも、 今川氏は、 それに次ぐので、

名門である事に、 変わりは無い。


√ これは、宗家らの話で、分家らは、

別です。

管領家の畠山の分家である、

能登の畠山氏は、宗家の家格が高いから、

分家でも、高家格といえます。 :


そんな訳で、 先頭は、

前管領の畠山満家氏の嫡男の、

畠山持国氏、で、 後騎は、

現管領の斯波義淳氏が、妥当だろう

、 という事になった。


ここまでは、 平穏、かつ、順調で、

ほのぼの進行した。 が、

ここで、噛み付いてくる奴がいた❗ 。


一色義貫 よしつら 氏だ❗ 。

彼の理論によると、

3代目の義満将軍の右大将拝賀の時には、 彼の祖父が先頭を務めたのに、

今度は、

畠山氏の次ってんじゃ、あんまりだ❗ 。

「 家の恥辱 」 だ❗ 。

今回も、

先頭は、 一色氏の、俺であるべきだ❗

、 と、言い立てた。


しかし、 これは、誰から見ても、

理不尽な要求で、 内々に、

一色義貫くんから相談された、

満済准后や、山名時煕氏も、 

「 いや、無理だろ、うん 」 ;

「 堅斟酌仕者也 ;

≒ かたく、 しんしゃく

・つかまつるものなり 」 、

by 山名時煕氏 :


※以下は、 『 満済准后日記 』、 の、

永享2年の7月ー8月より。

「 そんな事を公方様に伝えられる訳が 」 ;

≒ 「 所詮、 披露難儀之由 」 、

by 満済准后 。

と、

ひとまずは、 参ってしまったが、 余りに、

一色義貫氏が頑張るので、 一応は、

義教将軍に申し入れてみたら、

「 時煕殿から、 それとなく、

「 お前、 考え直せよ 」 って、

言ってやってくれんか 」 ;

「 可令諷諫 ふうかんせしむべし ;

≒ 何かに例えた話しをして、

いさめ、たしなめるべきだ 、 云々 」

、 と、 円満な解決を望む義教将軍。


何か、格下の一色氏から、

喧嘩を売られた形になった、

畠山満家氏にも、 ごく内密に、

事の全容を伝えられた。


家格の差を考えれば、 畠山満家氏は、

当然、 怒ってもいい、言い掛りだ。

 が、 彼の返事は、

「 私 わたくし 、めは、 どこになろうと、

構いません。 上意に従いまする 」 ;

≒ 「 於愚身事は、 雖何所候、

不可及異儀、 可為上意 」

器でけー❗、 畠山どんの器でけーw


この返事に、

義教将軍は、とても喜び、 御書 ;

≒ 多分、御内書の類 、を下して、

その志を讃えた。



◆◇ シナとの密約がある❗、

アメリカの裏の実態を明かした、

アメリカの要人からの直言❗ ;

2016/ 1/30 1:9:30 ;

http://www.news-postseven.com/archives/20160129_376559.html

http://www.bbc.com/japanese/video-35426196


☆ 三橋貴明氏❗ ;


泥縄の日本政府、消費税減税と「世代」


2020- 8-4 8:5:14

チャンネルAJER更新しました。

「落選させるべき自民党議員(前半)」三橋貴明 AJER2020.8.4

緊縮派議員の落選運動を!とりあえずのターゲットは「稲田朋美」だ。[三橋TV第270回]

https://youtu.be/QQlHbuS4I_Y


1/2【Front Japan 桜】苛烈なり!第二次世界恐慌! / 李登輝総統が日本人に託したもの[桜R2/8/3]

https://youtu.be/FHyZDf0T25Y

https://youtu.be/WNmCIUIZVYY


コロナ感染が東京から地方へ伝播していっています。

 これからお盆の帰省シーズンが始まるわけですが、

いかなる事態を迎えることになるのか、

GWは、渋滞が全く発生しなかった、つまりは

国民が移動を自粛したわけですが、お盆はどうなるのでしょうか。 


 日本政府の方針は、正直、さっぱり分かりません。

経済活動を維持するために、国民を移動させたいのか? 

コロナ禍を収束させるために、国民の移動を停めたいのか。


 何しろ、コロナ禍が収束していないにも関わらず、

Go to トラベルなどと移動促進のキャンペーンを始め、

東京の感染者が増えたことを受け「東京除外」とし、

大阪の感染者数が東京を抜いても、なぜか「大阪除外」とはならない。

 まさに、泥縄の日本政府。


 結局のところ、緊縮財政という呪いに縛られ、

「全産業、全業種、全事業者に粗利補償をするから、動くな❗」

 、 という、正しい経済政策「だけ」は、採れない❗ 。


財政政策が不十分で、疫病恐慌曲線が動かない。


http://mtdata.jp/data_69.html#20200402


 結果的に、国民も日本政府も、 疫病恐慌曲線「A」の上を右往左往。

 この状況で、日本は「政治の季節」を迎えようとしています。

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

『総裁選で鍵握るのは「魔の3回生」 近づく次期衆院選に浮き足立つ

https://special.sankei.com/a/politics/article/20200804/0001.html

 

次期総裁選に向けて


最後は

国会議員票の行方が総裁選の勝敗を決するため、

“大票田”となる

「魔の3回生」の投票行動が注目されるが、この世代は

数々の不祥事で波乱要因となってきた。


首相が衆院解散を引き延ばせば、総裁選と衆院選が連動し、

選挙に焦る若手の動向を不安視する党幹部もいる。


「景気後退局面であることは明白。今はとにかく

消費税減税することが必要。

8%では小さすぎる。

最低でも5%、一番いいのは消費税ゼロ」


 自民党の安藤裕衆院議員(当選3回、京都6区)は

7月31日、自身のツイッターでこう発信し、

消費税を減税する必要性を重ねて強調した。

 

安藤氏は

自身が主宰する若手有志の議員連盟「日本の未来を考える勉強会」で

新型コロナウイルス対策として

消費税の当面凍結を求める提言をとりまとめており、

党内の「減税勢力」の急先鋒(せんぽう)だ。


 消費税の減税をめぐっては、保守系議員グループ

「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」

(代表・青山繁晴参院議員)も消費税率を

5%に引き下げることを訴えており、若手の間で

「減税論」が広がりつつある。(後略)』


 最近の自民党を見ていると、消費税減税推進と反対が、完全に

「世代間闘争」になっているように見えます。

世代とはいっても、年齢ではなく、当選回数です。


 当選回数が多い議員に、財務省に洗脳された

消費税減税反対派、緊縮派が多い。

 逆に、3回生以下の若手に、

消費税減税派、財政拡大派が多い。


 結局のところ、当選回数が多い場合、財務省のレクチャー

(ご説明)に洗脳される可能性が高まる

ということなのでしょう。


『「消費減税」で政局!? コロナ禍における「消費減税」が経済政策の常識である明白な理由

https://diamond.jp/articles/-/244818

◆ドイツ、イギリス、ベルギーほか20ヵ国が消費税減免

 

ドイツは、 半年間の限定措置として、

付加価値税 ( 消費税 ) の税率を、 19%から、 16%に引き下げ、

食料品などに適用されている軽減税率も、

7%から5%に引き下げる。


 また、イギリスは、 電子書籍等の消費税を免税とし、さらに、

半年間、外食・宿泊・レジャー関連産業にかかる消費税の税率を

20%から5%への引き下げる。


 ベルギーもまた、 困難な状況に直面している

ホテル・レストラン・カフェといった産業のサービスにかかる消費税

(アルコール飲料を除く)を

12%から6%に低減する。


 ほかにも、20ヵ国が、コロナ禍の経済対策として

消費税の減免措置を講じている。


 こうした中、我が国でも、消費減税を求める声が挙がっている。(後略)』


 先日の三橋TVの「三橋貴明の消失シリーズ」で、中野剛志先生が

「世代交代」の重要性について改めて解説して下さいました。


 自民党の中でさえ、消費税減税に関して

「世代間闘争」が起きているわけで、確かに「世代」が

問題解決のキーワードになるのかも知れません。


 自民党の当選回数が多い旧世代の連中

(稲田朋美、石原伸晃、甘利明などなど)が「改心」する可能性は、

ほぼないと考えるべきです。


 とういわけで、今後は世代をも意識しつつ、

財政観で政治家を切り分け、

与野党問わず、

「消費税減税派、財政拡大派には支援の声を届け、緊縮派、減税反対派は

容赦なく批判し、緊縮論を口にするのがはばかられるほどに攻撃する」

 というスタイルが重要になるのだと思います。

 さっさと旧世代の緊縮派を駆逐しない限り、我が国に繁栄の未来はありません。

そして、時間はそれほど残されていないのです。

「緊縮派の政治家を批判し、攻撃しよう❗」にご賛同下さる方は↓

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