経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 道義公方❗ ✖ 鎌倉公方ら 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 道義公方 クボウ ❗ ✖ 鎌倉公方ら ;


主君でなく、 単なる、 公での上司、な、 室町将軍ら❗ ;

19/ 7/29 5:36 ;


【 室町幕府の、 足利将軍家は、

一部を除いて、 一般に、

守護大名ら、 に対する、

『 主君 』、 ではなく、 単なる、

『 上司 』、 でしかなかった。


江戸幕府の、

徳川将軍家は、 大名らに対する、

主君であり

大名らは、

直参旗本と同じく、

徳川将軍家への直臣であり

大名らの各々への家来らは、

徳川将軍家への、 直臣ではなく、

陪臣であり、

主従関係の宛て付けられてある、

立場を占めていた、

が、

室町幕府に参加して、

管領 カンレイ 、 を務めた、

斯波氏員らや、 畠山氏員ら

、 などは、 足利将軍家に対する、

家来ではなくて

それへの親戚で、 幕府において、

部下、な、役職を務めもする

、 というだけの立場にあり、


その一方で、

細川氏員らのように、

足利将軍家への親戚でありながら

累代の家来としての契約性を成して、

足利将軍家に仕えるべくある、

人々もあった。


室町幕府の、 第6代の征夷大将軍である、

足利義教氏は

守護大名の、 畠山氏らと共に、

連歌をたくみに詠む

、 という、

農家の娘さんと同席し

共に、連歌を作り合い、

その娘さんの才能を愛でている❗

が、

この娘さんは、

『 主持ちでは、ない 』、

『 主 アルジ 』

、 格の人であり

足利将軍と同じく、

『 主 』 、格の人、として、

足利将軍ら、と、同席し得もした、

のであり、


幕府の要職にあろうが、

どんなに羽振りの良い、

武家員であろうが

『 主持ち 』 、 な、

『 家来 』 、格な人々は

『 主 』、格な人々とは

公式には、 同席などは、 できない、

立場にあり、


大名であっても、

足利将軍家、などを、

主君とする、 契約性を成した人々は

この、 農家の娘さんのように、

将軍家と同席する事、 などは、

公には、 より、 できない、

立場を占めており、


そうした、 主格の人々と、

家来格の人々とへの、

交信系などでの、 独特な区別性、や、

主格な人々同士の、 交信系などでの、

対等性、 といった物らは

足利時代の、 日本人たちの精神性なり、

その精神性らを規定する、

価値序列の観念性なり、として、

特徴性のある物らであり、


義教将軍が、

守護大名らの身内員らを、

自らの、そば近くに仕えさせ、

その大名らの身内員らを、

大名らへの跡継ぎにする事で

守護大名らを、 段々に、

足利将軍家への累代型の家来に、

入れ替えてゆく、 度合いを、

増さしめてもあった道次で、

暗殺された❗

、事への、

あり得る、要因性らの中にも

この、時代の特徴的の精神性らの存在

、と、

足利将軍家へ対して、

守護大名ら、などが、 一般に、

累代型の家来ではなく、

主従関係を成して居らず、

単に、共通な、幕府の体制の中で、

それへ参加した場合に、

上司と部下との、役職な上での、

関係性を公に成す、 だけの、

間柄しか成して居らず、


例えば、

守護代の、 家系員である、

織田信長氏は

その先祖らの契約性により

織田氏を、 守護代に取り立てた、

斯波氏である、 足利氏員らは、

自らへの主家員なり、

主君なり、として、盛り立てる、

宛てとすべき、筋合いには、

あり得ては、居たが

将軍家の方の足利氏員らは、

織田氏員ら、などにとって、 単に、

同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず

自らが、家来として、盛り立ててやるべき、

筋合いには、無い、 宛ての、

人々であり、


江戸幕府における、

大名らへの、家老らや、

その家系員ら 、とは、

幕府の長 オサ 、な、 家系員らへ対する、

関係性については、 著しく、 異なる、

関係性を成していた。


戦国時代は、 下剋上の時代

、 としても、 語られるが

それは、 より、武力の行使性

、 などを欠いた立場にあった、

主格な人々が

必ずしも、 主格な存在ではなかった、

武家員ら、などから

ありもしなかった、 身分制めいた、

秩序性を、 無理にも宛て付けられ

より、 元から、 武力の行使性による、

身分性なり、 序列性なり、が、 より、

一定の人々に限定される、

事を、 無しに

、 より、

一般の、 主格な人々へまでも、

宛て付けられるべき、 正統な物としても、

あり得て来たかのように、

匂わされる、 度合いら、を、

各地で、余計に、成し増していきもした、

時代でもあり、


神々のどれ彼の格を、

その子孫員としてある、

日本人の誰彼らの子孫員として、

生まれ付きに、 受け継いである、

日本人たちの、 自らへの主である、

格性は

『 主持ち 』、になる、

契約性を成して、 何らかの意味で、

公の事らにおいては、

『 主 』 、格な人々のとは、

区別される、 作為型や、

不作為型の、 振る舞いようを、

成すべき、 立場へ、

特定の先祖員らへの子孫員として、

その何彼らを引き継ぐと共に、

自らを据えたり

自らを、 初代として、

そうした契約性を成したり、した、

特殊な、人々においては

より、 公には、表立てられない、

筋合いなものとしての度合い、

を、 成し、 増し得もするべく、

あった、 宛てなものであった、

としても

より、一般な、 主格の人々においてまで、

『 主持ち 』、としての、

観念性らが、 その精神性を、

規定すべき、 いわれ、などは、

本来は、 より、 無かった❗ 】 。



☆ 足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、 傭兵ら❗ 03 ;


1429年、の、 正長2年3月12日に、 将軍宣下をうけたのは、

足利義満氏の3男の、 足利義教氏だった。 :


二度目の将軍職を務めていた、 その兄な、 足利義持氏は、

籤引きが行われた、 1428年、の、

応永35年の正月の、 翌 アク る、

18日に没した。


義教氏が家督を継いだ為に、

征夷大将軍への就任の夢が破れた、

関東公方の足利持氏殿は、再び、

不穏な動きを始めた。


籤引きにより、征夷大将軍に選ばれた、

天台座主の義円師は、 還俗して、

義宣 、と称し

≒ 後に、 義教 ヨシノリ

、 と、 改名し 、

征夷大将軍に就任した。


この経緯から、義教氏は、

世に、 「 籤引き将軍 」、と、呼ばれる。


足利義教将軍は、 当初は、

有力な守護大名らによる、

衆議により、 政治を行っていたが

長老格の、 三宝院満済氏や、

山名時熙氏が死んでからは、 次第に、

指導性を成す様になり

物忌みや、

好き勝手に暮らす、 が為に、

公益や、 公務を省みない、

武家員らや、公家員らによる、

横暴な行為や、 手抜きな事ら、 等から

世間の一般の人々が、

泣きを見させられる度合の、

より少ない、 天下を成すべく

公方の下に、 秩序を成す事らが、

厳格に成し行われる事を目指し

斯波氏に、畠山氏や、山名氏と、

京極氏や、富樫氏の、

家督の相続へも強引に介入し

その各々の氏の家臣らからも、

より、支持を得られる、

徳性の、より高い、

意中の者を家督に据えさせ

1439年、の、 永享11年の、

『 永享の乱 』 、 では

長年を対立していた、

鎌倉公方の足利持氏殿を滅ぼし

比叡山延暦寺とも対立し、

これを屈服させたが、

僧侶らが、

根本中堂を焼き払い、自殺する、

騒ぎを成した。


足利将軍らの中では、 その父の、

第3代の征夷大将軍の、

足利義満氏に並び得る、主導性を成した。


@ 6代目の義教将軍は、

些細な不正も、決して、許さない、

厳罰主義者だったし、

専制的と捉えられる程に、

幕政に積極的だったが

それは、

管領や大名らを排除し、

将軍の意が、 絶対の、世界に、

酔いしれたいが為だったのでは、無い❗ 。


幕府の私物化や、私曲を交えた政治とは、

正反対の理想を持っていた事が、

近年の、詳細で、中立的な研究らにより、

明らかにされている。


@ 「 室町殿 ≒ 足利義教将軍 ;

、 の政道のお蔭で、

天下が無事に治まっている 」 、と、

諸大名から、書状で、

賞賛の意を伝えられた、 室町幕府の、

6代目の征夷大将軍の、足利義教氏は

その懇意に痛く喜び、

大名らへの返答では、

「 各々、分国の政道に、

精を出すように 」 、 と、

期待の言葉をかけた。


義教将軍の時代は、

「 鎌倉府との確執 」 、や、

「 延暦寺の騒動 」 、 に、

九州や、伊勢と、大和での紛争など、

色々と大変な事が立て続いたが

その都度に、 大名らに諮問し、

幕府の役職にある、皆で支える、

幕府体制、の、 基本の姿勢は、

保たれていた。


大名家が、家督を決める際は、

それが、 器量の仁 ≒ 人 ;

、 である事や、

家臣らの一定数以上からの、

支持を得ている事を、

何より、重視した❗ 。


※ 器量の仁 ;

≒ その地位や役目にふさわしい、

才能や、人徳を備えた主 。

:

この様な、 義教将軍の言動の、

背景に、 貫かれている物は、何か? 、

それは― 、 " 正しさ " 、 すなわち、 " 正義 " 、だ。


裁許の基準は、

自らの好悪の感情ではなく、

客観的な、理非の正しさ、で、

大名らの意見が一致しない時には、

熱心に、 その調整に努めようとする、

姿勢には、

最も正しい、 一つの、 " 答え " 、 を目指しつつも、

各々の意向へ、最大限に、

配慮しようとする、 誠意が感じられる。

:

義教将軍の意見だけで、

全てが決定された事は、なく

進んで、大名らの意見を徴し

大名らも又、 反対意見も含め、

自らの考えようを主張する、

自由性を持っていた。


義教将軍は、 諸大名に対する、

直接的な、 " 諮問 " 、という、

形式を取る事で、

将軍と大名らの主従関係を強化する

、 と共に、 この時期に、

各地で多発する紛争らへ、 迅速 、

かつ、 慎重に対処し得ていた。


遊興や酒色に耽ったり、 重税をかけて、

蓄財に走ったりした形跡が無い、

事からも、 その、

社会一般の人々の福利らへ、

目配りのできる、

人格性が観て取られ得る。


その、俗世離れした、

厳密なまでの道理主義は、 いつ、

どこで形成されたか? 、

それは、彼が、成人まで僧籍にあった 、

" 還俗 公方 " ゲンゾク・クボウ

、 だったからです。


上杉謙信氏の神がかりさにも通ずる。


@ 俗世と乖離した世界で、

修行を続けていた義教さんは、

人の大半が、 " 結構と、 適当で、

なあなあな存在だ " 、という、

現実を受け入れる事が出来なかった。


「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、

言う莫れ 」

「 薄氷を踏む時節、 恐怖、

極まりなし 」、 等、

これらは、

当時の日記の記述にある言葉らで、

全て、 伏見宮・貞成親王 ;

≒ 後花園天皇への実父 、の、

『 看聞日記 』、 にある言葉らです。


公平公正を目指す 、正義の公方の様らは、

幕政に関わった、 満済師の、

『 満済 准后 日記 』

、や、

公家の万里小路時房氏の、

『 建内記 』 、 の記録らにある。

:

一例を挙げると

「 御沙汰を正直に… ≒

訴訟の公正さを標榜した ; 、

義教将軍の言葉

「 尊卑・親疎によらず、

次第に任せて、 伺い申すべし ;

訴訟は、 身分や縁故によらず、

公正な手続き事によるべし ;

、 という、

義教将軍の意向。


「 政道、 好悪無く、裁許せらるは、

最も、天心に叶うべし、 珍重珍重 ;

私曲の無い政道こそ、

天皇の御心に添う物だ、 喜ばしい ;

義教将軍の志す、 正しい政道への、

万里小路時房氏の感想 。


「 誓言をもって、 此の如し、

面々申す条、 真実、懇志の至り、

御悦喜、殊に、御本意極まり無し 」 ;

上述の、大名らからの、

義教将軍の政道への、心からの賛辞に、

めちゃめちゃ喜ぶ、義教将軍。


これらが、 政務において、直に、

義教将軍と接していた、

幕臣らの記録です。


満済准后 ジュゴウ 、は、

『 看聞日記 』で、

「 天下の義者 」、と、賞賛される程、

人々から信頼を集めた、高徳の僧であり、

万里小路 マデノコウジ 時房氏は、

朝廷と幕府の双方で活躍していた、

公家で、 政務を律儀に記した、

『 建内記 』 、 からは、 その、謙虚で、

誠実な人柄が読み取れます。


それに対して、

『 看聞日記 』

、の、 筆者の、貞成親王は、

皇族員で、 後花園天皇への実父でもある、

方だから、 当然に、 幕政には、

関わっていない。


その大部分は、

人から伝え聞いた話らで、

他の同時代の人々の日記らの記述により、

事実では、ない❗

、 事が確認される、

義教将軍にまつわる噂話らも、

記述されている。


@ 私曲 しきょく ;

≒ 自らの利益だけをはかり、

不正で、 邪 ヨコシマ な 、事 :


@ 後花園天皇と、義教将軍は、

非常に厚い信頼関係にあった、

歴史的にも、 希有な君臣で、

この事からも、 義教将軍は、

" 天子の意に沿う " 、

正しい政道を志していた事が、判る。

当時の日記 、 というのは、

" 公的な記録 " 、 としての意味合いが、

強い物で、

今の様に、 私的な物ではなく、

後の世に、 朝儀 ;

≒ 朝廷での儀式な事ら ;

、や、

政務の実態を伝える為に、

代々に、家業として成された物であり、

人に読まれる事を前提に書かれている。


朝廷では、 とにかく、

「 先例 」 、 が重んじられたが

この日記により、 遥か昔の、

「 先例 」 、 を知り得た。


書き手により、 それぞれに特徴があり、

淡々とした事務的な物から、

当時の、 政治、世相、事件、文化、

噂 ウワサ ら、 等が満載の、

めくるめく物まで、色々だ。


書き手の性格も、 おおらかだったり、

正義感が強かったり、 愚痴が多かったり

、 と、 色々とあるw。


『 看聞日記 』 、 は、

どういった類だったか、 というと、

かなり、めくるめく系です。


義務的な家業、というより、

もっと、自由に、 とにかく、

見聞きした話らを、 熱心に、

書き記していった物で

上級の貴族員の遊興の様から、

庶民の噂らまで、 その内容は、多彩です。


そんな、政治の一線からは、距離を置き、

社会を見つめていた、貞成親王には、

将軍な義教氏は、 どの様に映ったのか。


諸大名との衆議も尊重しながら、

正しき政道に邁進する、

義教将軍だったが、

一方で、

理想の天下を夢見る、彼の完璧主義は、

やがて、 ほんの少しの不正も許さない、

厳罰主義、という、一面をも見せ始める。


僧侶であった、公方として、

正しき天下を成す事への使命感が、

半端では、無い、

義教さんは、 当然に、 監視の目も厳しい。


コネや、 口入 クニュウ ;

≒ 口利きのこと ;

緩怠 ≒ サボる事 ;

密通 ≒ 姦通

一族による利権の独占、 等々、

" 不義な事 " 、 が、 とにかく、大嫌い。

見つかろうものなら、 即、お叱りです。


※一例; …丹波守護代と、伊賀守護は、

緩怠がばれて、 改替 。


√ 出仕への停止 チョウジ

、 や、

所領への没収 、 などの、 処分を受けた公家も、

数知れず❗ 。


それまでの、 室町幕府ならぬ、

ゆる町幕府の、

ぬるい処遇で来てしまった、

彼らの心へ、 大変な衝撃を与えたろう。


『 看聞日記 』 、 には、

年貢の未進の事を、

義教将軍の耳に入れない様に、

懇願する声が見られたりする。


「 薄氷を踏む時節 」、なる記述は、

厳正な将軍の前に、 背筋を伸ばして、

シャキっとせざるを得ない人々へ宛てての、

気の毒さを表現した言葉です。


上流階級にある公家員らにとっては、

それまで、叱られる経験が、

殆ど、 無かったろうし

貴族員らにも、 『 道理 』 、が、

適用されるなんて、驚愕の事態だった❗

、 と、 思われる。


ゆるい事に対しては、 他の時代も、

割と、 厳しかったし、 特に、

義満将軍や、義持将軍の代でも、

厳しかったが、 規律を守る為に、

厳しさが必要な事は、

義教将軍期に限った事ではない、

当然の常識です。


「 訴訟は ) 、 尊卑・親疎によらず… 」

、 というのは、

より、 利権を持った、

身分の高い者らにとっては、

超絶に、 不都合だが、

縁故の無い、身分の低い人々にとっては、

非常に有難い方針だ

、と、思われる。


中世において、 地位や、

権力を差し置いて、

「 公平公正に優る物なし❗ 」、 とし、

道理を第一とする、

訴訟制度を成し行われる様にした。


鎌倉時代から、

武家政権の標榜した事らを、

理想で終わらせず、

制度への改革を推し進め、

積極的に、実現しようとした所が

義教将軍期の特徴で、

それに加えて、

義教将軍は、 公正な手続きを重視する、

観点から、 正規の手続きを踏まない ;

≒ 縁故による ; 、

" 直訴 " 、 を禁ずる、 一方で

縁故がない為に、

訴訟を受理して貰えずにいる、

人々への救済な措置として、

一部では、

直訴 ジキソ 、を認めた❗ 。


『 満済 准后 日記 』、 だけを、

見ていたら、

「 厄介な事件ばかりが続くのに、

真摯に、 政務に当たり、

大名らの意見も尊重した、

真面目な将軍 」 、 …といった、

印象を抱き得るw 。


義教将軍の厳しさについていける、

大名ら、 等の、幕府の役職にある、

人々には、 頼もしい主君だったろう。


義教将軍は、 いつ、休んでいるのか? 、 と、思える位に、

すこぶる、よく働く、公方だった。


@ 『 看聞日記 』、 にしたって、

伏見宮家への、義教将軍からの進物 ;

≒ 贈答の品 ; 、 が、

頻繁にあったりして、

人々が憔悴しきった、

地獄絵図の様な、京都を想像していたら、

その、 『 逆負 ギャプ 』 ; 『 ギャップ 』 ;

、 に、驚きます。


※例えば… ;

義教将軍から、

貞成親王の御子息 ;

≒ 後の貞常親王 ; 、への、

進物が届いた時の、貞成親王の感想は、

「 連々、御芳志、祝着無極 」 ;

度々のご親切 、 喜ばしい事 、

この上ない 。

『 看聞日記 』 、 の、

嘉吉元年、の、 5月20日

:

貞成親王、と、 義教将軍、 との、

進物のやり取りも、挙げたら、

切りがない。


義教将軍の、

" 正しさや、理想に対する、追求ぶり "

、 は、

終始、一貫しており、

" 厳密さ "

、 は、

後半に近付く程に、 増していく、

様にも観られ得る。


不正の発覚が相次ぎ、

信頼していた重鎮が、 相次いで、

世を去った時期があった事も、

大きく響いたのかも知れない。


1432年、の、 永享4年 ;

≒ 畠山満慶氏が死去

永享5年 ;

≒ 畠山満家氏と、斯波義淳氏が、死去

1435年、の、 永享7年 ;

≒ 満済師と、山名時煕氏が死去。


義教将軍の治世 ;

≒ 1428 ~ 1441年 ;

、の、

半ばに差し掛かった頃の事だった。


義教将軍は、 大名らの中では、

特に、 畠山満家氏と、

山名時煕 トキヒロ 氏を、

頼りにしていた様だ。


満済師は、 僧だが、

公方と大名らの双方からの信頼が厚く、

彼らの意見らを上手く媒介し、

幕政を、根幹から支えていた。


室町幕府では、 満済准后のごとく、

直に、政務に関わる僧の他に、

政道への指南者として、

初代の尊氏氏や直義氏にとっての、

夢窓疎石師、や、

3代目の義満将軍 、とか、

鎌倉公方の初代の、足利基氏殿 、に、

2代目の、足利氏満氏にとっての、

義堂周信師、の様に、

教養の高い、高僧の助言や助力により、

広く、万民に資する、

公正な政治を実現せんとしていた。


義堂周信師が、義満将軍に説いた、

為政者の心構えは、

「 国家を治むる者、 先づ、

明徳・正心・誠意・修身、

是れ、最も緊要なり 」 ;

政治家には、 まず第一に、

「 非常に高い人間性 ;

≒ 共感構築型の知的な創造性 」 ;

、 を要求した。


@ 夢窓国師に絡む物に、

『 夢中問答集 』 、 という、

世俗に向けて、 解り易く、

仏教の本質や、禅の在り方を解いた、

書があり、 その中に、

政治についても言及した部分らがある。


これは、 夢窓国師 、と、

足利直義氏 、 との、

" 問答形式 " になっており

夢窓国師 の " 答え " の方が、

圧倒的に、 長いが

" 答え " を理解出来ないと

" 問い " も出来ない 、と言う、

意味を踏まえると

高僧と互角に問答し得ている、

足利直義氏の凄さにも圧倒される。


この書の原型は、 夢窓国師の、

" 答え " らを、 直義氏が、暗記し、

書き貯めたものw :


【 夢窓国師 ; ( 川瀬一馬氏訳 )

『 夢中問答集 』 ( 講談社学術文庫 ) 2000 】 :

" 室町 " が追い求めた理想が、

ここに、集約されています ) :


『 看聞日記 』、 で、 貞成親王は

満済師を、 「 天下の義者 」

、 と賞賛し、

畠山満家氏については、

「 天下の事、 諫言 カンゲン ;

≒ いさめの言葉 ; 、をもって、

沙汰を申される 」 、と、 述べているが

そうした人物を重用していた事からも、

義教将軍が、 自身に都合の好い、

お気に入りだけを囲って、

自分勝手な政治をしていた訳では、

ない、 事が、判り得る。


信頼していた重臣らの死に、

立て続く、騒乱。


乱れ行く秩序を正すには、

厳罰をもって当たる他ない。


…義教将軍は、 独り、

修羅の道を歩み始める。


彼の心を蝕 ムシバ んでいったのは、

正義への、深すぎる愛と、

その裏返しである、

不正・不義への、厳密すぎる、怒り。


正しい世の中を追い求め、 ひたすら、

政務に励んでいたのに、 いつしか、

高すぎた理想は、 それを、

僅かでも傷つける、全てを、

排除するまでに膨張し、 最後は、

自ら振り上げた、

正義の剣 ツルギ 、に、

その身を貫かれて、終わる。


570年以上前に、 正義 ;

≒ 普遍的な " 正しさ " 、 " 道義 "

を愛し、正義に倒れた公方。


義教将軍への、 ネガティブ・イメージ ;

≒ 否定的印象 ;

、 は、

不当なまでに、深い。

が、

これらを読めば、全てが吹き飛ぶ❗ 。

分析力に長けた最強の文献は、こちら❗ 。

【 川岡勉氏 :

『 室町幕府と守護権力 』 】…の、

p.66ーp.127

【 設楽薫氏 :

『 将軍足利義教の 「 御前沙汰 」 体制と

管領 』 。 久留島典子女史編

『 展望日本歴史11 室町の社会 』 。


@ 関東の事は、

鎌倉府を置いて、 『 鎌倉公方 』 、と、

それを補佐する、 『 関東管領 』

≒ 上杉氏 、に任せていたが、

この鎌倉勢は、 時折、

厄介な事をしでかす、

荒くれ魂の持ち主らだった。


「 鎌倉公方が、悪役… 」、 という、

単純な話ではなく、

京都の将軍に、 問題があって…、

という様な例もあった。


『 鎌倉公方 』、 は、

尊氏どんの子の、 足利基氏どん

≒ 2代目の足利義詮将軍の弟 、

に始まり、 :

足利基氏 → 足利氏満 → 足利満兼 → 足利持氏 → 足利成氏 …、

と、続いていく。

:

6代目の、義教将軍の時代には、

『 鎌倉公方 』、 が、

足利持氏 もちうじ 、氏で、

『 関東管領 』 、 が、

上杉憲実 のりざね 、氏だった。


この足利持氏殿は、 義教氏が、

6代目の将軍にされる前に、

嫡男のいない、4代目の、

義持将軍の後継ぎとして、 自分が、

京の将軍の座に就きたい、

と、考えていたが、 僧籍にあった、

義持将軍の弟の、 義教氏に、

将軍職が行く事が決定したので、

納得がいかず、 鎌倉にありながら、

京都の義教将軍へ、色々と対抗した。


室町幕府における、 遠国の、

関東に、奥州や、九州への統治政策は、

緩やかな地方分権、と言った、

感じの物だが、

それは、 中央の京と、 地方の各々が、

「 天下 」、 という、

マクロな視点で 、 " 協力し合って " 、

初めて、上手く機能する物であり、


自己 ≒ ミクロ ;

、の利をもって、

天下一般の人々の福利らを増し、

その害を減らす、 公の政治の事らへ、

反発し、対抗する、という、

行動に出る者があれば、

誰にとっても、 不利益を成す乱世へ、

転落し兼ねない物だった。


鎌倉公方の足利持氏殿を主君とし、

そんな主君を、その都度に、

必死に諫めたのは、 上杉憲実氏だった。


鎌倉府は、 " 室町幕府の配下 " 、なので、

関東管領の、上杉憲実氏は、

鎌倉公方の部下ではあるが、

京の室町殿の部下でもあるから、

京と鎌倉の関係を良好に保つ事を、

責務とし、 京との繋がりも強い。


そういう事情から、 京に対抗する、

鎌倉の足利持氏殿の矛先は、

主君を諫止する、上杉憲実氏へ向かい、

合戦の段へ及ぶ。



◇ 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗ ;

☆ 道義の公方 ; 足利義教将軍❗ ;

1441年の、 嘉吉元年の前後 : 傭兵らから常備軍の都市国家ら。

2015 / 8/19 12:6:1 ;

根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html :


@ 京の幕府は、

鎌倉公方派に攻められた、

上杉憲実氏らを救う為に、

大規模な援軍を送り、 この、

永享の乱 ;

≒ 1438年 ~ 1439年 ;

、は、

足利持氏どの、と、その嫡男の、

自刃によって、一旦は、幕を閉じるが

それも、つかの間、 鎌倉公方派の、

結城 ユウキ 氏が、 足利持氏どのの、

2人の遺子らを擁して、挙兵し

京の幕府は、 再び、軍勢を派遣し、

鎮圧した。


この、 『 結城 合戦 』 ;

≒ 1440年 ~ 1441年 ;

、 は、

京都の人々へ、大きな衝撃を与えた様だ。


落居 ;

≒ 落着 ;

、した時の、 喜びの声は… :


「 悉 コトゴト く、 落居、 天下静謐

惣別大慶也 」 : 『 看聞日記 』、 の、

嘉吉元年は、4月25日 。


「 先以、 此如し、

承悦之萬民含笑のところ也 ;

まずは、 この通り、 万民は、

喜んで、笑みを含んでいる所だ 」

『 建内記 』、 嘉吉元年は、 4月23日。


一連の騒動だけを見ると、

謂れ無き、対抗心を燃やされた義教将軍は、 気の毒で、

この問題は、 義教将軍の治世の、

最初から最後まで、 ほぼ一貫して、

在り続けた、最大の懸念事項❗

、 とも言うべき物だった。


➕年来も、敵対されながら、 京から、

軍事介入をする事にしたのは、

鎌倉公方の持氏どのが、

「 上杉憲実氏への討伐行動 」 、という、

武力の行使に踏み切った時が、初めて

、で、

「 前から、 義教将軍が、密かに、

鎌倉への制圧行為を目論んでいた 」

、 という訳では、ない。


義教将軍の方から、 鎌倉へ、

軍事制圧を仕掛けた、と、

書いてある物もあるが、

それは、 史実に即した考察では、ない。


いつも、 鎌倉公方側の動きが先行し、

京側は、 毎度、その対応に追われている。


『 永享の乱 』 、 で、

京への謀反を起こした者らの全員が、

罰せられた訳ではなく

、 それが、

次の、 「 結城合戦 」 、 を引き起こす、

原因となった事に対して、

義教将軍は、

自分のゆるさを悔いたのでしょう。


『 結城合戦 』 、 で捕らえられた、

まだ、12歳前後の持氏どのの、

2人の息子ら ;

≒ 安王丸君と春王丸君 ;

、 が、 誅 チュウ 殺され、 京に届けられた、

その首を見て、 涙を流した事は、

誅殺 、 などへの初断が、

社会の一般の人々の安寧を保証する、

幕府による、秩序を維持すべき、

公方としての使命感に基づく、

苦渋の判断だった事を物語り得てもいる。


「 見人誰も、拭涙、 室町殿 ;

≒ 義教将軍 、も、御落涙云々 」

、 『 看聞日記 』 、 の、 嘉吉元年は、

5月19日 ;

≒ 将軍への暗殺行為がなされる、

6月24日の、 1ヶ月ちょっと前 。


基本的に、 「 鎌倉公方派 」 、と、

「 関東管領上杉派 」 、とが、

対立した場合には、 京の幕府は、

上杉側を支援する、構造がある。


これは、 よくある、主君 VS 家臣の、

「 下克上 」 、 とは、 少し違う。


関東勢は、 鎌倉幕府以来の、

伝統的な、 有力な御家人らが多く、

室町幕府の創生期から、

初代の足利尊氏どのに、

忠節を尽くして来た者達なので、

東国の武家としての自負があり、

京の幕府に配慮する、関東管領の、

上杉氏の意向を、余り、面白く思わない、

…傾向があった。


※ 幕府の創生期、 特に、

『 観応の擾乱 』 、 期の東国と、

尊氏どの、 との間には、 非常に固い、

誓い、約束事らがあり、

東国の武士らは、 代々に、密かに、

それを受け継いでいた様だ。


※例えば…、 今川了俊氏の、

『 難太平記 』 ;

≒ 反足利色のある、 『 太平記 』

、 の、 記述な事柄ら、へ対して、

事実らや、 自らの解釈らに基づいて、

その非難すべき事らを論じた、著作で、

太平記を難ずる、 という、

そのままな、 題名を宛てられてある ;

、 や、

『 源威集 』 、 に、その痕跡らがある。


そんな背景から、 彼らは、

主君の鎌倉公方を支持して、

上杉氏に対抗し、

上杉氏は、

主君の、 " 鎌倉公方 " 、 には、

逆らいたくは、ないが

鎌倉公方派の関東勢との、

対立を余儀なくされ、泥沼化する。

:

" 関東の上杉氏 " 、 には、

犬懸 イヌガケ 家 、 と、

山内 ヤマノウチ 家に、

扇谷 オウギガヤツ 家があり

「 上杉禅秀の乱 」 、 で、

犬懸家が衰退した後は、

山内家が、関東管領を世襲していく。 :


@ 足利氏の、

「 家の字 」 、は、 氏、だった様で,

尊氏どのが好い例だが,

征夷大将軍になってからは,

源氏の棟梁として、

「 家の字 」 、 を、

「 義 」 、 に変え, :

「 氏 」 、 の字は、

鎌倉公方家に引き継がれ

鎌倉公方家は、

「 将軍から、一字を拝領 」 ➕ 「 氏 」

、 の例が、 多くなり,

鎌倉公方の足利持氏どのも、

その例に洩れず,

第4代の義持将軍から、

『 持 』 、 の字を授かっている。


戦国時代へかけては、

この、 足利将軍から、 その名の字を、

賜って、 自らの名の一部とする、

大名ら、などが、観られ

その字に注目すると、

その人が、 どの将軍の時にあり得た、

人なのか、が、察せられ

生まれた年などの、分からない人々、

についても、 大体で、 どの頃に、

元服をしたり、 活躍し得る立場になったか、

などの事らについて、

見当をつける、 よりどころらの一つに、

この、 賜り字の存在が、 成り得てもある。


@ 『 嘉吉 』 、に、事を、欠きつ、の、

意味を掛け合わせた、当時の狂歌 :


◆ いなかにも 京にも御所の 絶え果てて

公方に、ことを 嘉吉元年 カキツ・ガンネン 。


√ いなかは、 鎌倉 、で、

この事件の数年前に、 義教将軍が、

自らに反抗的な態度を取り続けた、

関東公方の足利持氏どのを攻め滅ぼした ;

≒ 永享の乱 ;

、で、

鎌倉も、京も、御所が絶え果てて、

『 公方 クボウ 』 ;

≒ 『 征夷大将軍 』 ;

に、ことを欠く始末だ

、 との大意だ。 :


この、 『 永享の乱 』 、 の、

一方の当事者である、 関東管領の、

上杉憲実氏は、 山内家の人で

彼は、 主君の足利持氏どのの為に、

必死に、 諫言を続け、 挙句に、

主君から、追討の対象にされるも、

持氏どのが敗れて、 自らが、出家してからは、

京の幕府に対して、

主君の助命を嘆願する。

が、

京の幕府の評定で、 却下され

上杉憲実氏は、 主君を討つべく、

出兵させられ、主君の持氏どのは、

自刃して果て、 主君を討った事に、

絶望し、 30歳位で、隠居する。

:

「 結城合戦 」 、 の後も、 京の幕府から、

再三に、政界へ復帰する事を求めらるが、

固辞し、 最後は、 放浪の旅に出て、

果てた。


一度は、殺されそうになった、

にも関わらずに、 何という忠誠心か。

良い人過ぎる。 この時代の、

「 大名にとっての、公方の存在意義 」

、 を考えさせられる逸話だ。


今の千葉県の根元の方は、 京から、

海路で来て、 より、 近い方から、

『 安房 アワ 』 、に、

『 上総 カズサ 』 、 と来て、

『 下総 シモウサ 』 、と、呼ばれる、

行政区域だったが

そこに居城していた、 結城氏朝

ユウキ・ウジトモ 氏が、

永享の乱に敗れて、 自害した、

鎌倉公方の幼子らを擁し、 彼らを頂く、

鎌倉府の樹立を目指して、

兵を挙げてから、 4ヶ月後の、

1440年の7月に、

結城城を幕府軍に包囲され

翌る、1441年、の、

永享 13年の、 4月16日に、

氏朝氏は、降伏を決意し、

幕府に降伏するに当たり

、 氏朝氏は、

城内にいる女子らの命乞いを願い出て、

足利幕府は、 その条件を、

すんなりと、 呑むが、

幼い春王君と安王君を女装させて、

女子に紛れさせて、 逃がそう❗

、 との、計略が、 結城氏にはあった。


春王君が、13歳で、 安王君が、 11歳だったので、

女子の格好をすれば、 様に成る、と、 結城氏らは、

踏んだのだろうが、

幕府の将兵らに、 2人は、

あっさり、見つかってしまう。


捕えられて、京へ護送される途中の、

5月16日に、 美濃の、垂井 タルイ

、 に差し掛かった時に、

護送役の、 長尾実景氏へ、

飛脚から、 手紙が届けられる。


いつもは、 夜遅くまで歩き続けるのに、

垂井で、 まだ、日の高い内に、

宿の手配がされる。


いつもと違う、その雰囲気に、

手紙の内容を 悟 サト る、 幼い兄弟。


手紙の主は、 義教将軍で、

その内容は、「 即刻、2人を斬れ❗ 」 、 だ。


再び、 輿に乗せられて、

亡き父との縁のある道場へ連れて行かれ、

道場に入ると、 上人と対面した。


上人曰く、 「 鎌倉殿からの恩を、

若君達へ返したい、 何か、

思し召す事があれば、お聞きしたい 」 。


この言葉を聴いて、 兄弟は、

自らの末期 マツゴ 、が迫っている、

事を確信した様だ。


2人は、 風呂を所望し、その身を清める。


その夜は、 酒宴が開かれたが、

警護の将兵らは、 春王ぎみ達の、

末期を察して、沈みがちだった。


春王君は、周りの空気を察して、

舞を舞い、 安王君も、一緒に舞った。


彼らの姿を見て、長尾氏の将兵らは、

涙を袖でぬぐった。

夜が更けて、

長尾兵らから、用意された、

布団で寝る様に促されると、 健気にも、

「 けして、泣いたり、

騒いだりせぬゆえ、 殺す時は、

起こしてたもれ 」 、と、

兄弟は、 頼んだ。


殺す役を命じられた、 漆崎小次郎氏が、

そっと、寝所へ入って行くと、

幼い兄弟は、 手と手を、 しっかりと、

結び合い、 一つの布団に、一つの枕で、

寄り添う様に、眠っている。


彼は、 むせび泣き、 しばし考えて、

やはり、 兄弟が言った様に、

起こしてから、斬るべきだ

、 と、結論に達し、 そっと、揺り起こす。


「 お命を頂戴いたしまする 」

、 と言うと、 2人は、 すんなり、

起き上がり、

「 もう、 覚悟は決まっている。

兄弟二人で死ぬる事、 嬉しく思う 」

、 と言い、 手を合わせながら、

小次郎氏の方へ、首を差し伸べた。


@ 安王丸君と春王丸君の乳母が、

捕縛され、京へ連行され、

厳しく取調べられ、

「 持氏殿には、

➕人余りの子があった❗。

安王丸ぎみ、 春王丸ぎみの他は、

何処へ落ちたか❗? 、

居所を白状すれば、 恩賞を与える。

隠すなら、 拷問にかけるぞ❗ 」 。


乳母は言った、

「 私は、安王丸様、春王丸様の、

他の方の事は、一切、知りませぬ❗ 」 。


幕府の奉行らは、 彼女に、

『 水火ノ責ニ及 』 、 んだ。


乳母は、一切を、口を割らず、

舌を噛み切り、自ら、死んだ。

( 上杉憲実記 ) 。


結城合戦の戦火は、

鎌倉公方の支配下にあった、

奥州にも飛び火し、 持氏どのの叔父で、

永享の乱では、 幕府側に寝返った、

篠川公方の足利満直氏が、

結城氏を支持する、 諸将に討たれた❗ 。


@ 中世の寺社は、 朝廷と、公家や、

武家などと並ぶ勢力 ;

≒ 権門らの一つ 、 で、

独自の基盤 ;

≒ 荘園や兵力 ; 、 を持ち、

自治の体制が整っていた。


特に、 中央の足利政権、 との、

結びつきが強い、 京都の近郊の、

大寺院らに、神社らは、

持つ権限も大きく、 頗 スコブ る、

威勢がいいので、 彼らは、時に、

嗷訴 ゴウソ 、 と称して、 乱暴をする。


※ 嗷訴… ;


為政者へ、集団で、要求を、

強引に訴える事で、

神輿とか、 南北朝の頃の、

荒くれ武者らでさえ、馬を降りて、

平伏したりしていた、宛てな、 御神木とか

、を、 かざして、 無敵な状態で来るから、

お手上げだった。


寺院だから、真面目に修行している、

僧らも、当然に、いる。 


彼らは、 学侶 ;

≒ 学僧 ; 、で、

武装しているのは、僧兵らだ。


当時の京都の近郊の二大仏教勢力は、

奈良の興福寺 ;

≒ 南都

、と、

比叡山延暦寺 ;

≒ 北嶺 、 で、 並べて、

『 南都北嶺 ナントホクレイ 』

、 とも称された。


彼らの要求な事らは、かなり、

理不尽な事が多いので、

それを批判される事もあるが、

当時の宗教勢らの全てが、

悪づいていた訳では、ない。


学問の場を与え、 地方自治を担っていた、 側面も強い。


例えば、

紀伊国 ;

≒ 今の、 和歌山県 ➕ 三重県の一部 ;

、 の、 根来寺 ネゴロデラ 、や、

粉河寺 コカワデラ 、の様に

守護大名の畠山氏に協力的で、

良好な関係を築いていた寺院らは、

在地の民や武士らの核として、

地域社会で、重要な機能をを担っていた。


宗教色が強く、閉鎖的で、

対立的な勢力らもあった。


奈良の興福寺は、 大和国 ;

≒ 今の奈良県 、への、

守護 、 という位置付けで、

武家じゃないが、 実質の守護大名 、だ。


在地の武士である国人 コクジン 、ら ;

≒ 国衆 ; 、を、 興福寺に属する、

「 衆徒 シュト 」 、か、

春日社に属する、 「 国民 コクミン 」 、 として組織し、

大和国を治めていた。


※合わせて、 「 衆徒国民 」

、 と、言う。  :


※春日社… ;

今の、 奈良の春日大社。 この時代は、

興福寺と、 ほぼ、一体 、 と考えていい。

神仏習合、で、一体化していた。


@ 室町幕府は、

寺社権門らと協調関係を築くことで、

在地の民らの心を掌握し、

間接での統治を実現していた。

ゆるゆるの、 " タノミマス政権 " 、

だった事は、 否めない…。


延暦寺の嗷訴に関しては、

鎌倉時代 、 以前から、久しく、

朝廷の悩みの種だったが、

室町時代に入り、 武家政権が、

京都を拠点にしてからも、

それは、続いた。 


特に、 室町時代の初期には、

南北朝の動乱で、 彼らの荘園や所領が、

武士らに押領 オウリョウ 、された、

事や、

幕府が、 禅宗を保護した事により

顕密仏教である、南都北嶺が、

危機感を抱いた、等の事情もあり、


神輿や御神木をかざしてこられると、

皆が、 それとの絡みようによる、

祟りを恐れたり、気味悪がったりして、

荒塊 アラクレ 武者らまでが、

ばかデカい神木が、 掛け声らも荒高い、

荒くれ法師らに引かれて来る様を、

目にも、耳にもすると

、 一斉に、 馬を飛び降りて、 平伏 ヒレフ す位に、

おどろおどろしい、

演出が成されてもいた様で

その大昔の、 平清盛氏の如く、

それにも構わずに、 神木へ、

矢を射当てる様な心構えのある人々も、

社会の一般の多数派の人々の、

心向きらを無視して観せるなどすると、

自らの実現したい、 何事らも、

滞ってしまうので

表向きだけでも、

神木などを引き連れて来る者らには、

敬意を払って観せる必要性などもあり、


基本的に、 嗷訴に対しては、

理不尽な要求事へでも、 幕府側が、

しぶしぶ、妥協する場合が、多かった。


当時の、 京都の近郊の大規模な寺社らは、

国家的な祈祷を行う存在でもあり

金融や物流といった、

経済の要 カナメ の系らでもあったので、

幕府にとって、 寺社権門ら

、 との、 良好な関係は、

政策な事らを実現してゆく上で、

とても、 重要な物だった。


※ 押領… ;

他者 ヒト の知行 ;

≒ 支配 、している所領を、

勝手に、 「 ここは、 今日から、

儂 ワシ の❗ 」 、と、

力ずくで、横取りする事。


※ 神輿 ミコシ・シンヨ… ;

神霊や御神体を乗せて運ぶ輿 コシ 。

興福寺にとっての春日社は、

延暦寺では、 日吉社 ;

≒ 今の日吉大社 :

滋賀県は、 坂本 ; 、に当たる。


寺院なのに、 神社の、

神輿・御神木を担いで、 嗷訴するのは、

神仏習合の思想に基づく事象。



◆◇ シナとの密約がある❗、

アメリカの裏の実態を明かした、

アメリカの要人からの直言❗ ;

2016/ 1/30 1:9:30 ;

http://www.news-postseven.com/archives/20160129_376559.html

http://www.bbc.com/japanese/video-35426196


☆ 三橋貴明氏❗ ;


所得「再分配」という貨幣のプール論


2020- 8-2 7:32:35

チャンネルAJER更新しました。

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勝利への道 反緊縮の「空気」を醸成せよ![三橋TV第269回]


https://youtu.be/unNBdih98Bo

 未だに政治家などが口にする、

「消費税は社会保障のために必要」

 といったレトリックは、完全に「貨幣のプール論」(商品貨幣論)です。


 上記レトリックは、金貨銀貨といった

「物理的形状を持つ貨幣」しか存在しない世界で、

貨幣のプールから、貨幣を取り出し(消費税)、それを

社会保障として再分配している、というイメージです。


 多くの国民が、「物理的形状を持つ貨幣」の流れ、つまりは

「嘘」で

消費税や社会保障支出を理解している

というのが現実でしょう。


 実際の貨幣の動きを見ると、銀行預金や日銀当座預金、国債といった

「データ」あるいは「数字」が

コンピュータ上で変わっていっているだけで、

物理形状を持つ貨幣は

(現金紙幣と硬貨しかないですが)

全く、動きません。


 そもそも、「所得再分配」という

言いかたが、おかしいのです。


何しろ、政府の支出は

スペンディングファーストなので、

所得を税金として徴収する「前」の段階で、

「分配」は終わっています。


 無論、国内の所得格差を縮小する、つまりは

高所得者層の所得を減らし、低所得者層の所得を増やす

という点で、累進所得税などが

有効であるのは確かです。


とはいえ、「所得再分配」と言われると、

「高所得者層の貨幣のプールから貨幣を奪い取り、低所得者層に分配する」

 というイメージになってしまいます。

 実際には、そんなことはしていません。


低所得者層への分配が先に行われ、

高所得者層からの徴税を

日銀当座預金の数字に変え、国債の償還をしている

のでございます。


具体的に書くと、政府の日銀当座預金が減り、

銀行の日銀当座預金が増え、

銀行のBSの借方、政府のBSの貸方に計上されている

国債の数字が減るわけです。


 とはいえ、BS

(バランスシート、貸借対照表)や

日銀当座預金など「貨幣の種類」について理解していない人が、

「所得再分配とは言っても、実際には

政府の指示で、低所得者層の預金の数字を増やし、

高所得者層の預金の数字を減らしているだけ」

 などと言われても、全くピンとこないでしょう。


 これは本当に、根が深い問題です。

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

『消費税めぐり自民党内に減税論 時限措置で経済刺激、英独は引き下げ

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200731/mca2007310500006-n1.ht


英国やドイツなどは

日本の消費税に当たる付加価値税の減税に乗り出した。


現段階で政府は否定的だが、安倍晋三首相が

消費税減税の判断を大義名分にして、年内にも

衆院解散に踏み切るとの見方は消えていない。(後略)』


 興味深いのは、後略部の菅官房長官の発言。


『ただ政府は消費税について「社会保障のために必要なもの」

(菅義偉官房長官)との立場を堅持している。』


 思いっきり、貨幣のプール論でございますね。


 別に、消費税が無く、PBが赤字だったとしても、

社会保障の支出が必要ならば、 普通に、

国債を発行すれば済む話です。


 つまりは、PB赤字の拡大ですが、

「PB赤字=政府の貨幣発行」でございますから

(インフレ率が許す限り)何の問題もありません。


しかも、日本銀行が国債を買い取れば、

政府の償還負担・利払い負担が

実質的に消滅するため、尚更、無問題です。


 とはいえ、菅官房長官を始め、政治家の九割以上、国民の99%が、

「政府が支出するためには、物理的な形状を持つ貨幣を、

どこかから調達しなければならない。

国民から消費税で調達するのも、やむを得ない」

 といった出鱈目というか

「非現実」を頑なに信じている。というか、

「もしかして、違うのでは?」

 と、疑うことすらしないわけですね。


太陽が東から昇るのと同じように、

「政府の支出には、貨幣の調達が必要」と、

誰もが思い込んでいる。


 改めて、これは大変な問題です。


 MMTが経済学的に説明した通り、

貨幣のプールが存在し得ないのは疑いないのですが、

誰もが頭の中に貨幣のプールを想像し、

おカネの流れについて思考してしまう。


 そして、貨幣観が違う以上、財政観が狂い、

経済政策を間違える。


 我々が普通に使っている

「所得再分配」という言葉そのものが、

貨幣のプールを想定していることに気が付き、

本日のエントリーを書きました。


皆様のご意見もお聞かせ下さいませ。

「正しい貨幣観に基づく経済政策を❗」にご賛同下さる方は↓

このリンクをクリックを❗ 。



◇◆ 日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。


日本人たちには、核武装❗、と、

地下避難網ら❗、が、より、

日本の内外に、本格的な、

平和性らを成し付け得てゆく上でも、

必要❗。


この事らを、 より、 日本人たちへ、

伝える措置を自ら成さない、 者らは、

より、 反日員としての、

負の度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを余計に成し、

より、 伝える措置を自ら成す主らは、

より、日本人たちの一般の、

足しに成り得る向きに、 働き得た主として、

正の向きの度合いを、 自らへ宛てて、

観積もらせる、 筋合いを成す。


差し引きで、 より、

どちら側であるかの、度合いを観積もられ、

その度合いらに相応しい処遇を、

宛てられるべき立場にも、

誰もが、ある。