経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

歴史拾遺 ヒロイ ; 謀りようらの累代性での差❗、 など 。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

☆ 謀りようの累代性での差❗、など ;

歴史拾遺 ヒロイ ;


藤原氏員ら、も、 北條氏員ら、も、

他の氏族勢らを、 政権の中枢への、

握接域から、排除する事へ向けて、

謀りようらを成す、事でも、

累代性を成す事において、

他の氏族員ら、に、

差を付け得た事をも、

要因性として、

その権力性、 などを、

より、 自らの身内員ら、で、

占め得た。


家文化の伝承において、

裏工作の成しようと謀りようとを、

より、 当たり前に、

累代の身内員ら、へ、

伝承し得た、 度合いを、

より、 余計に、成し得る、

氏族員ら、は、

氏族単位で、 政権や、

社会体制などが、 枠組みされる、

度合いが、 より、 余計に、ある、

社会らにおいて、

利権らを自らの側へ、

より、集め得る事などで、

他の氏族員ら、を、のける、

優位性を、 より、 余計に、

自らの側に、成し、

それに、 累代性を宛て付ける事でも、

より、優位性を成し得る、

が、

それは、

シナ朝鮮らの、

反社会的な、 部族倫理員ら、なり、

部族ヤクザ員ら、なり、や、

階級社会員でもある、

英米の富裕権力層員ら、

などにおいても、

あてはまり得て来てある、

事であり、

そうした、 より、 反社会的な、

部族社会員に過ぎない者らに、

因縁を付けられ、

たかられなどする、

標的にされて来てある、

日本人たちが、 より、 能く、

その、 行動原理な、 価値序列の、

観念体系らの一般性とあわせて、

理解する、 度合いを深め、

より、よく、対処すべき、

宛ての事でもある。



藤原 基経 ( ふじわら の もとつね ) 氏

836年 、 な、 承和 3年 ~

891年 、の、 2月24日 、 な、

寛平 3年 、の、 1月13日 ;

、 は、

平安時代の前期の公卿。

藤原北家、中納言、な、

藤原長良氏の三男。


摂政であった叔父な、藤原良房氏、への、

養子となり、 良房氏の死後に、

清和天皇・陽成帝・光孝帝・宇多帝の、

四代にわたり、 朝廷の実権を握った。


陽成天皇を、暴虐である、として、 廃し、

光孝天皇を立てた❗。


次の宇多天皇のときに、 阿衡事件 ;

( 阿衡 アコウ の紛議 ) ;

、 を起こして、

その権勢を世に知らしめた。


天皇から、 大政を委ねられ、

日本史上で初の、 関白に就任した。

852年、 な、 仁寿元年 、 に、

東宮で元服した際に、 文徳天皇が、

自ら、加冠する程の、 厚遇を受け、

正六位上に叙される。


斉衡年間 ( 854年 - 857年 ) 、から、

天安年間 ( 857年 - 859年 ) 、 に、

左兵衛尉、少納言、左近衛少将を経て、

蔵人頭に補せられ、

貞観年間 ( 859年 - 877年 ) 、に、

左近衛中将を兼任し、 参議に任ぜられて、

公卿に列する。


@ 応天門の変❗ ;


866年、な、 貞観 8年 、 に、

応天門の炎上に際し、

大納言、な、伴善男氏が、

左大臣な、 源信氏を誣告し、

右大臣な、 藤原良相氏が、

左近衛中将であった、 基経、へ、

逮捕を命じるも、 基経は、 これを怪しみ、

養父な、良房氏に告げ、

良房氏の尽力によって、

信氏は、 無実となった❗ 。


その後に、 密告があり、

伴善男氏が、 真犯人とされ、

流罪となり、 連座した、

大伴氏員ら、や、紀氏員らが、

大量に処罰され、 これらな、

上古からの名族員らへ、

大打撃を与えた❗ 。


同年に、 基経は、 従三位に叙し、

中納言を拝す。


その後に、 左近衛中将を兼ね、

更に、 左近衛大将へ進み、

陸奥出羽按察使を兼ねる。


870年、 な、 貞観 12年 、 に、

大納言に転じ、 872年、 な、

貞観 14年 、 に、 右大臣を拝し、

同い年に、 摂政だった、養父な、

良房氏が、 薨去し、 代わって、

朝廷において、 実権を握った。


基経の実妹な、高子女史は、

清和天皇の女御で、 第一皇子の、

貞明親王を生んでおり、

翌る年に、 従二位に叙される。


876年、 な、 貞観 18年 、 に、

清和天皇は、 貞明親王に譲位 ;

( 陽成天皇 ) 。


まだ、 9歳と、 幼少であったため、

良房氏の先例に従い、

新帝の伯父である、 基経は、

摂政に任じられた。


878年、な、 元慶 2年 、に、

出羽国で、 蝦夷の俘囚が反乱を起こした、

ために、 能吏で知られた、

藤原保則氏、と、 武人の、

小野春風氏らを起用し、 翌る年までに、

これを鎮撫せしめた ;

( 元慶の乱❗ ) 。


879年、 な、 元慶 3年 、以降の、

数年をかけて、 約 50年ぶりに、

班田収授を実施している。


同じ、 元慶 3年 、に、

菅原是善氏らと編纂した、

日本文徳天皇実録 ;

全 10巻を完成させた❗。


880年、 な、 元慶 4年 、 に、

基経は、 太政大臣に任ぜられ、

同い年に、 摂政を改めて、 関白となると、

『 公卿補任 』 、 等にあるが、

正史の、 『 日本三代実録 』 、 にはなく、

江戸時代に編纂された、

『 大日本史 』 、 等では、

この時の関白宣下を採っていない。


今日の歴史学者でも、 「 関白 」、

の呼称が成立していない時期に、

遡及させて、 関白への任命とする、

ことに、 疑問も出されている。


翌る年に、 基経は、 従一位。


@ 陽成天皇との関係 ;


882年、 な、 元慶 6年 、に、

陽成天皇が元服するが、 この頃から、

関係が険悪になった。


基経は、 辞職を申し出るが、

許されなかった。

これは、 この時代の記録に、

よく見られる、 儀礼的な辞退ではなく、

政治的な意味があった、

と、 考えられている。


その後に、 基経は、

辞職が認められないとみるや、

朝廷への出仕を停止し、

自邸の堀河院に引き籠もってしまった。


ただし、 清和天皇の譲位の詔に、

「 少主ノ未親万機之間 」 、 を、

摂政に任ずる、 と書かれている以上、

元服を機に、 親政 ;

( 天皇が、 万機を親らす ) 、 への、

準備を進めた後に、 辞表を提出し、

その後に、 自宅に退いて、

陛下の判断を待つのは、 当然の行為で、

しかも、 儀礼的な辞退の範囲とされる、

3度目の辞表の提出中に、

帝の退位騒動が起きたものであるとして、

これをもって、 基経、と、 天皇、

との関係性への判断は、 出来ない、

とする、 反論もある。


基経は、 その妹である、皇太后な、

藤原高子女史とは、大変に、仲が悪かった。


在原文子女史 ( 清和帝へのの更衣 ) 、

への、 重用を含めた、

高子女史の、 基経を軽視する諸行動が、

基経をして、後に、

外戚関係を放棄をしてまでも、

高子死と、 その子である、 陽成帝、とを、

政権から、 排除させるに至った、

との、 見方もある。


ただし、 在原文子女史を、 更衣として、

その間に、 皇子女を儲けたのは、

清和帝な自らだ。


高子女史が、 清和天皇との間に、

貞明親王 ( 陽成天皇 )、

・貞保親王・敦子内親王を儲けた、

にも関わらず、に、 清和帝は、

氏姓を問わず、 多くの女性を、

入内させ、 多くの皇子を儲けていた、

事から、

基経も、 母方の出自が高くない、 娘な、

頼子女史を入内させ、 さらに、

同じく、出自の低い、

佳珠子女史を入内させて、

外孫の誕生を望んだために、

高子女史の反発を招いた、

と、 見ることもできる。


883年、 な、 元慶 7年 、の、

11月に、 宮中で、 天皇への乳母な、

紀全子女史の子の、 源益氏が殺される、

事件が起きた❗ 。


それが、 本当に、 殺人事件なのか、

あるいは、 過失致死といった類の、

事故なのかは、 明らかではなく、また、

犯人も、不明❗ 、 と、 されたが、

宮中では、

陽成天皇が、 殴り殺したのだ❗

、と、 噂された。


この事件の直後に、 馬好きの陽成帝が、

厩を禁中に作り、 卑位の者に世話をさせ、

飼っていた事実が、 明らかになる。


基経は、 宮中に入り、

陛下への取り巻き員らと、

馬、 とを放逐させた❗ 。


後の記録には、 陽成天皇は、

暴君として描かれており、 それによると、

帝は、 蛙、蛇を捕え、または、

犬と猿とを闘わせて、 喜び、

人を木に登らせて、 墜落死させた、

という。


884年、 な、 元慶 8年 、に、

基経は、 天皇への廃立を考え、

仁明天皇の時に、 廃太子された、

恒貞親王に打診したが、

既に、出家していた、 親王から、

拒否された❗ 。


そこで、 仁明天皇の第三皇子の、

時康親王が、 謙虚にして、

寛大な性格であった、 ので、

これを、 新帝と決めた。


時康親王の母は、 藤原総継氏の娘な、

沢子女史であり、

基経への母な、 乙春女史とは、

姉妹であり、

基経は、 時康親王への従兄弟にあたる。


公卿を集めて、 天皇への廃位と、

時康親王の推戴を議したら、

左大臣な、 源融氏 ;

( 嵯峨天皇の第12皇子 ) 、 は、

自分にも、 その資格があるはずだ、

と、 言いだした。


基経は、 姓を賜った者が、

帝位についた例は、ない、 と退け、

次いで、 参議な、藤原諸葛氏が、

基経に従わぬ者は、斬る❗ 、

と、 恫喝に及び、 廷議は、 決した。


公卿会議の決定を持って、

陽成天皇に退位を迫った。

孤立した年少の天皇に、

抗する術は、なかった。


「 実質な上での、 関白への就任 」 ;


基経は、 時康親王を即位させた ;

( 光孝天皇 ) 。


光孝天皇は、 擁立に報いるために、

太政大臣である、 基経に、

大政を委任する詔まで発した。


これを、 いわゆる、

「 実質上の関白就任 」、

と呼ぶ事もある。


陛下は、 既に、 55歳だったが、

皇嗣への決定も、 基経に委ねるつもりで、

あえて、 定めなかった。


陛下としては、 天皇の位は、

基経の考えとして、 自身の妹である、

藤原高子女史の子であり、

陽成天皇の弟である、

貞保親王に継がせたいであろう、

と、 考えて、 基経に気を使い、

即位してすぐの、 6月に、

26人の皇子と皇女を、 全員を、

臣籍へ降下させて、 源氏とし、

自らの系統員らには、

皇位を継がせない事を訴呈 ;

アピール ; 、 した。


887年、 な、 仁和 3年 、に、

光孝天皇が、 重篤に陥った。

基経は、 相変わらず、 その妹な、

高子女史とは、 仲が悪く、

それが行き過ぎたか、 その子である、

貞保親王を、 自らへの甥である、

にも関わらずに、

避けてしまっていた。


そのような事もあり、 基経は、

貞保親王ではなく、 天皇の第7皇子の、

源定省氏を、 皇嗣に推挙した❗ 。


定省氏は、 陛下の意中の皇子であり、

陛下は、 基経の手を取って喜んだ。


もっとも、 定省氏は、

光孝天皇の即位以前より、

尚侍を務めた、 基経の妹な、

淑子女史に養育されており、

藤原氏とも、 無関係ではなかった。


臣籍へ降下した者が、 即位した、

先例が、 ない、 ために、

臨終の陛下は、 定省氏を、 親王に復し、

東宮となした日に崩じた。

定省氏は、 ただちに、 即位した ;

( 宇多天皇 ) 。


この宇多帝と、基経からは、

その女系らを通して、

佐々木道誉氏や、 織田信長氏、

などの、 子孫員らが、成されている。


@ 阿衡事件❗ ;


宇多陛下は、 先帝の例に倣い、

大政を基経に委ねる事とし、

左大弁・橘広相氏に起草させ、

「 万機は、 すべて、 太政大臣に関白し、

しかるのにち、 奏下すべし 」

、との、 詔 ミコトノリ ;

御言告り ; 、 をする。


関白の号が、 ここで初めて登場する。


基経は、 儀礼的に、 いったんは、

辞意を乞うが、 陛下は、 重ねて、

広相氏に起草させ、

「 宜しく、 阿衡の任を以て、

卿の任となすべし 」、 との、

詔をした。


阿衡とは、 シナの故事によるものだが、

これを、 文章 モンジョウ 博士 、な、

藤原佐世氏が、

「 阿衡には、 位貴しも、職掌なし 」、

と、 基経に告げたため、 基経は、

ならば、と、 政務を放棄してしまった。


問題が長期化して、 半年にも及び、

政務が渋滞してしまい、

宇多陛下は、 困り果て、 真意を伝えて、

慰撫するが、 基経は、 納得しない。


阿衡の職掌について、 学者に検討させ、

広相氏は、 言いがかりである、

事を抗弁するが、 学者らは、

基経の意を迎えるばかりだった。


結局は、 広相氏を罷免し、

天皇が、 自らの誤りを認める、

詔を発布する事で、 決着がついた ;

( 阿衡事件❗ ) 。


これにより、 藤原氏の権力が、

陛下よりも強い❗ 、 事を、 あらためて、

世に知らしめる事になった。


これを、 所謂、 「 正式の関白就任 」 、

と、 呼ぶ事もある。


基経は、なおも、 広相氏を、

流罪とする事を求めるが、

菅原道真氏が、 書を送って、

諫言して、 収めた❗ 。

この事件は、 陛下にとって、

屈辱だったようで、 基経の死後に、

菅原道真氏を重用するようになる。


宇多陛下と基経との関係は、

一応は、 修復され、政務を執り始め、

888年、 な、 仁和 ニンナ 4年 、

には、 基経の娘の、 温子女史が、

陛下への、 女御に上がっている。


891年、 な、 寛平 3年 、 に、

病床につき、 薨去。 享年は、 56 。

正一位が贈られ、 昭宣、と、

諡 オクリナ 、 され、

関白の地位は、 基経が亡くなった後も、

置かれた。


基経を中祖とする、 藤原北家、及び、

藤原北家と近しい関係にある、

村上源氏員らが、

朝廷の主流を占め続けた事もあり、

近代以前には、 暴君な、

陽成帝を廃した、「 功臣 」、 として、

昌邑王劉賀を廃した、

前漢の霍光に擬える説が、

儒学者を中心に唱えられた。


村上源氏の北畠親房氏は、

『 神皇正統記 』、 において、

廃位を称賛し、その、

「 積善の余慶 」、 によって、

基経の子孫院長が、

摂関の位を独占した、

と、 記述している。


芥川龍之介氏の短編な、

『 地獄変 』、 の冒頭に登場する、

「 堀川の大殿様 」、は、

基経、 と、 推測されている。



☆ インドには、

歴史的に、 大きく分けて、

二つの地域があるんや。

歴史な上で、 抗争の舞台になる、

ことの多かった、 アーリア人 ;

( コーカソイド ) ; 、

が、 中心の北部と、

比ぶるに安定している、 ドラヴィダ人 ;

( オーストラロイド ) ; 、の、

南部や。


ID:4kP ;

シナ朝鮮員らの側の者らにより、

日本でしか、 4大文明 、

などといった、 持ち上げようは、

成されていない、が、

四大文明の一つである、

インダス文明が成立したのは、

前 2千頃や。

この文明は、 非常に入念な、

都市計画に基づき、建設されたんや。

そのため、 非常に衛生的で、

ダスト・シュートや、

大浴場があったほどや。

しかし、 その後の、 前 千8百年頃に、

インダス文明は、滅亡❗ 。

詳しい原因は、 不明や。

インダス文明の遺跡である、

モヘンジョ=ダロは、 シンド語で、

「 死者の丘 」、 を意味するんやで。


ID:dyF >>6 ;

文明と言うても、 200年で滅んだんか、

もっと長く繁栄したイメージやったわ。


ID:4kP ;

その後の、 前 千5百年頃に、

イラン高原から、

アーリア人たちがやって来たんや。

ドラヴィダ系の先住民を征服していった、

アーリア人たちは、

インダス文明のような、 都市を作らずに、

農耕生活を営むようになる。


そして、 彼らは、

神への賛歌を書くようになるんや。

それが、 「 ヴェーダ 」、 や。

この時代は、 ヴェーダ時代と呼ばれ、

前後期があるんや ;

( 前期は、 前 1500~1000、

後期は、 前 1000~600 ) 。


その場は、

インド、パキスタン、バングラデシュ、

辺りやな。

時代によっては、

イラン、や、 アフガンの一部も入る。


ID:023 ;

ドラヴィダ人は、

今のインド人の顔付きの人々か。


ID:4kP ;

その後に、 アーリア人たちは、

先住民との区別をはっきりさせるために、

肌の色の違いで、

身分を分けるようになったんや。


それが、 『 ヴァルナ制 』、 や、

上から、

アーリア人のバラモン ( 司祭 ) 、

クシャトリヤ ( 武士 ) 、

ヴァイシャ ( 農員・工商人 ) 、

先住民のジャードラ ( 隷属民 ) 、

そして、 後に形成される、 不可触民や。


@ 免疫性らの、違いにより、

風土病らなり、 伝染病らなり、 によって、

侵略犯罪者な、 アーリア人めら、

が、 より、 やられないように、

自らの征服した宛ての人々などへの、

分け隔てようを、 より、

甚だしくもしていった、

と、 考えられてもいる。

・・その後に、 生まれや職業,

などの序列である、 『 ジャーティ 』、

と合体して、

インドの歴史に暗い影を落とす❗、

こととなる、

カースト制が生まれたんや。


ID:4kP ;

ヴァルナ制により、

バラモンの絶対的な地位が、

確立されたんやが、

勿論な事に、 これに反対する、

人たちもいたんや。


まずは、

ウパニシャッド哲学、いわゆる、

インド哲学の一つやで。これは、

バラモンの内部からの発祥やな。


梵我一如 ;

( 宇宙と個人との合一 ) 、によって、

輪廻転生を解脱する❗ 、

ことが、 基本や。


ここら辺は、

仏教に継がれている部分もあるな。

その後に、 反カーストの宗教として、

『 ジャイナ教 』、 が、

ヴァルダマーナ師によって開かれるんや。


ジャイナ教の特色は、

カースト制への否定と、

徹底した不殺生や。


不殺生の教えがあったから、

農員たちには、 広がらなかったので、

商人たちが、 支持基盤になったんや。


次は、 仏教❗ 。


仏教は、 シャカ族に生まれた、

ガウタマ=ジッダールタ師 ;

( ブッダ、 釈迦 ) ; 、 によって、

開かれたんやで。


こちらも、 反カーストで、

八正道 、 と呼ばれる、 修行によって、

四苦 ( 生病老死 ) 、 からの、

解脱を目的とするんやで。


インドでは、 この後に、

ヒンドゥー教に取り込まれて、

衰退したけれど、

東南アジア、や、 東アジアで、

広く、信仰されるようになるんや。


ヴェーダ時代が終わり、 インドは、

小国の抗争の時代に入った。


仏教、 などが開かれたのも、

この時代やな。

小国の中では、

マガダ国、と、 コーサラ国が、

特に、 強大だったんや。


しかし、 そこに、 西方から、


ID:vFy ;

ジャイナ教は、苦行で、餓死やんけ。


ID:4kP ;

前 320年代、 マケドニア王国の、

アレクサンドロス3世が、

ペルシア帝国を侵略した勢いで、

インドに侵入❗ 。


マガダ国と衝突し、

慣れない戦象や、 熱病に苦しむも、

槍に弱い❗ 、 と言う、

像たちの弱点を見抜き、

投げ槍で、 像たちを混乱させて、 勝利❗ 。


その後に、 アレクサンドロス大王は、

インドから撤退したが、

彼の侵入は、

インドの人々の統一意識を、より、高めた。


この頃に、 ヘレニズム文化の影響で、

ギリシャ風の彫刻 ;

( ガンダーラ美術 ) 、 が生まれた。


@ 女神な、 ヘレネ 、 の、

子孫員 ; ヘレネス ;

として、 自らを観宛てもした、

ギリシャ系員らによる、

文化性の物事ら、や、

それら風の文化性ら、 である、

ヘレニズム文化❗ 。


・・間も無く、

アレクサンドロス大王は、 亡くなり、

後継者を決める、

デアドゴイ戦争 ;

後継ぎ戦争 ; 、 が始まる。


インダス川の流域には、

ギリシアの植民国家である、

『 バクトリア 』、 が成立❗ 。


一方で、 インドでは、 前 317年頃に、

チャンドラグプタ氏によって、

初の統一王朝な、 マウリヤ朝が成立❗ 。


チャンドラグプタ氏は、

ヴァルナの下位の出身とも、

武家員、な、 クシャトリヤの子供、

とも、 言われるで。


「 インドのマキャベリ 」、

と言われる、 カウティリヤ氏は、

彼、への、 宰相兼軍師やった。


ID:Zz2 ;

実利論すこ。


ID:4kP ;

その後に、 三代目の、

アショーカ王の時代に、

マウリヤ朝は、 全盛期を迎え、

南部の一部を除き、

インドをほぼ統一する❗ 。


戦争で、 虐殺が起こったことを、

アショーカ王は、 非常に嘆き、

仏教に深く帰依することになる❗ 。


まず、 ダルマ ; ( 法 ) ; 、を、

統治の軸とし、

石柱碑や、 磨崖碑の設置、

第3回、の、 仏典集結、さらに、

セイロンへの布教も行った❗ 。


そんな、 アショーカ王も、 晩年は、

幽閉された❗ 、 と言われ、

彼が亡くなると、 マウリヤ朝は衰退し、

前2世紀に滅んだ。


仏典での、 アショーカ王への名は、

阿育王❗ 。


結構と、 駆け足で説明したけど、まだ、

古代の中盤なんよな。

個人的には、 中近世が、

一番に面白い、 と思う。


ちなみに、 インドで、 何故に、

映画が発展したか、 と言うと、

多言語国家で、 識字率も低い、

わけでは、 無いけど、 そこまで、

高くもないから、 映画なら、

言語が違っても、 映像で分かるやん❗、

って事で、

映画が盛んになったらしいで。


>>43 ;

インドに限らず、 紀元前は、

史料らを残す習慣が、 あんまり、

無かった❗ ;

( ギリシアとかローマは、

結構と、 残ってるけど ) 、 から、

年代とかへの把握が、 困難なんやで。


その後に、 インドは、 南北に分裂し、

北にら、 クシャーナ朝、 南には、

サータヴァーハナ朝が成立する。


そして、ここで、ようやく、

紀元前が終わり、 1世紀へ。


北部の、 『 クシャーナ朝 』、 は、

大月氏の出身の、 イラン系員でもある、

カニシカ王の代に、 全盛期を迎え、

第四回、の、 仏典集結が行われた。


この頃に、 龍樹師により、

大乗仏教が開かれる❗ 。


訂正するけど、

ガンダーラ美術が栄えたのは、

この時代やったで、 すまんな。


ID:XNV ;

インド人たちは、 ほんま、

歴史に興味がないらしいな。


ID:4kP >>51 ;

今は、 ネルー氏やガンディー氏の事も、

学校で、教わらないらしいで。


ID:XNV >>53 ;

原始仏教好きとしては、 もうちょっと、

資料らを残しといてほしかったンゴ。


ID:Zz2 ;

チョーラ朝とか、パーンディヤ朝とかいう、

くっそ地味な王朝。


ID:4kP >>54 ;

チョーラ朝は、 インドネシアや、

モルディブまで、 海軍を送ってるゾ❗ 。


ID:Zz2 >>55 ;

ラージェンドラ一世やろ?、 確か、

シュリーヴィジャヤ王国まで遠征したの。

これぐらいやろ、有名なの。


ID:vKi ;

やっぱり、 臣下の動向や、

気候や災害に、天文まで記す、

中国人らが、 異常なだけなんか?。


ID:4kP ;

大乗仏教は、 それまでの、

個人的な修行が中心の、

上座仏教とは、 違い、

社会の全体への救済を訴えたんや。

そのため、 上座仏教は、

龍樹師に、 小座仏教、

と、批判されたんやで。


ID:4kP ;

クシャーナ朝は、 3世紀に、

ササン朝ペルシャからの攻撃を受け、

滅亡❗ 。

一方で、

サータヴァーハナ朝は、

ローマと漢との交易の中継地として、

繁栄し、

ローマの貨幣も、 出土している。


サータヴァーハナ朝の滅亡後に、

南インドには、

ドラヴィダ人の諸王朝が建てられた。


その内の一つに、

強力な海軍を保持し、

セイロン、や、 モルディブを征服した、

チョーラ朝があった。


ID:4kP ;

諸王朝には、 チョーラ朝、

バッラヴァ朝、バーンディヤ朝、

などがあるで、 これらは、

中世の末期まで続いたものもある。


ID:pGp ;

謎に長命な王朝すき。



☆ モンゴル、を意味する、

ムガール❗ ;

ムガール帝国を語ろう❗ ;

2019/ 11/2 19:00 ;


決して、 無能では無いはずなのに、

死ぬほど、小物臭い、

フマーユーン帝が、好き❗ ;

フマーユーン帝 ;

インド,ムガル帝国の第2代の皇帝 ;

( 在位 1530 ~ 56 ) 。


初代皇帝の、 バーブル氏の跡を継いで、

帝位についたが, アフガン系の、

シェール・シャー、 と戦って敗れ,

イランに逃れて、

サファビー朝ペルシャの庇護を受けた。


1555年に、

サファビー朝の援助により、

インドを攻め, デリーを奪回して、

ムガル帝国を再建した❗ 。

その翌る年に、 不慮の死をとげ,

その子な、 アクバル大帝が、

13歳で、 帝位についた。


@ 1555年 ;


5月4日に、 -

ミシェル・ノストラダムス師の、

予言集が出版される❗ 。

9月25日に、

- アウクスブルクの和議が成立。

神聖ローマ帝国が、

ローマ教皇側の、 天国への、より、

唯一な、窓口としての、 権威性などを、

否認する、 ルター派を容認❗。


日本 ;

5月10日 ;

( 天文24年 4月20日 ) -に、

織田信長氏が、 その叔父の織田信光氏、

とともに、 織田信友氏の、

尾張の、 清洲城を攻め、

信友氏は、 殺され、 坂井大膳氏が、

今川義元氏のもとに逃れる。


信長氏は、 尾張の、 那古野城から、

清洲城に、 本拠を移す。


8月6日 ; ( 天文24年 7月19日 )-に、

武田晴信氏、と、 長尾景虎氏が、

犀川で激突する❗ 。

( 川中島の戦い ( 第2回目 )。


10月16日 ; ( 天文24年 10月1日 )に、

- 厳島の戦い ;

この時の、 毛利氏の、

陶氏の大軍を集めて、 撃破した、

戦いよう、 は、

台湾への、 シナの共産軍の攻め寄せ、

を、 討ちのけた時に、

台湾側に雇われた、 日本人な、

元の日本帝国の軍人によって、

活かされ得た❗ 。

11月7日 ; ( 天文24年 10月23日 ) -に、

改元して、 弘治元年❗ 。


11月28日 ; ( 弘治元年 閏 10月15日 ) -

に、

武田晴信氏と、 長尾景虎氏が、

今川義元氏の仲介で、 和睦を成立し、

撤退する。


@ >>2

短命政権が続いた、

デリースルタン諸王朝のあと、

ムガール帝国も、 2代目な、

フマーユーン帝で崩壊して、

同じ流れになりかけたんだが、

あの状況からカムバックして、

王朝を再興した例など、 世界的にも、

稀な奇跡だろう


日本史に例えれば、

大坂夏の陣に敗れた、 豊臣秀頼氏が、

明に亡命して、 15年後に戻ってきて、

徳川家光氏を打倒し、

豊臣の世を再興するのに相当する❗ 。


@ >>4

その場合には、 徳川幕府が、

スール朝に相当するわけだが、

スール朝も、二代目や三代目が、

しっかりしてれば、

もっと長く続いたのかも❗?。


5:

亡命生活の間に、すっかり、

ペルシャ文化に染まったフマーユーン帝。


大勢のペルシャ文化人を引き連れて、

デリーに帰還したため、 その後の、

インドは、ペルシャ文化の影響を、

強く受けて、大きく変化した❗ 。


7:

ペルシア文化は、ヨーロッパでいえば、

フランス文化みたいな位置づけだな。


21:

ムガール帝国の初代皇帝な、

バーブル氏が、自ら、記述した、

『 バーブルナーマ 』、 は、

日本語での完訳も出ていて、 日本でも、

比ぶるに有名だけど、

フマーユーンナーマも、なかなかに、

興味深い内容のようだね。

チャガタイ語の原典で、

バーブル氏自著の、

バーブルナーマに対して、

ペルシア語の原典で、

フマーユーン氏への異母妹な、

グルバダン・ベグム女史著の、

フマーユーンナーマってことだったか。


8:

近世のアジアの3大帝国のひとつなのに、

日本では、あまり、 関心が無いよね。

仏教国でないし。

ヒンズー教を弾圧したし、

インドでも、人気が無い。


9:

インド文化に傾倒して、

ヒンドゥー教との融和を図った、

第3代の、 アクバル帝は、

インドで、 評価が高い❗ 。


逆に、狂信的なイスラーム信者で、

ヒンドゥー教を弾圧した、

第6代の、 アウラングゼーブ帝は、

インドでは、 評判が悪いが、

パキスタンでは、 高く評価されている❗ 。


@ アクバル帝 ;

( 1542年10月15日 - 1605年10月27日 ) ;

、は、 北インド、ムガル帝国の第3代君主 ;

( 在位: 1556年 - 1605年 ) 。


アクバル1世、アクバル大帝とも呼ばれる。

アラビア語で、 「 偉大 」、

を意味する、 アクバル、 の名にふさわしく、

中央アジアからの流入者であった、

その祖父な、 バーブル帝の立てた、

ムガル朝を、 真に、

帝国と呼ばれるにふさわしい、

国家に発展させた。


アウラングゼーブ帝 ;

( 1618年11月3日 - 1707年3月3日 ) ;

、は、 北インド、ムガル帝国の第6代君主 ;

( 在位: 1658年 - 1707年 ) 。


アウラングゼーブ帝の治世は、実に、

49年もの❗ 、 長きに渡り、

その治世の前半は、

その曾祖父な、 アクバル大帝以来の、

繁栄が続いた。


アウラングゼーブ帝は、 若年から、

厳格なスンナ派の信者であり、

ムガル帝国の宗教政策を変えて、

帝国を、 イスラム教での、

規定事らから成る、 『 シャリーア 』 、

で、 統治しようとしたが、

その反面では、

アクバル大帝、 以来の、

融和路線に反する、

厳しい宗教政策によって、

ラージプートなどの、

異教徒の離反を招いた。


特に、 デカン地方に、

ヒンドゥーの復興を掲げた、

マラーターへの指導者な、

シヴァージーの抵抗には、 苦慮し、

長く、辛酸を舐めることとなった。


1681年以降に、 アウラングゼーブ帝は、

デカンへ、大挙して南下し、

ビジャープル王国、や、

ゴールコンダ王国を滅ぼし、さらには、

マラーター王国を南に押し返した。


が、 マラーターのゲリラ戦や、

ムガール朝による、 重税に苦しむ、

諸地方の反乱、と、

帝室における混乱といった、

様々な問題に悩まされ、 その晩年は、

悲惨なものとなった。


1707年に、 アウラングゼーブ帝は死に、

その死までに、 帝国の領土は、

最大とはなったが、 彼の死を契機に、

帝国は、 衰退と崩壊へ向かった。


10:

アウラングゼーブ帝も、

真の無能なら、まだ、 マシだったが、

こと、 軍事に関しては、

それなりに有能なのが、また、

不幸だった。

版図だけでいえば、

インド史な上で、 2~3番目まで、

拡大させたはずだが、

財政の破綻と、憎悪で、内部は、

ボロボロな状態に。

基本戦略が間違っているのに、

中途半端に有能で、邁進できてしまうと、

国を滅ぼす、 っていう一例だな。


11:

ムガール皇帝の肖像画をみると、

頭の後ろに、 金色の光輪が、

描かれていたりするけど、

イスラーム的には、 斡外 アット ;

アウト ; 、 じゃね?。


15: >>11 ;

それ以前に、ペルシャで、

人物画のミニアチュールが発達した時点で、

イスラム的には、微妙 。


16:

ペルシャ細密画は、

ササン朝ペルシャの美術品の、

流れを受けつぐ、 細密画 ;

( ミニアチュール ) ; 、 のこと。

そもそもは、 9世紀ごろに、

ギリシャの科学文献における、

挿絵として始まった、

と、言われています。


ペルシャは、 13世紀ごろに、

モンゴル人たちによる侵略をうけたせいで、

シナの美術が流れ込み、

東洋美術の影響を大きく受けて、

現在のペルシャ細密画、への、

原型ができあがった、

と、 考えられています。


成立の段階から、すでに、

多様な民族の芸術観や美術上の技術、

などが、 複雑に絡み合ってできた、

美術品です。


17:

イスラム教の偶像への崇拝の禁止は、

宗教的には、 正しい方針なのだろうが、

イスラム圏の彫刻や絵画の発展を、

止めてしまったのは、

深刻な、マイナス面 。


ササン朝以来の細密画の伝統を持つ、

ペルシャ美術を救ったのは、

中国とインドだった。


22:

ムガール帝国って、

室町幕府みたいな印象があるな。

足利義満氏 = アクバル1世 、

以外は、 gdgdで、 最後の、

100年間は、似たような状況だった。

2代目の皇帝の亡命は、

観応の擾乱、

アウラングゼーブ帝は、

第6代の、 足利義教将軍ってとこか。


@ 1441年、 の、

嘉吉の変 、 において、

極めて有能な将軍だった、

足利義教 ヨシノリ 氏は、

家来ではなく、 幕府での、

部下であった、 赤松氏の屋敷での、

宴席にある時に、

赤松氏の家来らによって、 首を打たれ、

切り殺される形で、 暗殺された。

23: >>22 ;

観応の擾乱みたいな、 兄弟間での戦争は、

ムガール帝国では、 代替わりのたびに、

毎度に、オナジミだ。

しかも、

足利尊氏氏と足利直義氏みたいに、

微妙に、遠慮しあうような、

優しい関係では、ない。

アウランゼーブ帝は、その兄の首を、

幽閉中の父に送り付けて、

父は、 所懼 ショグ ; ショック ;

、 で気絶した。


24:

アウランゼーブ帝の死去後の、

ムガール帝国は、形だけは存続していたが、

事実上の崩壊。


日本史でいえば、応仁の乱のあとの、

室町幕府 。

シナ史でいえば、安史の乱のあとの、

唐朝みたいな、 乱世に突入した。


26:

アウラングゼーブ帝の死去後は、

帝国の各地で、 反乱が頻発し続けた。

これに加えて、

帝国は、 代替わりごとに、

後継者争いを起こし、 遂には、

ズルフィカール・ハーンや、

サイイド兄弟といった臣下によって、

帝位が決定されるようになる。


1724年には、 宰相であった、

カマルッディーン・ハーン氏が、

デカン高原で独立し、

ニザーム王国を建設。


以後は、 帝国の地方長官が、

事実な上で、 独立し、皇帝は、

その形式的な上位者にすぎなくなっていく。


最早、帝国は、分裂状態となっていたが、

更に、南からは、

アウラングゼーブ時代には抑えられていた、

マラーター王国が、伸長してくる。


王国は、 各地の領主と、

マラーター同盟を形成し、

北インドは、おろか、首都な、

デリーを窺う程に、勢力を伸ばした。


西からは、

ナーディル・シャーが、

サファヴィー朝に代わって、

アフシャール朝を建てて、

ムガル帝国領に侵攻し、帝国は、

インダス川の以西の割譲を強いられた。


これ以後は、 帝国の動向は、

北インドの有力者らの動向に、

左右され続ける。


27:

アクバル大帝に倣って、 融和策をとるか、

あるいは、 初代と二代目に倣って、

一度は、 きれいに、

滅亡したほうが、よかったな。


28:

結局は、 ダーラー・シコー氏と、

アウラングゼーブ帝、との、 兄弟間での、

( 思想的・政治的 ) 、 立場の違いって、

そもそも、 何が、 始まりだったんだ。

幼少期からの師匠か侍従か、

誰かの教育方針の違いなのか、

身内員に対する、 思春期の頃からの、

警戒や反発の表れなのか、

対立党派らの間での、

権力争いの御輿にされて、

気が付いたら、

退くに退けなくなってたってことなのか。


34: >>28 ;

父のシャージャハーンは、

タージ・マハルに祀られている、

王妃な、 ムムターズ女史を、

深く寵愛していたために、

ムムターズ妃が産んだ子の、

ダーラーシコー氏を溺愛していた❗ 。


これに対する、

アウラングゼーブ帝の反感は、大きかった、

と、言われている。


アウラングゼーブ帝によって、

その父は、 塔に幽閉され、

タージ・マハルを見ながら、

幸せな日々の思い出に浸っていた、

シャージャハーンは、

ダーラーシコー氏の首を送りつけられ、

所懼で、気絶した


60: >>28 ;

色々とあっただろうが、代替わりのたびに、

兄弟が、 それぞれの軍隊を動員して、

戦争になるのは、遊牧系の帝国では、

毎度のオナジミのお約束だからなあ。


ダーラーシコー氏と、

アウラングゼーブ帝、との、

兄弟での対立に巻き込まれて、

悲劇的な晩年を迎えた父の、

シャージャハーンも、かつては、

親兄弟に、かなり酷い事をやってきた。


35:

こうしてみると、シャージャハーンは、

悲劇の人みたいだが、

シャージャハーンも、

父帝に反乱を起こして、 失敗したり、

兄に、陰謀をしかけて、 殺したり、

弟や従兄弟を処刑しまくってるので、

文句を言える立場ではない。


36:

アウラングゼーブ帝も、

ムムターズ・マハル妃が産んだ、

子供のはずだが、 なぜか、

愛されていなかった


37:

息子のシャージャハーンに、

クーデターを起こされ、

「 奴は、私の息子ではない 」、

と宣言した、 先帝の、

ジャハーンギールだったが、


そのジャハーンギールもまた、

父のアクバル大帝との仲の悪さは、

史上に有名。

「 よく、これで、

廃太子されなかったな 」、

というような、 エピソードが多い。


44:

アクバル大帝は、シナ史に例えれば、

漢化した北魏の孝文帝みたいなものか。


イスラム帝国のスルタンなのに、 妙に、

ヒンドゥー化していた。


ダーラーシコー氏に、 もうちょっと、

軍事的な才能があればな。

せめて、側近の言うとおりにしてりゃ。


50:

ヒンドゥーでは、聖人あつかいされる、

アクバル大帝だが、イスラムでは、

評判が、良くない。


イスラムで高く評価される人物は、

アウラングゼーブ帝。


51:

ムガール帝国っていうわりに、

歴代皇帝は、 イケメンばかりで、

ドルジ顔は、おらんかったんやね。


52:

そもそも、 ムガル帝国の呼び名は、

あくまでも、 他称であって、

歴代皇帝たちは、

そんな、名乗りはしてなかったからな。


62: >>53 ;

始祖の、 バーブル帝は、

「 ティムール帝国 」、

と、 言ってたらしい。


以後の皇帝は、

「 グラーカーニー 」、 などと呼んだが、

これも、 もとは、

ティムール帝国への異名であり、

意味は、 変わらない。


63:

ムガル帝国は、

モンゴルの後継国家というよりは、

ティムールの亡命政権としての面が、

強いからなあ。

ウマイヤ朝が、

イベリア半島に逃げて、

後ウマイヤ朝となったように、本当は、

ムガル帝国も、

『 後ティムール帝国 』、 とでも、

呼ぶべきなのかもしれない


64: >>63 ;

Wikipedia ; 「 ティムール朝 」、

によれば、 まさに、 そんな感じ。


・・ティムールの一代の征服により、

大版図を実現するが、 その死後に、

息子たちによって、 帝国は、

分割されたため、

急速に、 分裂に向かって、 縮小し、

15世紀の後半には、

サマルカンド、と、 ヘラート、の、

2政権が残った。


これらは、 最終的に、

16世紀の初頭に、

ウズベクのシャイバーニー朝によって、

中央アジアの領土を奪われるが、

ティムール朝の王族員らの一人な、

バーブル氏は、 アフガニスタンの、

カーブルを経て、 インドに入り、

19世紀まで続く、

ムガル帝国を打ち立てた❗ 。


65:

ティムール朝を滅ぼした、

ウズベクのシャイバーニー朝は、

サファヴィー朝イランに敗れて、

勢力が衰える。


ティムール朝の王族の少年な、 バーブルは、

イランの支援を得て、

サマルカンドを奪回し、一時的に、

ティムール朝を復活させた。


しかし、勢いを取り戻した、

シャイバーニー朝に、

サマルカンドを逐われて、

苦難の時期を迎えた。


バーブル氏は、 南下して、

アフガニスタンのカブールを占領し、

そこで、 再起を図る。


55:

モンゴル人というより、

トルコ人に近いんじゃないか。


@ といっても、 モンゴル人と、

トルコ人が、 どう違うかっていったら、

「 北アジアの遊牧民らのなかで、

仏教徒になったのが、 モンゴル人、

イスラム教徒になったのが、 トルコ人 」

、 というくらいだが。


@ モンゴル系とトルコ系って、

一応は、 言語レベルでも、

違いは、 大きいんだけどな。

同じ、アルタイ諸語に属すとは言え、

モンゴル語とトルコ語は、

それなりに、 違う部分も目立つ言語だ。


なお、 ムガル帝国の建国者な、

バーブル氏は、

チャガタイ・トルコ語で、

自伝を書いてる辺りは、 確かに、

モンゴル系よりは、

トルコ系に近い、 と、 思われる。


当時の中央アジアは、 基本的には、

トルコ系が目立っていた世界だ。


@ 要は、ティムール帝国の王族員たちは、

自らを、 「 グールカーニー 」、

と、呼んだ。

ムガール帝国の王族員たちも、自らを、

「 グールカーニー 」 、 と呼んだ。


彼らにとって、自分たちが、

ティムール帝国への後継者なのは、

当たり前の、事実だった。


75: 世界@名無史さん 2019/9/17 ( 火 ) ;

実際のところでは、

帝国への、 歴史的な呼称としては、

「 後ティムール朝 」、 でも、

「 グールカーニー朝 」、 でも、

良かったんだろうけどな。


それだけ、「 ムガール帝国 」、が、

定着していた、 ということだろう。


76:

モンゴル、への、 訛りの、

ムガール 、でも、 差し支えない、

と、 思うがな。

ティムールは、 チャガタイ・トルコ人で、

トルコ化したモンゴル系員であり、

祖先は、 チンギス汗と同祖。

代々に、 チャガタイ家から

嫁をもらってるので、 女系で、

ムガール皇帝にも、

チンギス汗の血は、 流れている。


58:

オスマン帝国と大清帝国は、

20世紀の初頭まで続いたのに、

ムガール帝国の崩壊が早すぎたおかげで、

インドは、 植民地になった


ヒンドゥー教徒との、

融和政策をやめてしまった、

アウラングゼーブ帝の責任。


@ アウラングゼーブ帝の、

瑕疵も大きかったが、

歴史な上で、 インドは、

統一できていたことが、

ほとんど、 なかったんだし、 たとえ、

アウラングゼーブ帝がいなくても、

遅かれ早かれ、 インドはまた、

分裂したんじゃないか、

という、 気はする。

その動きを、 アウラングゼーブ帝が、

早めてしまったことは、

確かかもしれないが。



☆ 三橋貴明氏❗ ;


☆ 勝機❗


2019-11-24 7:47:03

三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ blog

株式会社経世論研究所 講演・執筆依頼等、お仕事のご依頼はこちらから

三橋貴明のツイッターはこちら

人気ブログランキングに参加しています。


チャンネルAJER

『日本の少子化をくい止めるにはーその2ー(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.22

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

12月21日(土)シンポジウム「令和の政策ピボットは実現可能なのか?」が開催されます。

また、メルマガ「令和ピボットニュース」が始まりました。皆様、是非とも、メルマガ登録を!

一般参加可能な講演会のお知らせ。

年末特別講演会「京都大学大学院教授、元安倍内閣・内閣官房参与 藤井聡様」

2019年12月4日(水) 18:45~ 東京都新宿区

【MMT (現代貨幣理論)を学び、日本経済を展望する】

三橋TV第167回【日本史上最も深い民主制の議論をしてみた】



三橋TV第167回【日本史上最も深い民主制の議論をしてみた】

 何というか、

「アベノミクスの三本の矢は、一本目(金融緩和)は放たれたが、三本目(成長戦略)は単なるレントs-カーのビジネスになり、二本目の矢は放たれるどころか、自分目掛けて飛んできて緊縮財政」

 というのは単なる事実です。


 安倍政権を懸命に庇おうとする人ですら、

「安倍政権は財政拡大をしていた」

 と主張する人は、さすがに見かけません。


 むしろ、野党が「安倍政権は放漫財政」といった、事実に基づかない、見当違いの批判を展開していたので、「こいつら、本当にバカだなあ」という感想しか出てこないのですが、安倍政権が緊縮財政だったのは、統計が証明します。

【日本の企業・政府・家計・海外の資金過不足(兆円)】


http://mtdata.jp/data_67.html#kabusoku

 安倍政権は2013年のPB目標設定後、財政赤字を「着実」に削減し、2018年のPB赤字は、ついに2007年以来の最小値になったのです。


 わたくしは、別に安倍政権が緊縮財政だったことを責めたいわけではありません。それは、総理の価値観なり、政治的なパワーゲームの結果なのでしょう。


 安倍政権が国民を史上稀にみるほどに「貧困化」させたのであれば、その責任を採らせるべく動くだけの話です。


 怖いのは、上記が現実であるにも関わらず、

「いや、安倍政権は国民を豊かにした。財政を拡大した」

 といった、ウソが蔓延することです。これは、耐えられない。


 わたくしが財政や古代史の「ウソ」を暴き、容赦なき攻撃を加えているのは、ウソを許せないためです。わたくしは、「ウソ」が皆さんの想像を超える水準で、我慢できない(そういう性格)。


 苛政や悪政は、良い。いや、良くはないですが、人類はこの手のバカげた政治に、数千年間、苦しめられてきたわけで、苛政や悪政は、これは人類の日常です。

「苛政は虎よりも猛し」

 とは、中国のことわざですが、人類の歴史はこんなものです。


 まだしも、日本国の人びとは苛政に苦しめられることが相対的に少なかった。それで、いいです。


 問題は、苛政を苛政として認めず、

「我々は世界有数の豊かな民族だ。しあわせハッピー」

 とかやることです。北朝鮮か!韓国か!ウリナラマンセーか! 

 同じ日本人がこの手のことを言っているだけで、恥ずかしくて死にたい、マジで。

【歴史音声コンテンツ 経世史論】


http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/

※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。

 問題があるのかは構いません。問題があるならば、解決すればいい。


 本当の問題は、問題を問題として認めないことです。

『補正予算、10兆円規模が必要-自民・世耕参院幹事長

 自民党の世耕弘成参院幹事長は19日、政府が編成中の2019年度補正予算案に関し、10兆円規模が必要との認識を示した。経済対策として「十分な規模感を持つべきだ」とした。

 世耕氏はブルームバーグのインタビューで、災害による経済へのマイナスのインパクトが非常に大きくなっていると指摘。経済対策の延長としての災害対策・国土強靭(きょうじん)化を、「投資という感覚を持って、いかに生産活動やGDP(国内総生産)を落とさないかという発想でしっかりやっていくことも重要」と語った。

 このほか、人工知能(AI)や再生医療など最先端の研究にも思い切って投資すべきであり、「こういうことを全部合わせて財政出動をしっかりして景気を下支えしつつ、少し成長の芽を育てていくことがここから重要ではないか」との考えを示した。

 世耕氏は、アベノミクスの第2の矢である機動的な財政出動について、「第2の矢だけは1回もちゃんと打ったことがない」との認識を示した上で、「今回の補正予算はまさに正念場だと思っている」と強調した。(後略)』

 

 うん、第二の矢だった財政出動について「一回もちゃんと打ったことがない」というのは事実であり、我々が六年以上も指摘し続けてきたことですが、

「だったら、さっさと言えや!」

 という感想を持ったのは、わたくしだけではないでしょう。


 安倍政権のアベノミクスは「金融緩和+財政拡大+イノベーション」だった(総理が、当初は言っていた)にも関わらず、現実には「金融緩和+緊縮財政+レントシーキング」になり果てました。


 これは、いいです。我々が「民主制」に基づき、多数決で選んだ政権の結末ですから、責任も取りましょう。


 でも、

「アベノミクスで財政拡大したにも関わらず、デフレ脱却できない」

 これはおかしいよね?

 やっていないのだから。


 まあ、世耕議員が「第2の矢だけは1回もちゃんと打ったことがない」と認めたのは、大いなる進歩です(解決にはほど遠いけど)。何しろ、事実です。


 というわけで、世耕参院幹事長までもが認めたのです。安倍政権は、緊縮財政でした。


 この点を「野党」に突かせ、自民党に対抗させるのです。もちろん、自民党内の真っ当な財政拡大派を支援しても構いません。個人的には、誰が政権を担おうとも、バカげた緊縮財政が終わるなら、何でも構いません。


 七年近い安倍政権の緊縮財政が結果を残せず、財政拡大派(というか「普通の政策派」)に絶好のチャンスが訪れました。この機に財務省から財政主権を奪い返さない限り、我々に繁栄の未来はありません。皆さんのお子さん、お孫さん、その先の世代は、普通に「中華人民共和国倭族自治区」の住民でございます。


 そんな未来は願い下げならば、真っ当な財政政策への転換を求め、今こそ、攻勢をかけるべき時なのです。


 世論や政治家が変わり始めています。MMTも、理解する人が増えてきています。今こそが勝機です。

「真っ当な財政政策への転換を!」にご賛同下さる方は↓このリンクをクリックを!


本ブログへのリンクは以下のバナーをお使いください。


◆関連ブログ

日本経済復活の会のホームページはこちらです。

◆三橋貴明関連情報

新世紀のビッグブラザーへ ホームページはこちらです。

メルマガ「週刊三橋貴明~新世紀のビッグブラザーへ~」はこちらです。



☆ ガン細胞たちは、

ブドウ糖だけ、 を、

唯一の、主な、栄養分としてあり、

糖質を制限する事を含む、

ビタミン・ケトン療法は、

ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、

ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。

タンパク質たち、と、

ビタミン、たち、に、

ミネラル 、たち、を、 完全以上に、

飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、

一部の人々を除いた、

ほとんどの人々の健康性を成し続ける、

代謝ら、を、

完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、

これら、を、 より、 欠いてしまう事は、

万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、

より、 余計に、 成す事を意味する。


☆ Cancer cells

Only glucose,

As the only main nutrient,

Including restricting carbohydrates,

Vitamin / ketone therapy

Even if

you make cancer cells attack soldiers,

This will reduce

the possible degree of cancer.

With proteins,

Vitamins,

Minerals, more than complete,

Drink and eat, keep taking,

Excluding some people,

Keeps the health of most people,

Metabolism,

It ’s necessary to continue

to do more than perfect,

The more you miss these things,

Cause all kinds of illness,

possible degree,

More than that, it means to do it.


☆ いずれにせよ、

日本人たちは、 より早くに、

日本人たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、

与野党の、 主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、

そのまま、自らもまた、

オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、緊縮 、

を、 繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としてある、日本人たちへ、

物価だけではなく、

その労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、

押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、

解消し去ってゆく、 と共に、

日本人たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。


地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、

避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、

それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

わざわざ、 人々を誘導する事に類する、

行為であり、


日本の主権者としてある、

日本人たちの一般 、へ対して、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

行為なり、 態度なり、 であり、


日本人たちの一般の、 あり得る、

福利ら、を、 より、 能くも、

最大限にも、 成す事を、 約束して、

日本の社会に、 存在し、 存続する事を、

日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、

不作為型の、 行為なり、 態度なり、

であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い。