知的創造性、と、間違い得る事。 選びと意識
【 世界中の、 誰もが、 買い物を、全く、しない状況においては、
世界中の、 誰の売り事も、 全く、 成らず、
世界中の、 誰にも、所得に当たる何彼が、全く、成らないが、
買い物らを、 より能 ヨ く、 成す為に、
カネら等を使う事を、 無駄遣いを成す事である、 とし、
その、カネらを、 無駄につかわれたものである、 とする事は、
それに対して、 売り事らを成し得て、
収益なり、 所得の金額らなりを、 自らへ与え加えられる、 売り手らの側の人々の、
それらにもよる、 存続の価値性の大いさを、 否定してかかる事でもある。
売り手らが、 買い手らに成り、 買い手らが、
売り手らに成る事を繰り返してゆく事において、
国家なり、社会なりの、 主権者らが、
互いに、 互いへ、 収益なり、 所得に当たる何彼らなりを、 与え加え合ってゆく事が成り、
主権者らの一般に、 在るべき、 在り得る、
福利性のある物事らが、 成し加えられてゆく事も、 成るのであって、
そうした、 主権者らにおける、
売り買い取り引きらの連鎖循環系らが、
それ自らを成す、 在り得る、度合いを減らす行為らを成す事でもある、
主権者らの一般へ仕 ツカ えて、
主権者らの全体に、 在るべき、 在り得る、
福利性のある物事らを、 より能く、 成し、
その度合いを深めてゆく事を、 それへの執事の役にある、 自らの義務事項として、 自らの存在と機能らとを、 主権者から、 与えられてある立場にある、
中央政府の財政から出す、 カネら等の、 資本性
≒ 資本である物 、 資本である事 、
資本に成る物 、 資本に成る事 、
資本として機能する度合い 、 など 、 らの、
主権者らへ、渡され得る、
在り得る、 度合いを減らす事を含む、
中央政府の、 財政における、 引き締めなり、
緊縮なり、 を、 中央政府を営む役目を与えられてある、 執事の役にある、 役人らや、 政治家らなどが、 成し行う事は、
その者らが、 その主 アルジ に当たる、 主権者らの生業 ナリワイ らと、 賄 マカナ いらとを、
より能く、 主権者らに、 在るべき、 在り得る、
福利らを成すものにする 、 べき、 自らの義務事項に違反し、
自らへの主に当たる、主権者らに対して、
その、 在り得る、 福利らを未然に害 ソコナ う、
仇 アダ を成す、 裏切り行為を成す事を意味する。
実際に、 日本の、 財務省の役人らと、
与野党の主だった政治家らは、 一致協力して、
日本国民らへ、 その、 在り得る、 売り買い取り引きらの、 質としての度合いや、量としての度合いを減らし、
日本国民らに、 在るべき、 在り得る、
福利性のある物事らの成る、 質としての度合いや、
量としての度合い、を、 減らす、 状況性であり、
物や、サービスらの、 在り得る、 値段を、 より、 安くする、 ばかりではなく、
主権者らの、 労働らへの、 在り得る、 賃金なり、 給料なりを、 より、 安くしたりもする、
デフレ不況性 、 を、 押し付け続ける事を、
確実にする、 ものであり、
日本の主権者らの、 在り得る、 売り買い取り引きらの全体を、 確実に、 減らす事になる、
日本政府の財政から出され得る、 カネらを、
より、 少なくする事でもある、
日本政府の財政における緊縮を、 英米のカネ貸しらが、 主張する通りに、 自らも、主張して、
実行して来ており、
英米の金融員として機能する、 実態らを積み重ねて観せても来てある、 実質的な、 全くの、 反日工作員として機能して来てある者らであり、
この者らを、 その個々の主観の内容事らなり、
つもりなりによらずに、 実質的な、売国奴らとして処理してゆく事を無しには、
日本国民らの一般の側に立つ方の、日本国民らが、
より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、
避難経路らと、住める避難所らとを作り拡げてゆく公共事業らを、本格的に成す、より、 はるかに、
まともな、 日本政府を立ち上げて、
日本国民らのより多くの存続性を確保する、
在り得る、度合いを、飛躍的に高めてゆくのに、
より、 はるかに、 相応 フサワ しい、 日本社会の全体の状況を形作ってゆく事は、できない 】 。
自らの論説記事の引っ越し保管+改訂+;
元の blogの記事らを、こちらの blogらに写して置き、保存する事にしました。:
2008/ 10/20 1:41:
:
何かを欲求する事は、
自らに欠けている所があって、
それを補い充たそうとする、心的な行為である場合もありますから、
社会生活を為し得ている人には、 皆、
その欲念を満たす事によって得られる筈のものが、 :
その欲念のみたされる状態に至る以前には、
欠けている、 という事になります。 :
:
知性の起ち働く時の習性として、 :
その働きは、 精神をして、何らかの目的事
( もくてきごと ) を設定させてしまう所がありますが、:
:
【 アンリ・ベルグソン氏の著作に述べられた言い方だと、
『 知性が起ち働く時には、何らかの目的を目指して起ち働く、といった言い方、だった、 と、
思います 】 :
:
目的を設定して、
その達成へと、 心身の働きを向かわせる、
という事それ自体が、
自らに、 欠けている何かがある、
という事を意味しており、
完全自足の状態には、ない、
という事を示しています。 :
:
間違える、 間違えない、 という事らに絡めて、 能力的な、完全性、ないし、無限性、に対して、 :
『完全の語』を貼り合わせているのだ、 と、すると、 :
何者かが、 全能であるならば、 :
間違える能力も、 帯びてあれば、 :
間違えない能力も、帯びてある、 とも、捉え得ますから、
何かを間違える、
という事をもって、
必ずしも、 そこに、全的な能力の不成立がある、 と、 断定できる場合ばかりがある訳でもない、
とも、観なし得ます。 :
:
間違え、というものが、
何らかの意図があって、
その意図に沿った事の成立ちを得ようとする時に、
その意図に反したり、 その意図に沿わぬ事などを仕出かしてしまう、 といった事でもある、
としたら、 :
それは、 :
その主に、その意図に反する事や、
その意図に沿わない事らをも仕出かす、
能力があるもの、 とも、
思い構えて観る事ができます。
2009/ 2/18 20:56 :
:
【 蟻や蜂らの様な者らは、
その社会協同的な作業において、
諸々の動きらを選びかえる所が、
ほとんどないので、 :
それだけ、 『 間違いを犯す事が無く 』、
その作業らの相互の、綜合的な全体図式
ー すなわち、
ある幾通りか以上の作業行程らの組み合わせからなる、 幾通りかの形態を採り得る、 巣であったり、 :
営巣形態であったりするもの ー を、
ほとんど、 変更する事をなく、 :
一様で、 確定的なままに、 繰り返し得ているが、
そういった、
間違う能力を欠いた、生き物らには、
動きらを選び改めるのに必要な、
『 意識が欠けている、 と共に、
それだけ、創造的な知性が欠けており 』 、
その分だけ、
その行いらから、 間違いに相当する質のものらをも、 欠いてしまっている、 と、
観なす事もできる。 :
夢において、 我々は、
覚めている時とは、 異なる秩序のもとに、
物事を思い構え、
覚めている時には、 現前し得ていない、
亡き、 人や、ものなどを、
夢の中では、 現前し得ている様に思い込んで、
それへ対処しようとしたり、
覚めている時には、 親密な間柄の誰彼を、
夢の中では、 縁遠く、 素っ気ない間柄になってしまったものであるかの様に思いなして、 :
それへ対処しようとしたり、 と、 :
覚めている時の物事の秩序に対して、
何らかの点で、 真逆であったり、 :
ある事柄の全体の意味を変えてしまうほど以上に、
その構成事項らの取り合わせや、
構成ぶりなどが、 違っていたりする様な、
甚だしく、異なる秩序が、
夢の中の物事らに設定され得ている場合には、 :
我々は、 夢現 ( ゆめうつつ ) の間で、
覚めかけから、 深い眠りへ、
深い眠りから、 覚めかけへと、 行ったり来たりする、 その夢の途次 ( みちつぎ ) において、
かねて、気掛かりの取り組み事ら等にまつわる、 自らの精神系における、 あれこれの情報事項らが、
覚めている時であれば、 社会生活上、 どうしても為すべき、 諸対応への必要性から、
解き放たれてある分だけでも、
それだけ、 精神的な余力を殺 ( そ )がれる事をなく、 精神の、 より、 集中的で、 効率的な働きを得て、
それらな情報事らが、 より、整理され、 統合されもして、
それだけ、 筋道立ったものへと仕立て合わせられ得る状態を成すと共に、
ある気掛かりな事柄への、 ああではないか、
こうではないか、 と、 考えあぐねた経験知らの脈塊 ( みゃくれ ) を、 準備し得た所のある、
心が、 すでに在って、
初めて、 夢での、何らかの解決法や、
思考的な枠組みの発明なり、が、
それ自らの成立ちを得るのであろうが、 :
それには、 それを阻む働きらもなす、 意識勢が、 解枠 ( とわく ) される、 必要がある。 :
:
◇ 従って、 :
ある生き物について、 意識めいたものの有り無しを判定したり、 それがあるらしい場合の度合いを量って観たりする、事を、 目的事らとして、
実験らを行う場合には、 :
その生き物が、その動きらを選べるか、選べないか、 という事を判別するに足る、設定をする、
必要がある。 :
:
哺乳類などに観られる、 脳、に類する、と、
観られる、 器官、などを持ち合わせてはいない、
生き物であっても、 :
その生き物の行動系列らや、 その改変ぶりらなどへの観察において、 :
何らかの理由で、 その生き物に、動きらを選びかえる能力性
( 能力のあること。 能力のあるもの。
能力のある可能性 ) が、 認められる、 のであれば、 :
それは、 その生き物に、 意識が在り得ている、
一定以上の可能性がある、 という事を示唆する。 :
:
何をもって、
動きらを選びかえている、 ということの有無を判別すべきか、
あるいは、
動きらに相当する、様態らの変化の、 動的な系列らにおいて、
様態らを選びかえている、
ということの有無を判別すべきか、 については、 :
そうした事らを判別しようとする、
目的意識を持って、
実験らや、実験上の観察などを行う人たちが、
人が、 その動きら等を選びかえる際の、
脳波の変化ぶりら等に相当する、
何らかのものを、 実験の前に、
認め知って置き得ているか、 実験が進むと共に、 認め知り得てゆくかする、 必要があり、 :
ある生き物が、
その動きら等を選びかえる度に対応する、事象らの一定以上のものらを認識し、 その認識の内容事項を、その判別の基準に据える事が、必要となる。
☆ 【 何も間違わずに、 決まりきった手順で、 複雑な事らを繰り返し行う、
蟻や、蜂などの生物らの本能的な行動系は、 :
間 違えて、 手筋らを変え改める余地が、
乏しいものであれば、あるほど、 :
それだけ、知性的な精神の働きを欠いているもの、 と、 観なして、 よいものなのかも知れません。 :
:
間違える、という事が成り立つ前には、 :
意図、 ないしは、 目的の設定があり、 :
知性の起ち働く時の習性として、
目的事の設定を促す、所がある、 という事は、 :
知性の起ち働きの無い所には、 :
目的めいた事の設定が為されず、 :
どんなに複雑な、
動的な系列を繰り返し現す事のできる、
生物がいる、としても、 :
そこに、 間違い、と、 動的な図式らの系列の改変とがない、 のであれば、
それらがない分だけ、
その生物には、 知性が欠けており、 :
従ってまた、 :
場合場合の動きらを選ぶ役目を果たす、
【 意識、というものの覚醒度も乏しい 】 、
と、 思われます。
:
我々は、 ある運動に馴れきり、 :
その運動形態を変える事をなく、
繰り返し続ける時には、 :
その運動の各場面を構成する動きらを、
あらためて、 選びつなげる事が無くなり、 :
その動きらを選ぶ、
心 ウレ なる働きが、 無くなると共に、
その運動の構成動らへの意識を薄れさせ、
何か、違う事へと、意識を向け、
それが、
考え事そのものへ向かう場合には、
そういった考え事にふけりながら、
その馴れ切った運動の方は、
無意識的に行っていたりしますが、 :
急に、 その運動をやめざるを得なくなったり、
それと共に、
何か、 違う手筋の運動などをせざるを得なくなると、
その局面ごとに、 相応しい、 と思われる、
動きらと、 その組み合わせらとを、
その都度、 あらためて、 選ぶ必要に迫られ、
そういった、 動的な系列らを選ぶに当たっては、
その運動らの各部へと、 意識を対応させる事になりますが、
動きらを選ぶ所の乏しい、 :
【 間違いを犯さない 】、
決まりきった、 閉じた動的系列らの繰り合わせに終始する生物である、
蟻や蜂などにおいては、 :
【 動きの選りすぐりらを補佐する立場にある 】、
意識は、
その選動性が乏しい分だけ、 乏しい、 と、
思い構えて観る事ができます。 :
:
いずれにせよ、
【 間違うに至らしめる能力 】 には、
創造的な知性の発ち働きぶりに関連するもの、
として、 :
大いに見所がある、 という事になります。 :
:
◇ 夢の構築される場で促される、
創造的な知性の起ち働き 2009 /2/16 20:15 :
:
創造的な知性は、 間違う能力でもある。 :
逆に、 どんなに複合的な、 一連の作業らを、
整然と行い得る、 能力に富んでいようとも、 :
蟻や蜂らのような者らは、
その、社会協同的な作業において、 :
色々な動きら、等を選びかえる所が、ほとんどないので、 それだけ、 :
『 間違いを犯す事が無く 』、 :
その作業らの相互の、綜合的な全体図式を、
ほとんど、変更する事なく、 :
一様で、 確定的なまま、 繰り返し得ているが、 :
そういった生き物らには、 動きらを選び改めるのに必要な、 意識が欠けている、と共に、 それだけ、 創造的な知性が欠けており、 :
その分だけ、 :
その行いらから、 間違いに当たる物らをも欠いてしまっている、 と観なし得る。 :
夢において、 :
我々は、 覚めている時とは異なる秩序のもとに、物事を思い構え、 :
覚めている時には、現前し得ていない、亡き人やものなどを、 夢の中では、
現前し得ている様に思い込んで、 それへ対処しようとしたり、 :
覚めている時には、 親密な間柄の誰彼を、
夢の中では、
縁遠く、 素っ気ない間柄になってしまったものであるかの様に思いなして、
いわゆる、 :
【 夢のお告げ 】 、 などと言われる、
発見や、 発明への、
決定的な導 ( しるべ ) となる、ものを、
はっきりと、心得るに至ったりする場合もある、
と、 思われるが、 :
その場合において、 :
我々は、 間違いに間違いを重ねる事に、 何ら、
頓着する事なく、
言わば、 ある発明なり、発見なりへと、 思い至るまで、 徹底した試行錯誤らを、 その精神において、挙げ行い得た、 という事であり、 :
その創造的な知性を、 能( よ )く起ち働かしめ得て、 ある発明なり、 発見なりへと、 思い至るまで、 その一連以上の作業らを貫徹し得た、
という事である、 と、
思い構えて観る事ができます。 :
:
創造的な知性を能く発ち働かせ得る精神状態は、
間違いを犯さない事を、 第一位の優先事項とせざるを得ない、
てきぱきと、 決まり切った事を、
ある一定の時間内に、
片付けてゆく事に、 専念し得ているだけの状況に甘んじている場合の、 精神状態から、
一定以上の度合で、かけ離れた精神の状態であり、 :
湯あみで、 寛 クツロ ぐ心地や、
夢で、 様がわりをさせられた、 現 ( うつつ )
の秩序を構成し合う諸事象や、
その断片らの混交とに、
自らの構想能力を関わり与らせる際などの、
精神状態、です。 :
:
知性の起ち働く際の習性として、 :
暗黙のうちにも、
『 目的 』 である事を設定して、
知性は、 それを目指して起ち働いてゆく、と、
アンリ・ベルクソン師は、 指摘し得てくれているが、 :
準備され得ている心が、既にあり、
それが、 ある気掛かりな事柄についての、
ああではあるまいか、 こうではあるまいか、
といった、
考えあぐねらの積み重ねとして、在る、 という事が、 :
夢における、 何らかの解決法や、 思考的な枠組みの発明なり、
そういったものを経た上での、
具体的な物事の発見なりを可能とし、 :
潜在的にではあっても、 そういった、
発明なり、発見なりが得られる以前に、
何らかの、一貫した、目的を指して起ち働き続けていた知性の、
分析的な綜合の作用の産み出し得たものが、
その精神に、
理知的な筋骨材を形成し得ていた所が、 あったればこそ、
現の秩序をほぐしかえた、
夢の秩序との相互浸透的な作業によって、
発明なり発見なりへと至る、 決定的な知見の構築がなされ得るのであって、 :
そういった、 準備された心無くして、
そういった、 幸 ( さち )を得るに至るものでは、 なかろう、 と、 思われる。 :
:
【 幸運は、 準備された心に訪れる 】、 と、
パスツール氏の言にあるそうだが、 :
それはまた、
夢における、 創造的な知性の、
貫徹的な起ち働きぶりの前提にあるものへの、
示唆としても、 好適な物である様だ。 :
:
◇ 夢は、 眠りに依存するがゆえに、
夢による、 物事らの変性には、
眠れる状態を保護し、 維持する所がある様にも、
思われる。 :
例えば、 :
録音機の再生機能により、
大音量で、 音楽などが流れ続けている、
傍 カタワラ で、 :
夢うつつ状態に成り得ている場合などに、
うっすらと覚めた時には、 大きく聴こえる、
音らが、
夢の物語へ引込まれてゆく、と共に、
小さくなったり、
あるいは、
全く、 消音化され、
まるで、自分の傍に、音源などが、ないかの様な状態になったりする。 :
:
夢には、 脳が、 外来の刺激らの受け止め様を変えて、
その眠りの一定以上の継続を図る、機能を反映する所があり、 :
この眠りの守護者たる役割は、又、
これまで述べて来た事柄にも、結果的には、寄与する、所がある、 と思われる。 :
◇ 動きらを選びかえる事を無く、 :
【 同じ組合わせらの動きらの繰り返し 】 を
行ってゆく際には、 :
その一連の作業らは、 自動的なものとなり、 :
それへの意識が、薄れ、
我々は、
その自動的な運動らを続行しつつ、 :
気になる小説の続きや、 行きたい海の光景、
等といった、
何か、別の事柄に、 意識を向け当てがう、
といった様な事ができる。
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