経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

『 現在にしかない 』 、 観念らの成り立ち合う場において、 観念に、 無い、 実在としての規定性をも当てがわれ得る宛の、 実在格の、 時空 ; おさらい

【 シナの本国の学者までが、 通州事件を成して、

合法に、 シナにいた、 日本国民らを、強姦し、

なぶり殺しにする行為らを、 シナ人たちが成した、 事実の存在を認める記述を成した上に、

それを後押しした、 悪の張本人らが、 シナの共産党の者らである事をも、 認める記述を成してある、

というのに、


日本の、 シナ朝鮮らと、 アメリカやイギリスに、 ロシア等の、 多重な工作員として機能する、 実態らを成して来てある、 実質的な賊員らは、


通州事件に類する、 凶悪性を極めた事件らを、

シナ人らが、 日本国民らを相手に成して、

そのシナ人らを、 かばい立ての宛 アテ とし、

かくまいもして、 裁きに掛ける宛にもしない事にして、 その事後共犯者に、 自らを成した、

他のシナ人らをも、 国際法の規定事らの通りに、

日本国民らが、 自ら、 取り締まりの宛とし、

懲らしめに、 罰する、 懲罰の宛ともする他に、

無い、状況らが、 シナ人らによって形作られた事を、 原因として、

日本国民らが、 合法に、 シナ人らを懲罰する、

戦争行為らを成して、 東京裁判においてすらも、

日本国民らが、 南京への占領行為を成すに至る、

一連以上の軍事行為らを、 合法に、 成した、

事実が、 認定され得ている事などを、

何度も、 指摘し得て来てあるにも関わらず、


かつ、 その事らが、 公式の資料らによっても、

確認できるものらであるにも関わらず、


まるで、 存在し得ていない事らででもあるかの様に、 素知らぬ体 テイ を成して、

アメリカに後押しされても来てある、

シナ朝鮮らの、 ねつ造による、 反日プロパガンダ事項らを、 資料らにも述べられてある、 事実らによって、 訂正する事も、 批判する事も、 無く、

肯 ウベ なって観せる、 論弁らを成したり、

それらを成す者らに連携する行為らを成して観せて来てある事において、

日本国民らの一般に、 反社会的な、特殊な精神性が在り得ているかの様に、 日本の内外の人々の、

より多くへ、 思い込ませる、 心理性の圧力を成して、 日本国民らへの、 在り得る、 敵意なり、 害意なり、の、 より、余計に成る、 リスクらと、

それによる、 実害らとを、

日本国民らの一般に対して、 成し、加える、

実質的な、犯罪加害行為らを成して来てもある。


こうした、 実質的な犯罪加害者らを、 日本の一般社会から、刈り払ってゆく事にあわせて、

より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、

避難経路らと、住める避難所らとを作り拡げてゆく公共事業らを、 本格的に成し得る、 日本政府を、

日本国民らの一般の側に立つ方の、日本国民らは、

自らの内から、 仕立てるべきでもある 】 。



自らの論説記事の引っ越し保管+改訂+;


☆ 元ブログの記事らを、 保存の為に、

新規のブログらに移して置く事にしました。 :

08/ 11/13 22:56 :

:


【 デカルト氏以来、 座標に、

空間の相と運動の相とを表し、


観念の設定上の、 空間の諸相を貫く、

観念の設定上の、 運動の諸相をもって、

時間的な持続性の再構築をさえ、 なし得ているかの様な思い込みのもとで、


実際は、 単なる、 観念設定上の時間的な持続の諸相を列ねて観るに過ぎない、作業が繰り返されて 来た。 :

:


この時間的な持続性そのものと、

観念設定上の、その諸相の列ね合わせとの、

取り違えはまた、 :


時の唯一の居場所が、 現在だけである、

という、 自覚認識が、 それ自らの成り立ちを得る事を大い妨げる、 思い込みでもある、 要因 、

と、 なり続けても来た。 :



現在、 という、 この時の居場所には、

時としての間が無い、一瞬、など、というものは、 全く存在し得ない、にも関わらず、 :


我々は、 観念設定上の、 ある一瞬の空間の相を思い浮かべて観得る、 という、 ただ、それだけの事からもまた、 :


まるで、 時間 ( 時としての間 ) を欠いた空間が存立し得るかのように、 思い込んでしまうのである。 :



我々が、 時としての間が欠けた、 一瞬、 の、

空間を思い浮かべて観る時に、

実際に思い構えて観ている宛 アテ のものは、

空間の相であって、空間そのものではない。 :

:


空間そのものには、 一瞬たりとも、

時間的な持続性を欠いた、間、などが存在する事は、 ない。 :

:


空間は、 それ自体が、 時間的な持続性と、

相互に浸透し合っている存在であり、


少なくとも、 空間そのものには、

時間性が浸透しており、


浸透した時間性を抜きにして、

空間そのものを思い構えて観ようとしても、

それで、 観得る宛のものは、

観念設定上の、 『 空間の相 』 の方でしかない。 :


空間の相の方は、

時間性の浸透し得ている、

空間そのものとは、 違って、


時間的な持続性から、 切り離され、

時としての間が無い、 一瞬ごとのものとして、 個々別々に、 取り立てて観られ、

そうやって、

個別に、 列挙され得るがゆえに、 :


各々が、自らの領域に貼り付けられた運動の相などを、互いに観比べられ得るもの同士と成り、 :



その各々を、 時系列上の別々の箇所に置いて観られる事から、 座標などにおいても示され得るような、 ある地点から、 別のある地点までの、 運動の速度、など、といったものが、

思い構えて観られるような事にも成る。 :


しかし、

時と空間とが居合わせる、 唯一の場である、

『 現在 』 、 などという時の、

単なる、 観念設定上の空間の相の方ではない、

空間そのものの方は、

時間的な持続性を欠いた状態で、それ自らの成立ちを得る事など、 全くできない存在である。 :


というのは、 :

空間そのものが、 時間的な持続を欠いた、一瞬を持ち得る、等という事になると、 :


その一瞬以降は、

それ以前と同一質の空間が、全く欠けてしまうか、

あるいは、

空間とみなし得るものが、全く欠けてしまう、

という事を意味し、 :


それ以前と、 それ以降とでは、

全く、 空間的な一貫性のない、

別々の世界状況らが、 それぞれの空間や、

空間ならざるものと共に、 在るか、

ないかする他にない事態へ至るからであり、 :


空間そのものを、 時間的な持続性から切り離され得るものとして、 観念してしまう事は、


時そのものと、空間そのものとが、

居合わせている、 唯一の場である、現在が、

我々と共に、かくの如く存在し得ている、

にも関わらず、 :

それを、 時間的な持続性とは、 関わりの無いものででもあるかの様に、 思い扱ってしまおうとする、

規定性を、 自らの観念らにおいて、 成す事でも、 ある。 :

:


時としての間や、 諸物と、 そのへだたりとしての間とが、 居合わせている、

唯一の場が、 我々の居合わせている、

現在というものであり、

現在そのものには、

物や運動らの存在する間ばかりでなく、

時としての間の方も、 欠かす事は、できない。 :

:


我々が、 時としての間を欠いた、

観念の設定上の、 空間の相の方を思い構えて観る際に、

時間的な持続性の欠如に、 注目する事を無しに、

観念設定上の空間の相らを、時系列の観念設定の場に、 並べ置いて観る事によって、 :


空間の相らに含まれる、

運動の相らの、 時系列上への並べ置きをも、

果たし、 :


それで、 何と無く、 運動そのものをさえ再構築し得たかの様に思い込んでしまう所があるのは、 :


空間の相を構成する、 我々自作の秩序が現前するために、

時間的な持続性の無への、

正当な認知がなされないまま、 放置され、 :


時間的な持続性の欠如があるからには、

時間的な持続性を欠いた、観念設定上の空間の相らを、幾ら、列ね合わせて観ようとも、

そこに、 時間的な持続性が再構築され得たりは、

せず、 :

単なる、 観念設定上の時間的な持続の相が思い構えて観られるに過ぎない、 という事などへ、

気付きの作用が、 当てがわれない、 度合が成されるから、で、 :


我々の自らの観念の場において、

空間の相としての、 秩序が成り立ち、

その秩序へ、意識勢が当てがわれ合う為に、

時間的な持続性の欠如による、

時間的な持続性の再構築への、 不可能性が、

なおざりにされ、

観念の外のものとしての格を持つべき、

筋合にある、 実在の、時間的な持続性、についての、気付きと考察との作業が、 意識の外

( ほか ) に放って置かれてしまう為に、 :


時としての間 ( ま ) を欠いたものとして、

観念設定された、 空間の相らへと、 意識勢が、

ほとんど総出で、 向き合うに至る事は、

この空間の相らを操作するに当たって、

各々の操作の手順ごとの、 選りすぐりの監督たる、

意識勢の出張りが、 必要とされ、

空間の相らを基にして、

観念設定上の運動の相らを、

量の具体化され得たものであるかのような、

一貫性のある、 運動めいたものへと、成り果せ得るように、

時系列の観念の場へ並べ置き、 :

それと合わせて、

時としての間の長さ、といった、 量を具え得たかのような、

時間的な持続性の相らをも構成し果 オオ せようとするに当たって、

その各々の操作の手順を確認し、 選び立てるのに、 意識勢のたすけを必要とし、

その事前での、 待機の態勢を意識勢にとらせる事が、 都合の好い事でもあるからである、 と、 思い分けて観る事もできる。



自由な動きらへの、 選びの作業においては、


意識による、 確認作用が必要であり、

意識と共に繰り巡らされる、思案も必要である。 :

:


意識は、 動きらへの選りすぐりの作業を監督するに当たって、

無意識的な間違いらを補正し、 :

その意識の主にとって、 より望ましい選りすぐりが為される事を助ける。 :

:


自らの何らかの意図に沿わない、 間違いが、

自らによって為された、と、 自覚し得た時に、

我々は、 より意識の度合いを強めて、

その間違いを正す作業へ、 自らの諸能力の作用らを集中させようとするが、


その場合に、 我々が行う事は、

無意識の起ち働く度合を減らす事であったり、

ある意識的な作用と、 別の意識的な作用との混交による、 不具合の発生や、

それらの作用同士の打ち消し合い、といったものの発生などを予防する事であったりもし得る。 :

:


様々な方面らに、

意識勢が、分かれて、 対応する事は、 :

我々の常日頃の事であり、

それゆえにこそ、 我々は、 何事かへの、 自らの諸能力の集中を図 ハカ りもするが、

それはまた、 その何事か以外の物事に対して、

それ相応に、 無意識の起ち働く度合いを大きくするものでもあり得、 :


それは、 何らかの刺戟に対して、

自動的な一連の動作系列を発ち起こらせる、

可能性を大きくする事でもある。 :

:


意識勢の集中的な運用が、 むしろ、

間違いを引き起こしもするのは、

意識勢が、 ばらばらな、多方面の物事へ分かれて、同時に対応し得ている、お蔭でもある。 :

:


そういった意識同士においては、

その各々の覚醒の度合いに違いがあり、 :

ほとんど、無意識、といってよい程、

覚醒の度合いが弱いものもある。 :

:


何気なく行なう、

習慣的で、自動的な行為、などといったものは、

ぼんやりとした意識に照らされて、

自らに淡く観られるか、 観られないかの際

( きわ ) にあるような物らであるが、


いざ、その動きらへの採用を成す精神的な行為や、 廃しを成す、精神的な行為ら等を、選らばねばならぬ段になれば、


忽 タチマ ち、 その担当意識の覚醒の度は増して、 繰り巡らされ得る思案と、そこで二人三脚する度合いをも増す事と成る。 :

:


意識には、 断絶された、 意識上の事のいきさつを再構成する、 という、重要な役割もあり、 :


それがために、

日を置いた、 夢と夢との間には、 必ずしも、

前後の整合性が観られないのに対して、


我々が、 眠りや、夢から覚めた後で取り戻す、

意識においては、

記憶喪失の状態でさえなければ、 :


大筋で、 意識を、幾分か以上、失っていた、

眠れる状態、 ないし、 夢見れる状態より以前の、

意識上の事柄を、

一定以上の度合いで、 我々の意識は、

自らに、再構成して観せ、 :


記憶の諸断片の組み合わせらの物語る、事柄と、 記憶内容からの抽出事項としての、事柄や、

そのあらましとを、 :

あらためて、 自らの構成内容とする作業を行いもするのである。

:


そういった、 意識的な持続の作用によって、

時間的な持続性が思い構えて観られ、

そこから、 逆に、

時間的な持続性の相の下 モト で、

意識的な持続性の相をも含めた、 あらゆる事柄らが、秩序立てられ、 :


因果の順序に沿う形で、 並べ置かれて観られる、 物事同士の、 抽象的な図式たる、 時系列の観念が、 心構えられるに至る。 :



そうなると、 今度は、 記憶や、記憶との絡みでの痕跡的な効果などにしか、

その存在の影を思い観る宛にされる事のできない、

『 過去の諸事象 』 と、

感性的な諸性質の現前への自覚による、

『 現在の諸事象 』 とが、 明らかに区別され、 :


さらには、 過去に身を置いたつもりの自我が、 『 現在 』 を思い観る事から、


実際は、 『 現在そのもの 』 であり、 :


様相の成り変われる、現在でしかない、

『 未来 』 を思い構えて観るに至る。 :

:

こういった事が成り立つ過程もまた、

我々の、 『 現在 』 、においてのみ行われ、

決して、 我々は、 我々の各々の現在を離れ得ないまま、 現前しようのない、

過去と未来とを思い構えて観る事になる。



【 時間旅行者なる者も、自分の現在からは、脱け出せないので、現在のみを旅する 01

2013/ 8/24 13:26 】 ;



我々は、生きてある限り、

あるいは、 死後においてさえ、

いかにしようとも、 我々の各々の現在からは、

脱け出る事のできない存在であり、


時間旅行めいた事を行い得 ( え )、 :

過去めいた場に際会し得たり、 :

未来めいた場に際会し得たりするに至るとしても、 :

:

時間旅行者めいた、立場を占め得た場合の、

我々においても、 :

やはり、 我々は、 我々の各々の、

『 現在 』 と共にあり、 :


未来の事象めいた、事象や、

恐竜とか、古代の哺乳類とかが目の当たりにされたりする、 過去の事象めいた、事象やらが、

その場合の我々を、 取り囲んで、在り得ているかのように、

我々自らに、覚え、思われる、としても、 :


我々は、 我々自らの『現在』と共に、

在るのであるから、

それらの事象らなどは、

我々自らの現在の事象を構成する、ものである、 という事になり、 :


我々が、その各々の現在から、 一歩も、脱け出し得ないままである事には、 些 イササ かの変わりも無い。 :

:


我々と一体に成っている、 この『現在』には、

時間的な持続性の欠如する、 一瞬 、 などというものは、全く無く、 :


従って、 我々の現在には、

時としての間 ( ま ) が、

幾分かではあっても、 存在し得ている、

という事に成る、と、観るならば、 :


この時としての間においてこそ、

過去性と未来性とがあり、

それらの両性を持ち合わせ得ているものとして、

我々の現在が、 それ自らの立ち行きを得ているのだ、と思い捉えて観る事が、できる事は、できる。 :

:


我々の現在における、過去と未来とは、

記憶上に在らしめられるか、

一般的に、 予想などと呼ばれている、

思い構えの内に在らしめられるかの、

いずれであるかによらず、

感性的な諸性質の現前する現在において、

それ自らの有り様 ( よう ) なり、

有り得ようなりを、 思い観られる他に、ないものであり、

観念の枠組み設定の場において、

未来の事象と格付けて観られる、何事であろうと、 過去の事象と格付けて観られる、何事であろうと、現在の外の何かに根拠する事は、 無い 。