経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

限り無く、何々を欠いてある、 何彼 。 日本内外史略 12

【 限り無く、 何かの存在する、 度合い、

を、 欠いてある、 何彼 、

という、 観念な、 規定性を帯びさせて、


その、 何彼、を、 観念に成す事に基づく、

関係性らを成す事において、


観念な、 設定における、 存在である、

無 ≒ 在り得る、 存在ら、や、

現実態の、 存在ら、が、 欠けてある事や、

欠けて、在り得る事、 などを、

それ自らを成す規定性として、 在る、 もの 、

と、

それではない、 ものら、 とが、

関係性を成し合う、 もの同士にされる 、

場合ら、なり、 系ら、なり、 の、 中に、


微分や、積分なども、 含まれて、あり、


目に見える場合の、 点 、 としてある、

もの、 の、

それ自らに面積を帯びてある、

という、 属性 、 を、 取り去られても、

観念らの成り立ち合う場たちにおいて、

それ自らの成り立ちを得る事のできる、


それ自らに、 面積を帯びない、

位置 、 ら、 としての、 観念ら、 の、


その宛居 アテイ ・ 対象 である、 と共に、


その、 質としての内容のそのもの、 でもある、

観念な、 位置 、ら、や、

その、 各々 、 などのように、


関係性の枠組みを成す側の、

観念ら、なり、

観念な、物や事である、 観念性ら、なり、

を、

その、 何彼 、 として、

関係性らを成してゆく事において、


我々は、 微分や、積分に類する、

関係性らを、 無限に、 観念性として、

創り出してゆく事が、 できる。



何々を、 限り無く、 欠いてある、

何彼 、 といった、 観念な、 規定性らは、


その何彼、を、宛居とする、


観念な、

無限に成される、 分割性、 や、

無限に為される、 綜合性、 といった 、

ものらによって、

成される、 関係性ら、 を、

共に、 成す事において、


微分、や、 積分、に、 類する、

関係性ら、なり、 関係性の系ら、なり、を、

創り出す。



微分や、 積分に、 類し得る、

関係性らを創り出して、 観る ≒

観念する 、 事が、

何らかの分野において、

より、 有用性などのある、

物事ら、なり、 関係性ら、なり、 を、

創り出す事へ、つながり得る場合らにおいては、


何々を、 限り無く、 欠いても、 在り得る、

何彼 、 という、 もの、や、

そうした規定性、 を、 利用する事を、

思案視野に入れて置いて、

より、 いつでも、 思案材として、

利用すべく、 思い構えても置く事が、


そうしたものらを創り出す事への、

あり得る度合いを、 より、 余計に、

創り出す事にも、 成る 。


いずれにせよ、

日本国民たちは、 より早くに、

日本国民たちの足元の、 地下へ、 より、

どこからでも、 より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、 与野党の、

主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、

自らもまた、 オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、 緊縮 、 を、

繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としての日本国民たちへ、


あり得る、 物価だけではなく、

その、 あり得る、 労働らへの賃金らの水準へも、

より、 押し下げる向きへ、 圧力をかける、

要因らの系である 、

デフレ不況性 、を、 押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、 解消し去ってゆく、

と共に、

日本国民たちの防衛性の度合いを、

飛躍的にも高めてゆくべき、

ぎりぎりの状況にも、 ある 。



地上を襲い、 地上をおおい得る、

あり得る、 色々な、 災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、 避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、 それらへ誘導する事は、


人食い鮫 ザメ どもの住む、 海辺へ、

人々を誘導する事に類する行為であり、

日本の主権者として、 日本国民たちの一般 、

へ対する、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなり、 の、 立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、


日本国民たちの一般の、 あり得る、 福利ら、を、 より、 能くも、 最大限にも、 成す事を、

約束して、 日本の社会に、 存在し、 存続する事を、 日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、 不作為型の、

行為であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

それを成す主 ヌシ 、 らの側に、

成すものである事に、 変わりは、 無い 】 。



☆ 複数の 、 務録 ブロク ≒ blog 、

らへ、 同時に、 記事を発信をしており、

頂く、 論弁らの、 一つ、一つへの返信は、

出来がたいので、 ご容赦を頂きたい。


その論弁欄らは、 情報交換の場などとし、

日記代わりにでも、 詩律句を発表する場としても、 好きに、 使われたし。



☆ フェイスブック ; 小平博美さん ;


知り合いから、 ラインがありました。


『 警察署に通う方から来たメールです。

必ず、 読んで下さい。

知らない人が、 路上で、 接近して来て、

乾燥海産物をおすすめして、

販売しようとしながら、 一回、 味見をしてとか、

臭いを嗅いでとか、 言われたら、

絶対、 絶対、 しないで。


海産物ではなく

( エチル・エーテル ) 、 1種の麻酔薬で、

臭いを嗅いだら、 意識を失う。


中国から来た、 新しい犯罪である。

周囲へ、 広く、 知らせて下さい。


実際、 事件発生、 臓器売買してるそうです。

特に、友達や親戚に、是非、 伝えて下さい。


このメールを受けたけど、

一人だけで知っているのは、 とても深刻である、

と、 思って、 送ります。

周辺の知人達に、巻き込まれないように、

早く伝えて下さい。 』



☆ 根途記事➕論弁群➕;


アリー氏が、 カリフに就任した事へ対して、


シリアへの総督としても、あった、

同じ、 クライシュ族、の、 ムアーウィヤ氏や、

預言者である、 ムハンマド師への、

晩年の妻で、 初代の、 正統な、 カリフの、

アブー・バクル氏への、 娘でたる、

アーイシャ女史 、は、 これに、 反発した。



656年、に、

アリー氏は、 まず、 アーイシャ女史の派員らを、 ラクダの戦い

( アラビア語: موقعة الجمل‎ mwaqah al-jamal )

、 で、 退けた。



ムアーウィヤ氏は、 彼と同じ、 ウマイヤ家の、

第3代の、 正統な、 カリフの、

ウスマーン氏を暗殺したのは、


アリー氏の派員である、 として、

血の報復を叫んで、 657年、 の、

スィッフィーンの戦い 、 で、

アリー氏勢と激突した。


戦闘では、 アリー氏勢が、 優位に立ち、

武勇に優れた、 アリー氏を、

武力で倒すことは、 難しい、 と、 考えた、

ムアーウィヤ氏は、 策略をめぐらせて、

アリー氏と、 和議を結んだ。



この結果において、 ムアーウィヤ氏は、

敗北を免れたことで、

ウンマ ≒ イスラム教徒らの共同体 、

における、 一方の雄としての地位を確保し、


アリー氏は、 兵を引いたことで、

支持の一部を失うことになった。



アリー氏が、 ムアーウィヤ氏と和議を結んだ、

事に反発した、 アリー氏への支持者らの一部は、


ムアーウィヤ氏への徹底抗戦を唱えて、

アリー氏と決別し、


イスラーム史上で、 初の分派と言われる、

ハワーリジュ派

( ハワーリジュ 、 とは、

「 退去した者 」 、 の意 ) 、 を形成した。



☆ ムアーウィア氏の身内員である、

第3代の、 正統な、 カリフ、を、 殺した、

側の、 部族員ら、や、

それらへ、 暗殺の事の後で、ではあっても、

合力 ゴウリキ 、 をして、

その、 事後での、 共犯者と成っていた、

人々や、 その、部族員ら、などにとっては、


その罪を問う、 最大の実力者である、

ムアーウィア氏と、 それに合力する、

主だった人々を、 より、 徹底して、

無力化する事こそが、


彼らと、 その子孫員らとを、 より、能 ヨ く、

安泰な身の上にする、

最たる社会保障性 、 を、 自らの側に、 成す、

事であり、


そうした人々から、 最たる社会保障性、を、

奪う形を成してもしまう、

ムアーウィア氏との、 和議を成してしまった、

アリー氏は、


明智光秀氏から、 実質的な、

社会保障性への期待を、 大いに、 奪い去る、

家来らへの、 あしらいようらを成してしまった、

織田信長氏、と、 同じく、

自らへの、 不安に駆られた主による、

殺害への、 可能的な度合いらを、 高めてしまい、

実際にも、 暗殺されてしまう事になる 。


・・ムアーウィヤ氏は、 660年、に、

自ら、 カリフを称した。


ハワーリジュ派員ら、 は、

アリー氏 、と、 ムアーウィヤ氏 、や、

その副将の、 アムル・イブン・アル=アース氏へ、 刺客らを送った。


アリー氏と、 その支持者らは、

勢力を拡大し続ける、 ムアーウィヤ氏らとの、

戦いに加えて、


身内から出た、 それだけに、

アリー氏らについて、 内情な事らの、

所々を、 知っている、

ハワーリジュ派員らにも、 対処しなければ、

ならなくなり、 疲弊を余儀なくされた。



アリー氏自らは、 ムハンマド師の存命中の、

ウンマへの防衛や、 異教徒らへの侵略の、

ための戦いで、 活躍したが、

それは、 多くが、 数百の手勢員らを率い、

自らも、 先頭に立って戦う、

野戦指揮官として、 であり、


個人的な、 武勇や、 戦術を超えた、

数万の軍隊員らを指揮する、 戦略や、

有力な軍司令官や、総督を引き込む政略では、

ムアーウィア氏の実績に、

その実績らにおいては、 及ばなかった。



ムアーウィヤ氏は、 刺客の手から、 逃れたが、

一方で、

アリー氏は、 661年、 に、

クーファの大モスクで、 祈っている最中 サナカ

に、

アブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャム、

により、 毒を塗った刃で、 襲われ、

その、 2日後に、 息を引き取った。


正統な、 カリフの4代のうちで、 実に、

その、3代までが、 暗殺されたことになる。



アリー氏への暗殺により、

ムアーウィヤ氏は、 単独のカリフとなり、

自らの家系員らによる、 カリフの位への、

世襲 、 を宣言し、

ウマイヤ朝を開くことになる。



これに反発した、 アリー氏の支持者ら、は、


アリー氏と、 その嫁である、

ムハンマド師の娘である、

ファーティマ女史、 との、 子である、

ハサン氏、 と、 フサイン氏、 および、

その子孫員らのみが、

イスラム教徒らへの、 指導者たりうる、

と、 考え、


彼らを、 無謬の ≒ 誤りの、無い 、

イマーム ≒

その宗教員らへの総帥 、 と、 仰いで、

『 シーア派 』 、 を、 形成していく。


これに対して、

ウマイヤ朝の権威を認めた多数派員らは、

後世において、 スンナ派

≒ 慣わし派

( スンニ派 ) 、 と、 呼ばれるようになる。



今の、 イランや、 イラク、 などに、

派 、 を、 意味する、 シーア 、 の、

派員らが、 多数派員として、 あり得てあり、


それらの他のイスラム圏の地域らでは、

スンナ派員ら、が、 多数派員として、

あり得てあり、

全体としては、 スンナ派員らの方が、

シーア派員らより、 何倍も、 多く、

在り来たってある 。




☆ その頃の日本においては ;


聖徳太子が、 摂政として、 補佐していた、

推古女帝 、 の、 第8年である、

西暦における、 第6百年、 の、 2月に、


倭国は、 日本列島と、シナとの間の半島の、

南部を占めてある、

日本人たちの開拓地である、 任那 ミマナ を、

救援するために、

新羅へ、 出兵し、

境部臣 ( さかひべのおみ ) 氏を、

征討大将軍に、 任命し、

副将軍を、 穂積臣 氏 にして、


五つの城を攻め落とし、 新羅は、 降伏した。



新羅 シラギ の主らは、

日本側との約束事らを破ったらしく、


日本側は、 さらに、 多多羅 ( たたら )、

素奈羅 ( すなら ) 、

弗知鬼 ( ほちくい )、 委陀 ( わだ ) 、

南迦羅 ( ありひしのから ) 、

阿羅々 ( あらら ) 、 の、

六つの城を、 攻め落とした。



難波吉士神 ( なにわのきしみわ ) 、氏を、

新羅に派遣し、 また、

難波吉士木蓮日 ( なにわのきしいたび ) 、 氏を、 任那に派遣し、


両国が、 倭国へ朝貢する事を約束させた。


しかし、 倭国の軍が、 帰国したのちに、

新羅はまた、 任那へ侵攻した。


翌る、 推古女帝の、第9年である、

6百1年、の、 3月には、


大伴連囓于 ( おほとものむらじくひ ) 、氏を、 高麗 ( こま ) 、 に派遣し、

坂本臣糠手 ( さかもとのおみむらて ) 、氏を、 百済へ派遣し、 任那への救援を命じた。



推古女帝、の、 十年 、 である、

6百2年、 の、 2月、に、


聖徳太子の、 弟の、 来目皇子 、 が、

新羅征討将軍として、

軍の、 二万五千を授けられ、 4月に、

軍を率いて、 筑紫 ツクシの 、 国に至り、

島郡に屯営した。


6月3日、に、

百済より、 大伴連囓于氏と、 坂本臣糠手氏が、

帰国し、

来目皇子が、 病を得て、

新羅への進軍を延期し、

来目皇子は、 征討を果たせぬままに、

翌る、 推古女帝の、 第十一年 、 である、

6百3年、 の、 2月4日、に、

筑紫にて、 薨去された。


来目皇子は、 周防の娑婆

( 遺称地は、 山口県は、 防府市の、桑山 )

、 に殯 モガリ 、し、

土師猪手氏が、 これを管掌した。



603年でもある、 推古女帝の、 第十一年、

の、 4月に、

来目皇子の兄である、 当摩皇子

( たぎまのみこ ) 、 が、

新羅征討将軍に任命され、

その十一年、の、 7月3日、に、

難波より、 出航し、 7月6日、 に、

播磨 ハリマ 、 に到着するが、

その妻の、 舎人皇女 ( 欽明天皇の皇女 )

、 が、 赤石にて、 薨去したために、

当摩皇子は、 朝廷に帰還し、

計画は、潰 ツイ えた 。



その後の、 646年、 でもある、

大化2年 、 の、 2月まで、


任那は、 高麗・百済・新羅とともに、

倭国へ、 調 ミツキ ≒

ツキ 、 ミツギ 、 を、 納めていたが、


同年の、 9月に、

高向博士黒麻呂 ( 高向玄理 ) 、氏が、

新羅へ派遣され、

質 ( 人質 ) 、 を送ることと、引き替えに、


これまで、 「 任那の調 」 、 の、

代行しての納入を、 新羅に求めることは、

廃止され、 質として、

金春秋 ( 後の武烈王 ) 氏を、来日させる、

などしていた 。