経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

観念系らへの、内因性らの秩序性らを無みしても観せ得る、外因性ら 。 飛虎将軍廟

【 時点ら、を、 宛居 アテイ ・ 対象とし、 かつ、 その、 在りようら、や、 在り得よう、を、

それ自らの質としての内容な、事として、

含んで、 成り立つ 、 観念ら、 や、

それらの、 規定性なり、 秩序性なり、

との、 関係性らを成して、


時点ごとのものとして、 観宛 ア てられ得る 、

可能的な、 運動の、 停止されてある態、の、

相らの各々 、 などへの、 観念らは、


観念な、 分割性なり、 分析性なり、の、

起ち働きようらにも基づいて、 成り立つ、

度合いを帯びて、 成る 、 ものら、 である、

のに対して、


時点ら等への観念らに先立って 、 成り立つ 、

今として 、 在る 、 時の間 マ 、 を 、

それ自らの成り立ちようら、 において 、

創り出して、 来てある 、

我々の各々の 、 観念な 、 感じようら 、 や 、

観ようら 、 などの 、 観念性らは 、


より、 そうした、 観念な 、 分割性なり 、

分析性なり 、 に、 依る事を 、 無しに 、


それ自らの成り立ちようら 、を 、

在らしめられて、 来てある 、 ものら 、 であり 、


より、 自ら、ら、 にも基づいて、

より、 自ら、ら、の、 後に、

それ自らの成り立ちを得る、 観念性ら、の、

分割性や、 分析性、を、 成してもある 、

規定性ら、なり、 秩序性ら、なり、 に、

照らして観た場合に 、


それらへの、 違反性なり、 相反性なり、 を 、

在らしめられてある 、 度合いを成してある 、

としても、


それは、

我々でもある、 観念系らにおける、

内因性らにもよる、 度合いが、 余計にある 、


より、 観念な、 分割性や、 分析性 、

など 、 との、 関わり 、 を、 無しに、


それ自らの成り立ちようら、 を 、

観念系らへ対する、 外因性ら、 によって、

在らしめられてある 、

観念性ら 、 にとっては 、

それ自らの成り立ちようの筋道に、

沿ってある 、 全く 、 当たり前な事であり 、



より 、 内因性ら、 による 、 度合いを 、

欠いてある分だけ 、

より 、 外因性らによってのみ 、

成り立ってある 、

より 、 観念な、 分割性や、 分析性、

など、 を、 それ自らの成り立ちよう、に、

関わらせ得ては、 いない 、 観念性ら、 は、


そうした、 分割性や、 分析性 、 などを、

それ自らの成り立ちように関わらしめられてある 、

観念ら 、の、 規定性らなり、 秩序性らなり 、

へ、 対して 、

より、 適合性の度合いの、 無い 、

規定性らなり、 秩序性らなり、 を、 帯びて、

それ自らの成り立ちよう、 を、 得るべく 、

外因性らから 、 仕立てられてある 、

度合いを 、 それだけ 、 余計に 、 帯びてある 。


観念系らへ対する 、 外因性ら 、 は 、

内因性らの存在そのものを左右してある 、

それらへ対して、 より、 前提として、

在り得てある、 ものら 、 であり、


量子らの、 もつれ、 を、 利用して、 なされた、

実験らにおいて、 観察されてある 、

現象な事らにおいて、

時間性の成り増される度合いを、 無 ナ みして、

観せてもあるように、


より、 内因性ら、には、

左右され得ない、 立場にあり、

より、 内因性らにもよる、 観念性ら、を、

無みしても、 構わない 、 立場にある 。



より 、 内因性らによる度合いを 、 無しに 、

それ自らの成り立ちようらを得る 、

我々の各々の 、 今としてある 、 時間 、 を、

それ自らの成り立ちようらにおいて 、

創り出して 、 来てある 、

観念な 、 感じようら 、や 、 観ようら 、

などの 、 観念性ら 、 が 、


より 、 内因性らにもよる、 度合いを、 成して 、

在る 、 観念らの 、 分割性や 、 分析性 、

などを 、 成してもある 、 規定性らなり 、

秩序性らなり 、 へ、 対して 、


より 、 適合性を成す 、 度合を 、 欠いてある 、

事は 、

それだけ、 観念系らへ対する、 外因性ら、が、

より 、 内因性ら 、 に 、 左右され得ない 、

内因性らへの前提としてある 、 ものら 、であり、

より、 内因性らによる、 観念性ら、を、

無みして、 当たり前な、 筋合いを成してある、

ものら 、 である事を指し示し得る事でもある 。



いずれにせよ、

日本国民たちは、 より早くに、

日本国民たちの足元の、 地下へ、

より、 どこからでも、

より、 速やかに、 落ちついて、

歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、

より、 快適に住める、 避難所らとを、

作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、


日本の、 財務省の役人ら、と、 与野党の、

主な政治家らとが、


英米のカネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、

自らもまた、 オウム返しにして、主張し、

実行もする事において、


日本政府の財政における 、 緊縮 、 を、

繰り返し、 成す事を通して、


彼らへの、 主 アルジ の立場にある、

日本の主権者としての日本国民たちへ、

物価だけではなく、 その労働らへの賃金らの水準へも、 より、 押し下げる向きへ圧力をかける、

要因らの系である、

デフレ不況性 、を、 押し付け続けて来てある、


その、 デフレ不況性 、を、 解消し去ってゆく、

と共に、

日本国民たちの防衛性の度合いを飛躍的にも高めてゆくべき、 ぎりぎりの状況にも、 ある 。



地上を襲い、 地上をおおい得る、 あり得る、

災害らへ対して、


地上に、 避難所らや、 避難経路らを設定して、

日本の主権者たちを、 それらへ誘導する事は、


人食い虎どもの住む、 密林へ、

人々を誘導する事に類する行為であり、


日本の主権者として、 日本国民たちの一般 、

へ対する、

個々の日本国民においても、

執事なり、 召し使いなりの立場にある、

公務員などの、 者らにおいても、

成す事が、 許されない 、

日本国民たちの一般の、 あり得る、 福利ら、を、 より、 能くも、 最大限にも、 成す事を、

約束して、 日本の社会に、 存在し、 存続する事を、 日本国民たちの一般から、 許されてある、

筋合いにある者としての、 義務 、 に、

違反性を成す、 行為であり、


それが、 作為型では、 無く 、

無知性と痴愚性とにもよる、 不作為型の、

行為であっても、

それへの責めを負うべき、 筋合いを、

その主らの側に、 成すものである事に、

変わりは、 無い 】 。


◇ 負電荷な 電子対なら 奪う、酸


逆な、 陽子を 引き取る、塩基・・。




☆ 湧き水の 濁りに続く 山津波

無い、水どもが 湧くも、先触れ・・。


◇ 連れ去るに 浜から沖へ 離岸流

脇へ泳げば ひろえる命・・。


☆ 水に塩 糖分も要る 熱を去る


風に、 掛け水 殺 ソ ぐ、 熱射病・・。

☆ 根途記事➕論弁群➕;


・・百済 クダラ 、 の 、 「 武寧王 」 、 も、

その父の、 「 東城王 」 、も、

任那 ミマナ 半島 ≒ 朝鮮半島 で 、

生まれたのではなく、

日本 ( 九州 ) 、 で生まれて、

日本から、 朝鮮半島に渡って行った人物だ。


・・当時の、 百済などの、 任那半島の人々は、

今の朝鮮人らとは、 人種の異なる、

他人な、 人々だ。



更に、日本から朝鮮半島に渡って行った、

「 武寧王 」 、の子の、 「 純陀太子 」 、 は、

日本に、 人質として来て、

その子孫は、 そのまま、 日本に住み着いた。



4世紀頃 ( 391年 、

倭が、 海を越えて襲来し、 百済や新羅を破って、

服属させてしまった ; 「 広開土王碑 」 ) 、

から 、

6百年代である、 7世紀

( 白村江の戦い ) 、 まで、

朝鮮半島は、 九州などと同様に、


日本 ( 倭国 ) の一部だった 、

という、 時代背景を忘れてはならない。



つまり、 百済というのは、

昔から、 日本 ( 倭国 ) の一地方であり、

百済王は、 天皇によって決められ、

日本 ( 九州など ) 、 生れの、

「 東城王 ( 末多王 ) 」、 や、

「 武寧王 」 、 などが、

日本 ( 九州など ) 、 から、

朝鮮半島に渡って行って、 即位していた。


日本に戻って来た武寧王の子の、

「 純陀太子 」 以下の子孫は、

そのまま、 ずっと、 日本に住み着いた。



父の、 「 武寧王 」 ( 日本人 ) 、 の、

祖国な、 「 日本 」 、 に戻った 、

「 純陀太子 」 、 から、 数えて 、

9世 ( 9代目 ) の子孫の一人が、

和乙継 、 さんで、


十世 ( 十代目 ) が、

桓武天皇への生母となった、 高野新笠さんだ。



はっきり言って、 皇室と韓国との、

ゆかり、は、 無い、 に等しい。


つまり、 陛下の祖先に、

朝鮮半島の血筋は、 入っていない 。


http://blog.livedoor.jp/itouansatu/archives/56616254.html



☆ 古代・朝鮮半島の王国らの一つだった、

百済の武寧王

( 在位 501~523年 ) 、 は、


その父の、 東成王が、

日本 ( 倭 ) 、 からやってきた、

日本人 、 と伝えられ、


韓国・公州で発掘された、

武寧王陵の木棺の材質も、

日本原産の、 「 コウヤマキ 」 、 だったことが、 明らかになっている。


古代の百済と日本の「ゆかり」を物語るものだが、

桓武天皇

( 在位 781~806年 ) 、 は、

武寧王時代から、 300年近く後の人である。



百済は、 660年、に、

唐 ( 中国 ) と手を組んだ、 新羅によって、

滅ぼされた。


日本に亡命していた百済勢力の要請を受けた、

日本は、

百済の復興のために、 4万人もの、

支援軍を、 旧百済の地に派遣する。


これが、 唐・新羅 VS 日本・百済による、

「 白村江 ハクスキノエ の戦い 」

( 663年 ) 、 だ。



☆ 飛虎将軍廟の台湾、と、

数千人以上の日本国民たちを監禁している、シナ

2017-02-13 15:45:21

【 主権者としての、 社会選択性などにおける、

自由性を論じるに至り得ずに、


宗教や、宗派に、 人種ごとなどの、 心理的にも、 社会交際上の物事らによっても、 自らの所属する宛

アテ の社会として、 在る、 自らの側の社会の、

在り得る、 現前性なり、 勢力性なりの度合いを、

より、 余計に、 成し、増すべくも、 在る、

者として、 在り来たってある人々が、

多数派員として、 在る、 欧米の社会らでは、


自らの所属の異なる、 派閥的な社会らとの、

現前性なり、 勢力性なりの、 度合いの増し減りをめぐる、 競争性らが、 ある度合いらに応じて、


自らの属する宛の、 派閥的な社会の、

牧 マキ する主らが、

その社会の一般の人々の、 在り得る、

労働らへの賃金の度合いを引き下げる、

競争性の圧力を成す事になる、 移民ら等の、

より、 安く、自らの労働らを売る人々を、

自らの社会らの共同の枠内へ入れたり、

企業らの生産の拠点らを、 自らの社会らの共同の枠内に、無い、 外国らへ、移す度合いを高める、

グローバリズム ≒ 地球市場化性 、 にも、

かなう、 行為らを成して、


その社会らの一般の人々の、 賃金の、在り得る、

度合いを減らす方向への圧力を成す、

その社会らの全体な状況である、

デフレ不況性 、 などの、 不況性を、

その社会らの一般の人々へ、 押し付けて、

その人々に在るべき、 在り得る、 福利らの実現性の度合いを、 減らし続ける、 加害行為らを成しても、

一般の人々は、 彼らを牧する主らへ、 直に、

非難する行為らを成さずに、

彼らを牧する主らが、 差し出して観せてある、

移民らなり、 その移民らの出た、 母体の文化圏の何彼なりに対して、

敵対する、 精神的な態度を表明したり、

非難する言葉らを成したりする事を通して、

牧する主らが、 何とかする事を待つ、 態勢を成す 事で、

自らのできる事らが、 尽きてあるかの様に、

不作為型の、振る舞いようらを成して観せる事を、

当たり前に、 ありふれてある事として、 成して来てあり、


フランスの、 自称の、 風刺漫画家が、

自らの宗教上の何彼の存在に対して、 それを、

貶 オトシ めて観せなどする、 特定の行為らに対して、 機械的にも、 自動的にも、 反撃性のある行為らを成す他に無い、 倫理的な規定性を成してある人々に対して、 その宗教上の長 オサ を貶めて観せる行為を、 その、 自称の、 風刺画において、 成して、

フランスの法律の手続き事らに則 ノット って、

それを正すなどする、 事をも、 その、フランスの当局によって、 差し止められた事もあったが為に、


その、 自称の風刺漫画家らへの加害行為らが成された際にも、

自称の風刺漫画家らが、 機械的にも、 自動的にも、 特定の方向性の行為らを成すべく、 ある、存在らに対して、 自ら進んで、 その行為らを呼応させる行為らを繰り返し、


言わば、 核兵器を作動させる、 推置 スイチ

≒ スイッチ 、 を、 風刺の踊りなる、 踊りを成す者が、 その踊りようの一定部分として、

押す、 動作を、 繰り返し、 成して置いて、

その機械性が、 作動して、 自らを攻撃し、

加害する行為らが、 その動作を、 繰り返して、

成した主らを宛にして成された事の全体において、

それを在らしめた、 作動への要因の事である、

繰り返された行為らについて、

その責任を問う、よりも、

それらによって、 飛び出すべくして、 飛び出した、 身裂具 ミサイグ ≒ ミサイル 、 らの方だけを、 非難し、

それらを非難する集会らを成して、

互いとの連帯性を確め合うがのごとき振る舞いようらを示しもしたのが、

その多数派員らでもあり、


いざ、 という場合には、 自分らを率いて、

宗教や、人種などの、 異なる、 別の社会らの人々へ対して、 加害行為らを成し、 その勢力性の度合などを削り減らす事において、 主導性を成す、

自らを牧する長らや、 その階層にある者らへ対しては、

より、 直に、 非難する事をしないで済まし、

その代わりに、 自らの社会らの共同の枠内には、 心理的には、 無い、 人々へ対する、加害性を成す事へは、 より、 余計に、 力を入れる向きの事を、

当たり前に、 思い構えてある者らが、

その積み重ねられて来てある、 実態らから、 観て取られ得る宛の、 欧米の、 特に、 ヨーロッパの、

社会らの一般の主権者らであり、

そうした、 競合的な派別社会性に、 より、

心理的に、 とらわれる度合いを成してはいない、

日本国民らの一般より、 それだけ、

より、 平和な社会状況らを成す事を阻害する、

在り得る、 戦争行為らを成す、 度合いが、

余計に、 その精神性にある者らが、

欧米の一般の主権者らであって、


日本国民らの一般の側に立って、

より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、 避難経路らと、 住める避難所らとを、 作り拡げてゆく、

公共事業らを成す事においても、

英米のカネ貸しらの側に立って来てある、

実態らを積み重ねて来てある、 日本の、 財務省の役人らと、 与野党の主な政治家らにより、

日本政府の財政における、 緊縮を通して、

日本国民らへ、押し付け続けられて来てある、

デフレ不況性 、 を、 解消し去ってゆく方の、

日本国民たちは、


最も、 中長期的な、 より、 平和な社会状況らを構築する事に向いた、 道の精神性のある主らと、

少なくとも、 道の精神性の、 在りようらや、

在り得ようらについての、 一定度合い以上の、

体系的な認識を構築し得ていたり、

構築し得る、 精神性のある主らが、 社会の一般の主らである、 文明圏が、 日本だけであり、


他には、 世界のどこにも、 そうした精神性に満ち満ちてある文明圏らが、 存在し得ていない事なども、 より能く、 鑑 カンガ みて、

より、 平和な社会状況らを構築し合う事に向いては、いない、 世界中の、 自閉排他的な、 部族社会員などに過ぎない列辺 レベ ≒ レベル 、 以下にある、 人々などが、

精神的にも、 歴史的にも、 抱えてある、 火種らの、 ありようらや、 在り得ようらを、 より能く、

思い分けても観る事を通して、

戦前の様に、 そうした者らが、 日本を標的として、 共犯関係を成しては、 日本を、 罠にはめ合う事で、 日本の勢力性を削り減らす事からも、 共通の利権性なり、 利益性なりを成し、増して、

日本国民らを、 違法に、 殺しもし、強姦もし、

苦しめ得る限りの、 苦しめようらを成すに至る、

機械的でもある、 社会的な構造性らによる作用らが、 日本国民らを、 より、 害 ソコナ わない様に、

日本の内外の事らを段取りしてゆくべき、 立場にも、ある 】 。



ネット記事+論弁群+;


☆ 「 飛虎将軍 」、 と、 呼ばれる日本人 ;

nippon.com

2017年 2月8日 18:09 ;

facebook86 ;


台湾の南部の古都の、 台南市の郊外に、

日本人の飛行兵を祭る, 廟 ( みたまや 、

びょう ) がある。


正式な名称は、 鎮安堂飛虎 ( ひこ ) 将軍廟。


飛虎とは、 戦闘機を意味し、

将軍とは、 神格化された勇士を意味している。



ここには、 先の大戦で、 命を落とした飛行兵の、 杉浦茂峰 すぎうら・しげみね 氏が、

祭られている。


台湾における、 信仰の世界は、

多様性を極めており、

道教を辺主 ベス ≒ ベース 、 に、

祖先らへの信仰や、 自然への信仰が、

複雑に絡み合う。


また、 日本人を祭る、 廟や祠 ( ほこら )

も、 いくつか見ることができる。

戦没者をはじめ、 警察官や、 教師などが、

神格化されることもある。


飛虎将軍廟の場合も、 郷土の守護神として扱われ、 あつい信仰を受けている。


廟そのものは、 台湾の各地で見られる、

道教寺院の須態 スタイ ≒ スタイル 、 だ。


しかし、 中央には、 赤い垂れ幕があり、

そこには、 「 歓迎 日本国の皆々様 ようこそ

参詣にいらっしゃいました 」 、 と、

文字が躍っている。


1997年のことだった。

当時は、 この垂れ幕は、なかったが、

突如として現れた、 日本からの旅人に対し、

居合わせた人々は、 厚く、もてなしてくれた。


日本に対しての、 特別な思いを感じるのは、

今も昔も、 変わらない。


堂内に入ると、 杉浦氏の神像が、

中央に置かれている。

台湾の廟では、 複数の神らを祭るのが、

一般的だが、 ここは、 飛虎将軍のみを祭る。


しかも、 祭神が、日本人であることを考えると、

その存在は、まれなものとなる。


神像は、 3座あるが、

いずれも、 飛虎将軍である。

中央が, 本尊で、 左右の2座は、 分尊 、

という、 位置付けとされる。

これは、 分霊や、移動の際に用いられ、

信徒から請われて、 廟を離れることが多いために、 設けられたのだ、 という。



◆集落を守るために、 命を落とした兵士 ;


祭神となっている、 杉浦茂峰氏は、

1923年でもある、 大正12年の、 11月9日に生まれた。

茨城県は、 水戸市の出身で、

乙種飛行予科練に入隊し、

霞ヶ浦海軍航空隊で、 基礎訓練を受けた後に、

飛行練習生教程に進んで、 台湾に渡った。


当時は、 台湾は、 日本帝国の南方への進出の拠点とされていたが、 それだけでなく、

兵站 ( へいたん ) 基地としての重要性も、

高かった。


そのために、


【 犯罪者となった、 シナ人らへ対して、

国際法の規定事らの通りに、 懲らしめる戦争行為らを、 合法に、 成していた、 日本の将兵らや、

公の海をゆく、 日本の、 民間の船らの人々などへ対して、 違法に、 攻撃を成して、 日本側による、

真珠湾への反撃を引き出していた 】 、


連合軍は、

フィリピン戦線と絡め、

台湾から沖縄にかけての、 航空基地らを襲った。



特に、 台湾の軍事施設に損害を与える効果は、

大きく、攻撃は、 熾烈 ( しれつ ) を極めた。



1944年でもある、 昭和19年の、 10月12日の、 午前7時19分頃に、


アメリカ軍の、 第三艦隊が、 台湾の南部への、

大規模な空襲を開始した。

いわゆる、 台湾沖航空戦である。


台南の上空でも、 アメリカ軍機らとの激しい戦いが行なわれ、

日本側は、 あまたの敵機らを迎え撃ったが、

劣勢は、 明らかだった。

この時に、 連合軍が、 台湾戦線に投入した航空機は、 千378機を数えていた。


ここで、 杉浦氏が乗り込んだ、 零戦の32型は、

善戦も、むなしく、 アメリカ軍機の襲撃を受けてしまう。

尾翼部から出火し、 墜落は、確実な物となった。


しかし、 炎上しながらも、 杉浦氏は、

操縦桿を握り続け、 集落を避けるように、

機首を上げ、 飛び去っていった、 という。


そして、 海尾寮 ( かいびりょう ) 、 と、

呼ばれる、 この地に墜落した。



この航空戦は、 規模が大きかったこともあり、

多くの人々の脳裏に焼き付いている。


この地に疎開していた、 荘政華さんは、

急降下した零戦を見て、

「 飛行機が落ちてくる 」, と思った、 という。


結局は、 集落への直撃は、 免れたが、

「 素早く、 飛行機を乗り捨てていれば、

飛行士の命は、助かったはず 」、 と語っていた。



機体は、 畑の中に落ちていた。


その傍らに、 若き飛行士の遺体があった。


この惨劇を目の当たりにした呉成受さんは、

今も、 この地域に暮らしており、

飛虎将軍廟への敬虔 けいけん な信徒でもある。


呉さんによれば、 飛行機は、 大破しており、

遺体も、 機銃掃射を受けていたために、

無残な姿だった。


それでも、 軍靴に、 「 杉浦 」 、 と、 書かれていたことから、 人物は、特定できた。


翌年に、 高雄の海軍航空隊にて、

海軍合同葬が営まれた。

そして、 水戸でも、 他の戦死者と、

合同葬が行われた、 という。



◆英霊は、 台湾の地にとどまり、人々を支えた;


終戦を迎えると、 日本は、

台湾への領有権を放棄し、

中華民国の国民党政府が、新しい統治者となった。



そして、 ある時期に、 不思議な現象が起きた。

同じ内容の夢を見たという住民が、 複数、で、

現れたのである。


その夢とは、 白い帽子と服を着た若い兵士が、

枕元に立っている、 という内容だった。


また、この一帯には、養魚池がたくさんあるが、

その傍らに、 海軍の夏服らしきものを着た、

白装束の青年が、 夜な夜な立っている、

という、 現象も起きていた。


人々は、 これを、 名刹 ( めいさつ )

朝皇宮の保生大帝に伺いを立てた。


保生大帝は、 台湾で、 広く信仰の対象となっている存在で、 「 医学の神 」 、 と、 称される。


あらゆる病らを治癒する力を持つとして、

あがめられている。


ここで、 人々は、

「 その人物は、 この地で、 命を落とした兵士である 」 、 という、 回答を得た。


そして、 人々は、 その兵士とは、

集落に墜落することを回避し、 絶命した、

杉浦氏に違いない、 と、 判断した。


すでに、 終戦から、 20年以上 、 という、

歳月を経ていたが、

杉浦氏の悲劇は、静かに語り継がれていたのだ。


1971年に、 人々は、 4坪ほどの、

小さな祠を建てた。 その後に、

この地域には、 平穏な日々が続いた。

人々は、 これを、 集落のために、自らの命を捧げた、 杉浦氏の遺徳 、 と考えた、 という。


当時は、 中華民国政府が、

徹底した言論統制を敷き、排日政策をとっていた。


日本兵を祭る、 この廟に対しても、

さまざまな嫌がらせをしてきた、 が、

人々は、 あくまでも、 飛虎将軍を、

自らへの守護神とし、あがめてきた。


御利益も大きく、参拝者は、増えていった。

そして、 1993年に、 祠は、 建て替えられ、

現在に至っている。



◆日本から贈られた、 みこし ;


朝皇宮は、 台湾でも、 屈指の規模を誇る、

廟である。

配下には、 いくつもの廟や祠があり、

祭事には、 多くの神像らが、

朝皇宮への詣でを行なう。

この時に、 神像は、

みこしに載せられて移動するが、

飛虎将軍廟には、 この、みこしがなかった。


管理委員会の、 呉進池会長によると、

杉浦氏は、 お告げの中で、

純日本式の、みこしを所望していた、というが、

これは、 容易には、 実現せず、 時が流れた。


そんな中で、 全国で、 様々な講演活動を行なっている、 クロフネ・カンパニーの中村文昭代表が、

有志を募り、 飛虎将軍廟に、みこしを贈る、

プロジェクトを立ち上げた。

このみこしは、 2千15年の、 3月10日に、

奉納式が行なわれ、

新しい飛虎将軍廟の信模 シンボ ≒

シンボル 、 となった。


頂部には、 金色の零戦新型戦闘機が据え付けられ、遠くからでも、 よく目立つ。


みこしの初舞台となったのは、

同年の、 4月30日。

神像は、 日本から贈られた、みこしに乗って、

朝皇宮に向かった。


この時は、 飛虎将軍廟に関心を寄せる、

総勢が、 2百名もの、 日本人たちが、

現地に駆けつけ、 晴れ舞台を祝った。


これは、 杉浦氏の英霊が、 現代に向けて遺した、 交流の種子 ( たね ) が、 開花したもの、

と、 言えるだろう。


現在、 このみこしは、 朝皇宮に安置されている。



◆飛虎将軍を慕う人々の「心」 ;


では、 人々は、なぜ、 杉浦氏を慕うのだろうか。

これには、 複数の要因らが考えられる。

まず、 台湾の人々は、物故者をいたわる気持ち、

中でも、 戦没者を憐れむ気持ちが強い。


たとえ、 他人であっても、 無念な死を遂げた者をいたわる気持ちは、 日本人が考える以上に 、

強い 、 と言っていい。


同時に、 日本人に対しては、

日本統治時代、 という, 半世紀、を、

環境の違いこそあれ、 戦争という悲劇の下で、

苦楽を共にした、 仲間意識のようなものもある。


さらに、 年長者や、 先人に、先輩を敬う心が、

強い、 という一面も、大きく絡んでいるだろう。


さまざまな御利益を、 飛虎将軍廟が人々に与えてきたことも、 大きい。


願い事をかなえてくれることや、

平安を保つこと以外にも、

遺失物の方角を教えてくれたり、

生きる指針を指示してくれたりする。


また、 最近は、 受験生が、合格への祈願に訪れ、

受験票のコピーを置いていったりすることも、

多い、 という。

このようにして、 飛虎将軍と地元住民の間には、 親密な関係が、 日々に、培われている。


また、 戦後になって培われた、

対日感情というものも、考慮する必要がある。


戦後に統治者となった中国 ( 中華民国 ) からの移住者らは、 外省人 、 と呼ばれ、

自らは、 特権階級に収まりつつ、

言論への統制を敷いて、 人々を弾圧してきた。



そういった中で、 隷属を強いられた、

台湾の人々は、 冷静で、 かつ、

客観的な判断において、

統治者らを評価するようになった。



日本に対しても、 「 親日感情 」 などと言った、

単純なものではなく、

じっくりと、 その本質を見据えた上での、

評価である、 と、 考えれば、

より深く、 台湾人たちの思いに、

触れられるのではないだろうか。


飛虎将軍廟では、 朝夕の2回を、

たばこを、 神像に供える。


これは、 当時は、 たばこが、

唯一の慰みとなっていたことにちなんでいる。

当時は、 20歳だった杉浦氏も、

戦時下の苦境の中で、

たばこを愛していたのだろう、 という、

人々の思いやりに、 胸を打たれる。


そして、 朝には, 「 君が代 」、

夕方には、 「 海ゆかば 」 、を、

祝詞 ノリト 、として、 流す。


この儀式は、 1993年から、

毎日を、 欠かさずに、 行なわれており、

筆者が、 初めて、 ここを訪れた際も、

直立不動で、 神像を見つめる信徒の姿が、

印象的だった。


さらに、 飛虎将軍廟は、 地域の守護神として 、 だけでなく、

地域文化の一部を担う存在にもなっている。



近隣の安慶国民小学 ( 小学校 ) では、

児童たちに、 飛虎将軍のエピソードを、

郷土史として、 教えており、

学芸会では、 児童たちが、

杉浦氏の人生を演じている。


このことについて、 前出の呉進池会長は、

「 飛虎将軍の心に触れ、 子供たちにも、

他人を思いやる心を持ってほしい 」 、 と、

語っていた。


若くして、絶命した、 杉浦氏は、

日本人や台湾人、 という、 区分を超越し、

台湾という土地の上で暮らした、

一人の人間として扱われている。

人々の厚い信頼を得た存在になっている。


◆里帰りを果たした守護神 ;


2千16年の、 9月21日に、

飛虎将軍こと、 杉浦氏の神像は、

26名の信徒らとともに、 生まれ故郷である、

茨城県は、 水戸市に、 里帰りを果たした。


水戸市に在住の、 藤田和久氏の尽力によって、

計画が進められ、実現に至った。

飛行機については、 誰もが、

神像が、 荷物として扱われることを危惧した、

というが、 幸い、

中華航空 ( チャイナエアライン ) が、

席の手配に応じた。 


22日には、 茨城県の、 護国神社で、

慰霊の儀式が行なわれた。


この日は、 あいにくの雨模様だったが、

儀式が始まると、 途端に、 小降りになった。

厳かな雰囲気の中で、 儀式は進められ、

滞りなく、終わった。


「 その後、 神像は、 一行と共に、

市内へ移動。

午後には、 有志が担ぐみこしに載せられて、

近辺を練り歩いた。

杉浦氏の生家のあった場所には、

茨城県信用組合農林水産部のビルが建っているが、

ここには、 杉浦氏を紹介するパネルが設置された。


翌日は、 杉浦氏の出身校である、

水戸市五軒小学校と、 三の丸小学校を訪問し、

児童と交流。

さらに、 隣の那珂 ( なか ) 市も、 訪ねた。


里帰りを済ませた後は、 静岡県の三島に寄って、

富士山を眺め、 京都へ向かった。


飛虎将軍廟への信徒であり、

台南市で、 日升大飯店、 という、

ホテルを経営する、 郭秋燕さんは、

「 里帰りは、 もちろんですが、

富士山だけは、

どうしても、 見せてあげたかった 」 、 と語る。


このひと言にも、 信徒の思い、 そして、

虎将軍を慕う気持ちが、 表れているように思えて、

ならない。


日本滞在の最終日に、 一行は、

住吉大社への参拝を済ませた後で、

関西国際空港から、 帰途に就いた。


郭秋燕さんは、

「 祖国にとどまりたい気持ちは、

よく、 わかります。

しかし、 飛虎将軍には、 台南の人々も、

守ってもらわなければならないですから 」 、 と、 笑顔を見せた。


一週間にわたる飛虎将軍の、 日本での滞在は、

ここに終わった。


水戸での行程を終えた一行は、

特急の、 「 ひたち 」 6号に乗車し、

東京へ向かっていた。

誰もが、 それなりに疲れを感じていたはずだが、 皆、晴れやかな表情だった、 という。


列車は、 軽やかな走りを見せ、土浦駅を出発。

荒川沖駅を通過する直前に、 列車は、急停車し、

間もなくして、 走り出したが、

緊急停車の理由には、 触れられず、 なぜ、

停止信号が出たのかは、 知るよしもなかった。


この場所は、 杉浦氏が訓練を受けた、

旧霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部のすぐ近くであった。

まさに、 飛虎将軍にゆかりの地である。

まさか、 飛虎将軍のために、 列車が緊急停車したなどとは、 考えられないが、

郭秋燕さんは、

「 飛虎将軍が、 思い出の地に、 1秒でも、

長く滞在できてよかった 」 、 と、

興奮気味に、その瞬間を振り返る。

その間、 わずか、 1分30秒。

もしかすると、 これは、 飛虎将軍と一行の思いが起こした、 「奇跡」だったのかもしれない。


片倉 佳史  KATAKURA Yoshifumi 氏 。



☆ 2017年の、 2月10日、に、

中国中央人民ラジオのニュースサイトは、


中国で、 2015年の9月に起きた、

ベトナム人女性の集団人身売買事件について、

誘拐から、 仲介、と、売買までが、一体となった、

悪質な組織的犯罪について、 伝えている。



旅行や、アルバイトを名目に、

ベトナム人女性を集め、

雲南省の国境から、 不法に、

入国させていた事件は、

雲南省、河南省、山東省、江西省などの、

7省・市の警察当局の合同捜査により、

16年の5月に、最後の2人の容疑者が逮捕された。



ベトナム人の花嫁を購入するために、

河南省から雲南省に来て、逮捕された、

22歳の男は、

「 違法だと知っていたら、ここには来なかった 」、

とし、

「 地元で、 結婚相手を見つけようとしても、

金がかかりすぎる。

見合いでは、 車だ、 家だと、

女性から突きつけられるハードルが高すぎる。

とても、支払いきれない 」 、 と、 打ち明けた。



公安部刑事捜査局の責任者は、

「 こうした人身売買は、

女性の尊厳を踏みにじる行為だ 」 、 とし、

「 ベトナム人の花嫁を買っていたのは、

多くが、 農村に住む男性だ 」 、 と、指摘する。


( 翻訳・編集/ 岡田記者 ) 。