経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

西の島へ続く。 数千人以上の日本国民たちを監禁している、シナ

【 より早くに、 日本国民たちの足元の地下へ、 避難経路らと、 住める避難所らとを、 作り拡げてゆく、 公共事業らを成して、

英米の実態的な金融員らから、 日本国民たちへ、

押し付け続けられて来てある、 デフレ不況性、 を、 解消し去ってゆくべき、 必要性が、 日本国民たちと、 在り得る、 日本国民たちによる、 平和への調停を有効に受け得る、 可能的な戦争当事者としてもある、 世界中の一般の人々には、 ある 】。




◇ 湧き水の 濁りに続く 山津波


無い、水どもが 湧くも、先触れ・・。



◇ 連れ殺す 浜から沖へ 離岸流

脇へ泳いで 命を拾え・・。




ネット記事+論弁群+;


☆ 1858年に、

・・立山カルデラ 、 という、

火山陥没地の、 脆い山の斜面が、 広大な範囲にわたって、 崩れ落ち、


常願寺川の上流である、 真川や湯川をせき止めてしまったのだ。


それから1週間ほどは、 何もなく過ぎた。

が、 常願寺川の流量が、 5分の1しかない。


誰彼ともなく、 山津波が来ると、 騒ぎ出し、

藩主や家中の侍たちは、 呉羽山に避難し、

城下の町人たちも、 家財を捨てて、 避難した。



◇ 粥 カユ のごとき、 土砂の濁流 ;


洪水時の常願寺川 ; 写真提供:

立山カルデラ砂防博物館 ;



先の地震から、 半月ほどを経た、 3月10日

( 新暦の、 4月22日頃 ) だった。

桜の花も散り、 暖かい日が続いていた、 という。


突然、 立山の全山が崩壊したかと思えるような、 激しい地鳴りがしたかと思うと、


「 川筋一面に、 黒煙が立ち上り、

みるみるうちに、 大岩小岩、大樹、森羅万象押し出され、 右押し出せる内には、

水は、 一滴もなく、 皆、 固き粥のごとき、 泥砂にて、 その内、 大小岩相交じり、 また、

岩と岩とが衝突して、砕け、 時々,

黒煙立ち上り、


葦峅寺までは、 20~30間

( 36 ~ 54 メートル ) ばかりの大岩を押し出して、 2、3里下の横江村辺では、 7~8間

( 13メートル前後 ) の石を押し出し (中略);


なかんずく、 廻り6~7尺の樫の木に、

猿2匹が、 すがりながら、 葦峅辺より半屋村まで、 4里あまり、 流れ来たり。



その木そのまま、 今も、 川中に立てり。

実に、 万代未曾有の変事なり 」

( 『 立山変事録 』 ; 一部意訳 )。



この土石流は、 今の大日橋あたりから、

右岸の舟橋村を直撃し、 白岩川をつたって、

水橋の港を襲った。


水橋の港では、 膨大な流木らが押し寄せ、

その下へ、 土砂が潜って、 大渦巻きが起こり、

なにやら、 鯨のような、 得体の知れぬ生き物が、 渦の中で、 青白い炎を吐いた、 という、

怪奇現象も報告されている。



岩峅寺では、 神殿が、 山の方へ、 50数メートルも押し上げられ、

その上流にある、 葦峅あたりの広大な川原は、

土砂に埋まり、

高低なく、 一面が、 平らになった。


上滝に流れ着いた大岩は、 長さが、約30メートルもあり、 馬瀬口あたりは、 川と堤防が、 同じ高さになった、 という。



常願寺川一帯の田畑は、 黒い粥のごとき泥砂の大海原と化し、

流され壊された家屋は、 数を知れず、 また、

水路らの大半は、 潰されてしまった。



死者は、 38人、 と、 某記録にあるが、

この時の被害は、 よく分かっていない。


その1ヵ月半の後に、 常願寺川の流域は、

再び、 未曾有の大災害に襲われる。




☆ 水土の礎 [ ishizue ]【 国土を創造した人々 】一覧へトップページへ ;

常願寺川 農人の記憶 ― 山をも流した河

[Jyouganji-River Memory of the Farmers] ;


【第五章】; 恐るべし山津波 ;


「 泥抜けの気遣い、 これなき候 」 ;



・・3月10日の山津波は、 午後4時頃になって、

引いたらしい。



しかし、 翌日に、また、

「 城下残らず、 川底となるべし 」 、 との噂が飛び交い、


武士町人は、 狂気のごとく、 東奔西走、

城下は、 火事か戦のような大騒ぎとなった、

という。



さすがに、 加賀・富山の両藩主も、 再び、

山への調査を命じた。



この時の報告書によれば、

堰 セ き止め、 湖は、 すべてが、 流れ去り、

真川の水も、滞りなく流れて、


「 この末、 再び、 泥抜けの気遣い、 これ無き義と存じ奉り候 」 、 と、 結んでいる。

そして、 城下に、 安全宣言を発令した。



4月といえば、 今の新暦で、 5月の半ば。

しかし、 田植えどころではなかった。



ことに、 壊れた水路らへの補修に、 多くの農員らが、 かり出されていた。


「 三ヶ村用水、 次に、 太田用水 普請 四月七日より十日が間、 七万八千人の人足なり 」 、 などと、 記録にある。



おそらく、 老若男女を問わず、 村中の人々が、

この一面の泥海の後始末をしている最中であった。

そして、 1ヶ月半の時が流れた。

ようやく、 村人の顔に、 落ち着きが見え始めた頃であった。



◇ 恐るべし 山津波 ;

人物画『地水見聞録』より ;

富山県立図書館所蔵 ;

出典: 『 越中立山大鳶崩れ 』 ;



・・4月26日 ( 新暦での、 6月9日頃 ) 。


正午過ぎ、 またもや、 立山から大鳴動が聞こえた。

そして、 天を突き上げ、 地を逆巻きながら、

真っ黒な濁流が、 怒涛のごとく押し寄せ、


ほとんど一瞬にして、 常願寺川の流域を飲み込んでしまった。


今度は、 真川ではなく、 湯川を塞いでいた土砂であった。



この土石流は、 前回よりも、 6メートルほどが、 高かったらしい。



岩峅寺の立山権現は、 川底から、 約24メートルの高さにあるが、


本社の床まで、 水がつき、 柵が流された。


「 河下は、 水盛には、 両ふち共に、 川も岡もなし。 瞬時に泥海也 」。



冒頭で書いた大場の巨石は、 この時に流れ着いたものだ。

また、 その対岸の西大森には、

幅が、 15メートル、で、 長さが、 29メートル 、 という、 とてつもない大岩が、

今も、 土手にはまっている。



山中、真川と湯川の合流点にあったものが、

西大森まで流れ着き、 ここで、 土手の崩壊を防いで、 村は、 助かったらしい

( 現在でも、 水神が奉ってある )。



ともかく、いかなる大石も巨木も、また、

家であれ、 蔵であれ、 納屋であれ、

鍋釜、桶、箪笥、長持、屏風、斧、茶碗、皿、

ひき臼……、物の軽重を問わず、


一面に、 浮き上がった。


人や牛馬は、 言うに及ばず、

犬、猫、鼠、狸、鶏、蛙、蛇……、

生ある者らは、 すべてが、 浮かび上がって流され、

「 森なき処には、 森が出来、 森ある処は、

川となり、 山となる 」 。



家ごと流され、 2階から泣き叫ぶ家族。

生きて流れ着いた人も、 髪の毛は、 全部抜け、

全身が、 寸分の隙間もなく、 傷だらけだった、

という。


人も泥、犬も泥、家も蔵も道も田も、

森羅万象のすべてが、 泥にまみれてしまった。

凄絶の極みとしか言いようもない。



奇怪な現象も、 幾つかが、目撃されている。

水橋では、 濁流に巻き込まれた家々や、

舟の20艘ばかりが、 もみ合い沈みながらも、

火を噴き上げたこと。


腰の高さの水流に、 2メートルもの岩が流されてきたこと、

70坪ほどの田んぼが、 畦もろとも浮かびながら、

流れていったこと。


あるいは、 一尺ほど水に浸かったところは、

立木が、残らず枯れてしまったこと等々。


伝承ながら、 生々しい光景である。


この大災害による家屋らの流失は、

常西側が、 5倍以上の損害となっている。


濁流は、 鼬川の橋をすべて壊しながら、

神通川へと流れ込んだ。


新庄村では、 400軒の内の、 200軒が、 流失、


新庄新町では、 130軒の内で、 残ったのは、

わずかに、 3軒だけ。


広田針原用水を修理していた人足・農員の、

370人が、 即死、

助かったのは、わずかに、 4、5名だった、とある。



この2回にわたる泥洪水がもたらした被害は、

加賀藩では、 流失家屋が、 1,612軒、に、

死者が、 140名。 被災者が、 8,945名。


2万5,800石の水田らが荒廃。



富山藩では、 7,380石の水田らが壊滅。

死者の数は、 不明だが、 1,000人はくだるまい、

とも言われている。



川は濁り、井戸は埋まり、 飲み水は、 10キロの道を往復した、 という。



この岩砕流は、 3月10日から始まり、 6月の下旬まで、 9回に及んだらしい。



◇ 安政大地震常願寺川出水図[安政5年];

滑川市立博物館所蔵 出典:『越中立山大鳶崩れ』;


上の「安政大地震常願寺川出水図」の被害区域を、 現在の地形図で再現した想像図 ;

常願寺川の変貌 ;



・・この10年程前には、 長野の善光寺でも、

ほとんど同じような、 山津波が起こっている。



1847年の、 3月24日 ( 新暦での、 5月8日 )。


マグニチュード 7.4。

折から、 御開帳の期間であり、

7、8千人の客たちで賑わっていたが、

生き残った者は、 1割だった、 という。



その際には、 岩倉山が崩れ、 犀川を堰き止めた。


雪解けも重なって、 この堰き止め湖は、

30キロの上流へまで延び、


数十ヵ村らが、 水没。


その20日後に決壊した。

死者は、 1万~1万3千人。

松代では、 四万ヶ所以上の山崩れがあったらしい。



この地も、 前述した、 日本列島が折れ曲がった構造上に位置している。


地形的宿命と言うべきであろう。


いずれにせよ、 この山抜けをもって、

常願寺川は、 川としての性格を、 すっかり変えてしまった。


新川、 と呼ばれていた頃 ( 806年 ) から、

幕末の1,060年間に記録された、

この川の洪水は、 47回。


ところが、 明治から大正の60年間で、 46回、

と、 追いついてしまう。



◇ 立山町西大森の大石 ;

石の周囲の長さが、 約32.4メートルもある、

と、 される、 巨石。


大部分は、 地中に埋没し、 全体を見ることは、

できない。


1858年でもある、 安政5年の、 4月26日の、 洪水で、 現在の位置に流れ着いた。


この石によって、 水勢が、西向きに変わり、

西大森より下流の右岸での洪水の被害を少なくしたことから、

村民から、 護岸の神として、 祭られるようになった。


安政の山抜け以来、

立山カルデラの崩壊は、とどまることを知らず、


川床が、 周辺の田より、 3.5メートルも高い、

という、 天井川を形成し、 復旧の間もなく、

雨のたびに、 暴れ狂い、 もはや、 県は、

なす術を失ってしまった。


とりわけ、 明治24年7月19日の大洪水は、

単なる集中豪雨だったにもかかわらず、

山津波の再来を思わせた。


岩峅寺村の水位は、 約5.6メートルを記録。


堤防は、 八ヶ所にて、 合計6.4キロメートルを破壊、道路・橋梁を壊して、

約700ヘクタールの田畑、

1,000軒余りの家屋を流失させた。



時の県知事の森山茂氏は、 直ちに上京、

70日間に及ぶ、 粘り強い説得をもって、

国庫からの補助の承諾を取り付けた。


そして、 日本政府は、 ひとりの男を派遣する。

名は、 ヨハネス・デ・レーケ氏。

後に、 近代治水の父とも称される、 オランダ人の技師であった。


※ページ上部イメージ写真 : 安政大地震常願寺川出水図[安政5年] ; 滑川市立博物館所蔵 ;

 出典: 『 越中立山大鳶崩れ 』 。



【 技術体系知らが、 地下へ、 避難経路らと、

住める避難所らとを作り拡げる事に及ばない、 昔とは、 異なり、 今の日本国民たちには、

それらが、 世界一の列辺 レベ ≒ レベル 、 で、 在り得ている。


率先して、 地上をおおう、 災害らに襲われようのない、 地下へ、 避難経路らと、 住める避難所らとを成すべき、 世界でも、 最たる立場に、

日本国民たちは、 ある。


ノーベル経済学賞を授かった、 クルーグマン教授は、 数年前の論説記事で、

宇宙から、 攻め寄せて来る者らでもあれば、

世界中の人々が、 連携して、 大々的な公共事業ら

を成す事において、 世界中の不景気らが解消されるのだがなあ、 と、 述べているが、


世界中の不景気らを解消する事においても、

宇宙からの侵略などは、 必要が、 無い。


核攻撃らなどの、人為的な災害らも含めた、

地上をおおう、 災害らへ対して、

それらによる被害性の、 より、 はるかに、 および得ない、 地下へ、 避難経路らと、 住める避難所らとを作り拡げてゆく、 公共事業らを成して、

そこの主権者たちへ、 より、 所得金額らと、

それらと引き換えに渡される、 サービスらや、

生活物資らなどの、 物らが、 加えられるべくして、 加えられる、 その社会の、 一定購買力以上の、 収益や、所得の金額が付く、 仕事らの総量が、 その中央政府によって、 直に増やされる、 全体な状況を作り出す事でも、 不景気らは、 解消されるべくして、 解消される。


日本国民たちこそは、 率先して、 それを成して、 自らを手本となす事でも、 世界中の人々へ、

絶大なる貢献をし得る立場にある 】。



☆ 「ベヨネース列岩」に噴火警報 ;

伊豆諸島・青ヶ島の南の海底火山 3月24日

15時26分 ;


◇ 伊豆諸島の青ヶ島の南にある、 海底火山の、

「 ベヨネース列岩 」 の付近で、

3月24日に、 海面が変色している様が、

確認され、

気象庁は、 今後、 小規模な海底からの噴火が発生する可能性があるとして、

「 ベヨネース列岩 」 に噴火警報を発表し、

周辺の海域では、 海底からの噴火に警戒するとともに、 噴火による、 軽石などに注意するよう、

呼びかけています。


また、 海上保安庁も、 航行警報を発表し、 付近を航行する船舶に、 注意するよう呼びかけています。


http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170324/k10010923051000.html