経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

記号勝ちな、パース氏像 ; 日本内外史略 ➕

【 社会の主権者たちの一般と全体とに、

在るべき、 在り得る、 福利らを、 阻害する形で、

みたされて、 善いのは、


一定度合い以上の、 反社会的ではない方の、

倫理的な欲求性ら、 であり、


特定の異性同士などが、 他の異性らへ、

性的な交渉性などを与えない、 などの事が、

そうした事に、 含まれ得る。



が、 そうした、 一定度合い以上の、

部族や宗派などの枠組みを越えて、

ヒト、 という者の一般を、

目的対象とし得てもある、

価値序列の観念の体系に基づく、

倫理的な欲求性 、 ではない、


反社会的な、部族倫理的な欲求性らなどの、

部族や宗派などの枠組みを越えた、

人々の一般の精神性による物事らへの、

認知的な共感性に基づく所の、 より、 無い、

欲求性らをみたしたり、 みたさせたりする為に、


社会の人々の一般や全体に、 在るべき、

在り得る、 福利性のある物事らを阻害する、

行為らや、

それらの可能態らの系を自らに構築して、

成り立つ、 観念らに基づいて、 それらが、

成り現される事らに対して、


それらを阻害する代わりに、

社会の人々の一般と全体とに、 在るべき、

在り得る、 福利らを、 より能 ヨ く、

成し得る様にする行為らの中に、

警察行為らや、

より、 平和な社会状況らを成す行為ら等がある。



日本国民たちの一般の側に立つ方の、

日本国民らは、

より早くに、 日本国民たちの足元の地下へ、

避難経路らと、 住める避難所らとを、

作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事において、


英米のカネ貸しらの側に立って来てある、

日本の、 財務省の役人らと、

与野党の主な政治家らから、

日本の中央政府の財政における、 緊縮 、

を、 繰り返す事を通して、


日本国民らへ、押し付け続けられて来てある、

デフレ不況性、を、 解消し去ってもゆくに当たり、


より、 平和な社会状況らを成す為にも、


日本の内外の社会らの主権者たちの一般と全体とに、 在るべき、

在り得る、 福利性のある物事らを阻害して、


英米の富裕権力層の者らへ、 最も大きな割合で、

不当に、 利益性なり、利権性なりを、

付け加え続けて来てある、

日本側の賊員らへ対する、

警察行為らを成したり、

成さしめたりすべき、 筋合いにもある 】 。



☆ パース氏、の、 偶然主義

( tychism ) 、 については、


「 モニスト形而上学シリーズ 」、 の、

第二論文の、

「 必然性の教説再考 」 、 に、 詳しい。


そこで、 彼は、 「 必然主義 」

( necessitarianism ) 、 の立場を、

次のように、 定義している :


[ 必然主義の命題は ] 、


ある時点において、 存在する、

物事の状態、 と、

一定の不変な法則とを合わせれば、

他の、 あらゆる時点における、

物事の状態が、 完全に決定される、

という、 命題である


( というのも、 未来の時点だけに、

限定する事は、 擁護が、 不可能だから ) 。



偶然主義は、 必然主義への否定である。


つまり、 自然法則の支配は、

絶対的ではなく、

規則性からの、 何らかの逸脱が、

常に存在する、 という、 立場である。



その論拠として、 パース氏は、

以下の五点を挙げている :


機械的必然性は、 自然において、 観察される、

物事の成長や複雑性の増大を説明できない。


法則からの無限小の逸脱を仮定する事によって、

宇宙の多様性を説明できる。


必然主義者は、 規則性が存在する、 という、

一般的な事実を説明できないが、


偶然主義者は、 規則性そのものを、

純粋偶然に起源を持ち、

徐々に進化してきたものとして、 説明できる。



必然主義者は、 自然法則が存在する、

という、 事実を、 それ以上に、 説明できない、

絶対的な所与として扱うが、

これは、 探究の道を塞 フサ ぐ、 仮説である。



必然主義は、 意識を一種の幻想にしてしまう。


純粋偶然の仮説から演繹される、

帰結の事柄が、

観察されている事実らと合致する

( この点に関する、 詳しい説明は、

「 必然性の教説再考 」 、 には、 ない )。



「 連続主義 」 ( synechism ) 、 は、

パース氏が、 ギリシア語の、 συνεχής

( シュネケース : 「 連続的 ) 、

から、 案出した造語である。


彼自身の説明によれば、 連続主義は、

何らかの、 絶対的な、 形而上学

≒ メタ・フィジクス ≒

超物理学 、 超自然学 、 的な、

教説 、 というよりは、

我々が、 いかなる仮説を編み出し、

検討すべきかを規定する、

論理学の規範原理である。


平たく言えば、 連続主義は、

あらゆる物事に、 連続性を見出していこう、

という、 考え方である。


ここで、 「 連続性 」 、 という、 概念を、

どう理解するかが、 問題であるが、

パース氏自身が、 生涯を通して、

数学における連続性の概念について、

思索を深めていった経緯があり、

一つの固定的な捉え方があるわけでは、 ない。


「 真の連続体 」 ( true continuum ) 、

は、 いくら、 無限に、 要素があろうと、

単なる集合に還元することは、 できない、

という。



☆ 日本内外史略 十 ;


645年、 の、 大化の改新、 の、

前の年の、

644年 、に、 ウマル氏は、

メッカで、 死に、


次の第3代目のカリフになったのは、

ウスマーン氏、という、老人だった。


ウスマーン氏は、 信仰心が深かったが、

リーダーシップ ≒ 主導性 、 を成す、

類ではなかったので、

何も知らない、 能天気な、 カリフのお膝元では、 汚職が横行し、 政治が混乱し始めた。


不満を持った兵が、

カリフのウスマーン氏を襲って、 殺した。


イスラームの歴史上で、初めて、

信者らが、 カリフを殺した事件だった。


ウスマーン氏への殺害者らは、

メッカに残っていた有力者らの中で、

一番に、 筋目の正しい、アリー氏を、

次の第4代目のカリフへ担ぎ出した。


イスラムでは、

神からのお告げ事らを預かり広めた、

最後の預言者とされる、 ムハンマド氏の、

従兄弟であると共に、娘婿でもあり、

世界で、2番目に、イスラームの信者になった、例の豪傑だ。


シリアを支配していた、 ムハンマド氏の、

親類の部族の人で、

ムアーウィヤ氏 、 という、 総督が、

これに反対する。

「 カリフを殺した連中が擁立したカリフなぞは、

認められん。 俺は、忠誠の誓いを拒む 」 。



「 第一次内乱 」 、と、言われる、

内部紛争が始まった。


アリー氏は、 今や、前線から遠く離れた、

メッカを離れ、 イラクに拠点を移し、

そこで、 6万人もの兵らを集めて、

シリアの総督の、ムアーウィヤ氏へ、戦いを挑む。


戦いは、 アリー氏へ優位に展開したが、

突然に、 ムアーウィヤ軍の兵らが、

槍の穂先に、 聖典の、 コーランを結び付けて、

振りかざした。


「 お前たち、 アッラーのお言葉らが書かれた、

聖典に、武器を向けるのか、 地獄へ行くのか 」

、 という訳で、

なし崩しに、 停戦に追い込まれた、

アリー氏側であった。


その停戦に、 憤慨して出ていった過激派の者らは、

「 あんな無能が、 諸悪の根源 」 、 と、

逆切れし、

661年に、 礼拝中の、 アリー氏を襲って、

滅多切りにして、 数日後に、 死なしめ、

シリア総督の、 ムアーウィヤ氏への、

暗殺も計画したが、 こちらは、 失敗した。



この、 シリア総督により、

ウマイヤ朝が建てられる、 661年、の、

前後の、 日本では、


645年、に、 中大兄皇子が、

帝の位につく事をせずに、 大和朝廷における、

政務を執り行う中で、

孝徳天皇 ( こうとくてんのう ) 、

が、 難波宮 ( なにわのみや ) 、で、 没し、


655年に、 皇極天皇であった、

斉明天皇 ( さいめいてんのう )

、 が、 即位した。 ( 皇極天皇の重祚 )


658年に、 阿部比羅夫

( あべ の ひらふ ) 、氏、と、

齶田 ( あぎた ) ・渟代 ( ぬしろ ) 、 氏、

をして、 大和朝廷が、 蝦夷を討たせた。


660年に、 阿部比羅夫氏、が、

将軍として、 粛慎 ( しゅくしん ) 、を、

討った。


半島の南西部を占めていた、 百済、の、

その、 武将の、 鬼室福信 ( きしつ ふくしん )

、 氏が、 大和朝廷へ、 救援を要請し、


661年 、に、

斉明天皇が、 百済への救援への途中で、

朝倉宮で、 没した。


この年 ( 辛酉 ) 、 斉明天皇の7年 、

における、 事として、


1月6日に、  斉明天皇らが、 征西へ出発し、

1月8日に、  斉明帝らが、 大伯海に到着し、

1月14日に、  斉明天皇らが、

熟田津の石湯行宮に到着し、

1月25日に、  遣唐使が、 越州に到着し、

3月25日に、 帝らが、

那大津の磐瀬行宮に到着し、

4月1日に、  遣唐使が、 越州を出発し、

4月9日に、  遣唐使が、 耽羅 、 という、

任那半島の南にある、 済州島へ到着した。


5月9日に、 帝が、 朝倉橘広庭宮に遷った。

5月23日に、  耽羅が、 大和朝廷側へ、

王子を遣わした。


7月24日に、  斉明帝が、死去した。


9月に、  百済王子、の、 余豊璋氏を、

大和朝廷が、 任那半島に送った。


11月7日に、  斉明天皇の遺体を、飛鳥に移し、

殯 モガリ 、 を行なった。



◇ 中大兄皇子、が、 帝の位につかずに、

大和朝廷の政治を執り行う事である、

『 称制 』 、 を、 成し始め、


663年に、 日本と百済軍、が、

新羅と、唐帝国軍に、

白村江 ハクスキのエ 、 の戦い、で、敗れ、


664年、に、 冠位二十六階に改制し、

氏上、民部、家部を定める、

甲子の宣、 かっしのせん 、 を、 成し、


唐帝国の軍勢が、 日本へ攻め寄せる事が、

考えられたので、


対馬と、 壱岐、や、 筑紫などに、

防人 ( さきもり ) 、 と、 烽 ( とぶひ )

、 らを置き、 筑紫に、 水城 ミズキ 、

を建造した 。