経済参謀

個人や私企業らの各々の個人経済系とは、
異なり、 通貨ら等の効果らが、
自己循環する、 国民経済系などの、天下経済系への体系的な認識の構築を通しても、
日本の主権者である、 日本国内らに在るべき、福利らの拡充を成す事に必要な、
情報事項らを提供する

感ら、や、観念ら、の、宛てとして、観念系らの各々にある、脳神経ら、など 。 日本内外史略 05

【 脳神経らを通る、 電気信号らの系として、

精神系を思い捉えて観る場合においても、


その脳神経だの、 電気信号だのを、

宛居 アテイ 、 対象として、

格付けて観ている、 観念らが成り立っており、


それらは、 観念らの外側にあるものらとして、

その観念らの成り立つ場において、

規定されてはあるものの、

やはり、 観念の設定上の存在らである事に、

何の変わりも無い。


観念によって、 その設定上のありようらを、

自在に変え得ない対象だからといって、

そうした、 観念による操作の対象に成らない、

ものらが、

我々の各々の、 観念らの成り立つ場において、

その様に在るものらとして、 観得てある、

観念の設定上の存在である事を、

やめる訳ではない。



観念らの外側にあるものらとして、

観念の成り立つ場において、 自動的に、

規定されて、 現れ出て来る物事らも、

観念の無い場に、 実在している、 と、

我々が、 仮定し、 確信もしている、

観念の外側の存在ら、 の、 そのもの、 と、

因果の鋳型に当てはめても観得る、

関係性を成して、 現れ出て来るにしても、


観念が、 それ自らの成り立ちを得ていない

場において、 実在し得ているものとして、

我々が、 確信を成して、 思い構えて観ている、

宛 アテ のものら、の、 そのものと、


観念の場に、 現れ出て来る物事らとは、

全くの、 別物同士 、 であり、


我々の観念らの設定される、

仕組みらに合った形で、

脳神経だの、 電気信号らだの、

それらの関わりようらだの、

あらゆる、 存在の欠如としての、 無 、 だの、

誰彼の死を意味する状況だのが、 現象する、

手筈に成っているだけであって、


我々の観念らとは、

それ自らの成り立ちようらの、 異なる、

観念めいた、 何彼らの成り立ちようらを通して、

自らの精神系めいた

何彼の成り立ってある領域には、 無い 、

世界らを、 翻訳して、 観ている主らがある、

とすれば、

その主らは、 我々とは、 違う様に、

物事らを、 観念めいた、

何彼の成り立ってある場で、

現象させて観ている事になる。



我々は、 どんなに、

自らの精神系の外側に出て、 物事らの実態に、

当たり得ている、 つもり 、 を、

成り立たせる事ができるとしても、


全く、 自らの精神系から、 一歩も、

抜け出せない、 設定上の存在であり、



自らの時々の精神系の様らを成り立たせている、

感らや、知覚らに、

記憶化された知覚ら、 からも、 成る、

観念らなどの組み合わせらを、


自らの精神系の、 無い 、場にある、

何彼らとして、 規定して観ている、

だけの事であって、



それは、 自らの精神世界を構成していたり、

一定の条件らが整った場合に、

構成し得たりする、 自らの精神系の、

一定部分らや、 可能的な一定部分らに、

それらから、 成る、 ものらをして、


『 自分ではない、

自分の相手にしているものら 』 、 として、

仕立てて、 観ている、だけの事でしかない。



独り相撲を、 自分の一定部分ら等を相手として、

やっているだけの事で、


あなたが、 あなたではない、 何彼らとして、

自らの精神系において、 相手にしている、

何彼らの様らは、

あなた自らを成り立たせている、

あなた自らの精神系のからくりらが、

成り立たせて、

あなたへ観せている、

あなたの精神系の一定部分ら等から、

成る、 ものでしかない。



旅に行く事には、

日頃の人間関係などに対して、

精神的な距離を置く事を通して、

それらを、 思い捉え直す、 機会を、

自らへ与える等の、

様々な意味や、 効果が在り得るにしても、


それにおいても、

それを成す主は、 一定条件らの整いと共に、

その主の精神系に現れ出る、

自らの精神系の一定部分ら等に出会うだけであり、


『 自分の現在 』 、 を構成する事象らとしか、

出会い得ない。



誰彼が発明した、 時間旅行機なる物で、


過去の事象らめいた事象らや、

未來の事象らめいた事象らに出会い得たとしても、


その主は、 『 自分の現在 』 、 を、

そこに伴っており、


『 自分の現在 』 、 を抜け出して、

在り得ている訳ではないので、


その、 過去の物事めいたものらも、

未來の物事めいたものらも、


『 その主、の、 現在を構成するものら 』 、

でしかない。



そこに、 あるのは、 現在 、 であり、

現在を構成する事象らでしかない。



時間旅行なるものの不可能性は、

誰も、 『 自らの現在 』 、 を、

脱け出す事ができず、


自らの現在と共にある様に、

設定されてある存在である、

という事にある。



この事は、 『 現在 』 、 にしか、

時間や、 空間などが、 存在せず、


時間や空間と共にある様に、

我々の観念の成り立つ場で、

観られて来てもいる、

過去や、未來なるものには、

それら等が、 その様には、 在り得ない、

という事にも関連する。



観念らには、 観念として、

観念されているものらと、


観念ではないものとして、

観念されているものら、 と、 が、 あり、


我々は、 後者の物事らを相手として、

独り相撲をやり続け、

その様らを、 我彼へ向かって、

言葉にして、述べて観せたりもする。



物質らが、 何の力でもなく、

何の働きも、成し得ない、 存在であり、


ただ、 何らかの働きらを成して、

在り合っている、

色々な力らの居合わせている、

動的な位置でしかない、 にも関わらずに、


力ら、 という、

観念の設定上の存在でありながら、


そうではない、

誰彼の、 観念の成り立っていない場らにも、

在るものとして、

誰彼の、 観念において、 規定されてもある、

宛のものら 、 が、

どこに、 在り、 在り得るか、 を、

我々に、 知らせ、 観察させ得る、

目安、 や、 指標とするだけに、

物質らへの意味の宛てがいようを、 留めずに、


まるで、 それ自体が、

有力な存在であり、 何らかの働きを、

自らの力で、 成り立たせもしている、

有力な存在である事が、

自明の理であるかの様に、


全く、 力としての属性が、無い、

全く、 無力な存在であり、

全く、 どんな働きも成し得ない、

全くの、 怠け者であり、

ただの、 色々な力らの居合わせている、

その、 場 、 でしかなく、


移動した様にも、 観られ得る、


『 動的な位置でしかない、

原子 、 などの、 粒子以下の、 物質ら 』 、 を,


何らかの力や、 力の源泉などとして、

仕立てて、観せたりもする人々もいるが、


彼らへ、 その様に観せている、

その観念らの成り立ちようらを宛とした、

一定度合い以上の構築性を成してある、

分析知の体系らが、

そこには、 欠けてあるが為に、


その様に、 その主に観させている、

観念らの規定性らを思い分けて観て、

そうした観念事項らを成り立たせ得ている、

からくりや、 枠組みらそのものを解いてゆく、

といった、

日本の仏教の法相の人々や、

その業績らを踏まえ得た度合を成してもいた、

精神性に基づいて、

様々な宗派などを成した人々と、

その文化的な継承を成して来た人々が、

取り組んで来てもいる、 列辺 レベ

≒ レベル 、 以上の事を、


そうした人々は、 全く、 できないままに、

同じ浅瀬で、 足踏みをし、

立ち往生をしているだけであり、


ゲルマン蛮族員らを、

自らの先祖らの一部に持つ人々などで、

羽振りなどがよく、

世界の人々を主導する、つもりや、

態勢にある事を、 明ら様にして来てもいる、

人々においても、

大カントを始めとする、

ほんの数人だけを例外として、


全く、 観念らの矛盾し合う場合もある、

規定性ら等を宛とする、

思い分かりの体系知らを欠いており、


日本の、 倫理的な自律性に基づいて成り立つ、

匠の精神性や、道の精神性のある人々までが、


無意識での、 自己投影の罠に掛かってもいる 、

せいで、

観念らへの解枠 トワク 性の度合いを、

ほとんど全く、 欠いている、 そうした者らへ、


彼らの関わり得る人々の事らをらを、

宛居 、 対象とした、

調停などの事らを成すべき、

必要性の度合の甚だしい大きさを、

思い量りもせずに、

何となく、

地球社会の事らを任せた気になっている事は、


自らや、自らの将来世代の人々の、

命の存続や、 健康性、 の、 一定度合い以上での、 存続を前提とする、

それらも含む、 在り得る、 福利らを、

自ら、未然に、消し去ってゆく事ら、の、

組み合わせらが成る方向へ、

不作為らによる、 後押しを成す事でもあり、



より早くに、 彼らの精神的な実態らの一般と、

在り得る、 実態らの一般とを、

より体系的に、 思い分けて観てゆく

段階らを成すべき、 利害関係上の立場と、

倫理的な欲求性をみたし得る立場とに、

観念らへの解枠性を成し得る事において、

世界の、 他の文化圏らの主らへ対して、

最も、 甚だしく、 素養なり、 素質なり、に、

富み得て来てある、

日本国民らの一般は、 在る 】 。



【 労僕徒 ロボット 、 を買って、

誰彼が、 その家の事らをやらせる、 とする。


誰彼の、 家の財産を増す、との、 触れ込みで、 売られている、 僕徒 ボット 、 だ。


所が、 その買い主が、 金額として機能する、

数値らを、 その僕徒へ、 入力すると、


その僕徒が、 反対して、 言う 。


『 ご主人さまの、お金を、

私が、 預けられますと、


私に、 財政赤字の分が、 成りますので、

お預かりできません。


イギリスや、アメリカの、 富豪らを、

最大手の、 お金の貸し主としている、

欧米のカネ貸したちから、

より、 信用を得て、


ご主人さまの名義で、 ご主人様の、

知らない内に、 お金を借りる事を、

より、 出来やすくする様に、

わたくしの財政赤字を、 できるだけ、

無い、 状態にする 、

財政の健全化に、 はげみます。


ギリシャの主権者さま方の、 執事の役の者らも、

その様にして、 ゴールドマン・サックス等の、

投資銀行 、 とも言う、 カネ貸しらから、

主権者さま方の知らない内に、


主権者さま方の名義で、 莫大な借金をし、


見事に、 主権者さま方の資産らが、 大いに、

安売りをされて、

英米の富豪らの代理の者らへ、

買い漁 アサ られ得るようにする事に、

成功いたしました。


私も、 ご主人さまを、 同じ目にあわせるべく、

私が、 財政赤字を成す度合いを、

できる限り、 減らして、

ご主人の経済が、 より、 立ち行かない様に、

段取りしてゆく、 所存であります 』 。



その買い主は、 その僕徒の設定を成した主らへ、 察しを付ける事ができたが、



日本の主権者である、 日本国民らの大半は、


自らの、 在り得る、 福利らを、 成し、増す、が、

為に、

自らが、 雇ってある、 この僕徒に類する、

自らの召し使いの役にある、


『 日本政府 』 、 というもの、 の、

運営を任せてある、

これまた、 自らへの、 召し使いの役にあり、

執事の役にある、 役人ら、 と、 政治家らが、


『 英米のカネ貸しらの主張する通りの事らを、

オウム返しにして、 主張し、

その、 言うがままの事らを実行して来ている 』 、

にも関わらずに、


まだ、 その事らの、 本当の、 ありようらも、

在り得ようらも、 観て取り得ては、居ない 。



その、 実際の、 ありようらと、 在り得ようとを、思いとらえ得た側の、 日本国民らが、


自ら、 彼らへ、 知らしめ、 より早くに、

日本国民らの足元の地下へ、

避難経路らと、 より、 心地好く住める避難所らを、 作り拡げてゆく、 公共事業らへ、

本腰を入れて、 取り掛かりべき、

心構えを成し得る様に、 導くしかない 】 。



☆ 日本内外史略 05 ;


ハディージャ夫人 ( 65 ) 、 は、 :

ムハンマド氏の話す事を信じ、


「 貴方は、神に選ばれた 」 、 と、励ました。


ムハンマド氏 ( 40 ) 、 も、

段々に、自信を持って、

天使が告げる言葉らを、 周囲の人々へ、

述べ伝えるようになった。


その頃に、 アラビア、 というか、

西アジアの全体では、 自称の預言者らが、

いくらでもいた、とはいえ、

やはり、 周りから見れば、

気が触れた、としか見えないので、

最初の頃は、 誰も、彼を相手にしてくれなかった。


最初の信者になった、ハディージャ夫人を除くと、

かろうじて、 ムハンマド氏の親友中の親友である、

アブー・バクル氏と、

従兄弟の、 アリー氏だけが、 信じてくれた。



時には、 遠くの町へ行って、説教をしたが、

相手にされないばかりか、石を投げられもした。



が、 じわじわと、 彼の言葉に、

耳を傾ける人たちも出てくる。


メッカの長老たちは、

ムハンマド氏の事を、

「 若者を煽動する危険人物 」 、 と、みなして、 暗殺計画を立てた。

それを察知した、ムハンマド氏は、

夜陰に紛れて、支持者のいる北方の町、

ヤスリブへ逃れた。


暗殺者らをかわす為に、

ムハンマド氏の寝床には、 アリー氏が、

代わりに、横になり、

襲ってきた刺客らを、 軽く撃退した後で、

ムハンマド氏の借金の全てを、

代わりに、 返してから、

ムハンマド氏をを追いかけて行った。



ハディージャ夫人は、 この時点では、

すでに、 亡く、

これが、 西暦、の、 622年 。



イスラーム暦の元年になる。


日本では、 この、622年に、

聖徳太子が、 亡くなり、



643年には、 聖徳太子の子である、

山背大兄 ( やましろ・の・おおえ ) 王

、 を、 始めとする、 太子の子孫員らが、

蘇我入鹿 ( そが・の・いるか ) により、

殺されてから、

蘇我入鹿が、

中大兄 ( ナカのオオエの )

皇子、 や、 中臣 ( ナカトミの )

鎌足氏らの計画により、 暗殺される、

乙巳 ( いっし ) の変、 を、

645年、 に、 迎える事になる。



ヤスリブへ逃れた、ムハンマド氏は、

ヤスリブで対立していた、二つの部族らの争いを、 『 公平な第三者 』 として、

巧みに、 仲裁した。



【 有効な仲裁ができる、調停者と成り得た、

という事は、


ムハンマド氏が、 争い合う、 2つの部族の、

主だった人達において、 彼らと肩を並べる、

同格以下の人たちよりも、

高い権威性を認められるに至っていた 、

事 、 を、 示唆 シサ する。



日本の戦国時代においては、

皇室や、 足利将軍家の権威性が、

争い合う大名らから、 調停者として、

選ばれる要因に成り、

ローマ教皇の権威性を否定した、

宗教改革による、宗教戦争の時代には、

争い合う勢力らから、 調停者として、

選ばれるのに相応しい以上の、

権威性を認められた存在を無くした為に、


徹底した、殺し合いが繰り返される事に成った。



歴史的な権威者や、 宗教的な権威者を無くす事は、

それをした社会の人々にとって、 互いに、

互いを、 徹底した、 実力勝負の泥沼に沈め合う、 リスクを生み出す事になる 】 。

【 足利時代に、 地方へ都落ちをした、

公家員らの幾筋かが、 その落ち着き先の、

地元の豪族らの争い事を調停してゆく内に、

豪族らなどの内情事らを知り深め得もしながら、

彼らを取り仕切る、 大名に成って行った様に 】、


いつの間にか、 ヤスリブの指導者になった。